最終章 第127話 過去は消えない…それでも…
WHAを出た時には、すでに日が傾いていた。東アジア統括部の入る建物から職員たちが次々と出てくる。少し離れた大通りでは帰宅時間の車列ができ始め、駅へ向かう歩道には人の流れができていた。その中を、セルマは一人で歩いていた。
手には何も持っていない。藤堂に届いた手紙は、藤堂の机に置いてきた。持ち帰ったのは、その内容だけだった。
幸一郎の父親が入院している。末期癌。治癒を目的とした治療はすでに終わっており、残された時間は長くない。父親本人は幸一郎へ知らせることを望んでいない。それでも妻は、夫との約束を破って藤堂へ手紙を送った。
藤堂と話した時点で、結論はほとんど出ていた。幸一郎へ伝える。会えとは言わない。会うなとも言わない。ただ、選ぶために必要な事実だけを伝える。それだけだった。
それでも、セルマの足取りは普段より少し遅かった。
知らせなければ、少なくとも今夜は何も変わらない。幸一郎はいつも通り夕食を食べ、テレビを見て、くだらないことを言って笑うだろう。眠くなれば寝て、明日の予定を確認し、気が向けば攻略報告を読む。三年前から積み重ねてきた、何でもない毎日。八年間、幸一郎にはなかった生活だった。
そこへ今から、自分が十二年前の家族を持ち込む。
セルマは横断歩道の前で足を止めた。信号待ちの人々が並び、学生たちが笑いながら横を通り過ぎていく。知らせないこともできる。そうすれば幸一郎の生活は変わらない。だが、父親が死んだあとではもう選べない。
会いたくないのなら、それでいい。会いたいと思ったのなら、それもいい。何もしないことを選んでもいい。そのどれを選ぶ権利も、知らなければ存在しない。
信号が青へ変わった。セルマは周囲の人々と一緒に歩き出した。
十二年前の幸一郎を、彼女は知らない。記録として知っていることはある。本人から聞いたこともある。だが、17歳だった彼が何を思い、何を諦め、どんな気持ちで六甲山へ向かったのか。そのすべてを知っているわけではない。
だからこそ、知らない自分が彼の代わりに答えを決めてはいけない。それだけは分かった。
家へ戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
リビングから幸一郎の声が返ってきた。上着を脱いで入ると、幸一郎はソファに座ってテレビを見ていた。テーブルには飲みかけのコーヒーと端末。画面ではどこかの攻略隊が410Fを目指しているというニュースが流れている。
「今日ちょっと遅かったな」
「藤堂さんに呼ばれていました」
「藤堂さんに?」
幸一郎がテレビから目を離した。
「またなんかあった?」
「……ありました」
「攻略?」
「いいえ」
幸一郎は一瞬だけセルマを見たが、それ以上は聞かなかった。セルマは上着をいつもの場所へ掛け、そのままキッチンへ向かった。
「今日、魚だったよな?」
「はい」
「何?」
「鮭です」
「お、いいな」
幸一郎がソファから立ち上がり、冷蔵庫を覗き込む。
「これ?」
「それです」
「俺、何やればいい?」
「では、お味噌汁をお願いします」
「了解」
それからしばらく、二人はいつも通り夕食の準備をした。幸一郎が味噌汁を作り、セルマが魚を焼く。冷蔵庫に残っていた副菜を出し、炊いてあった米を温める。特別なことは何もない。
食卓に料理を並べ、向かい合って座った。
「いただきます」
「いただきます」
幸一郎は鮭を一口食べ、満足そうに頷いた。
「うん、美味い」
「昨日も魚でしたよ」
「魚は毎日でもいいだろ」
「一昨日、お肉の時にも同じことを言っていました」
「美味いものは毎日でもいいんだよ」
「随分と範囲が広いですね」
幸一郎が笑った。
いつもの会話だった。
テレビでは世界のダンジョン攻略について報じられている。少し前なら、その話題の中心には必ず幸一郎がいた。今では違う。世界は世界で勝手に進み、幸一郎は自宅で焼き鮭を食べながらそれを眺めている。
その光景を、セルマは三年間かけて当たり前のものとして受け入れてきた。
だからこそ、壊したくないと思った。
そして、その考えが浮かんだ瞬間、セルマは自分の中でそれを否定した。
幸一郎の日常を守る。それは聞こえのいい言葉だった。だが、それを理由に知らせないと決めれば、結局は自分が幸一郎の人生を管理することになる。
食事が終わると、幸一郎が皿を重ねた。
「俺、洗うよ」
「お願いします」
二、三枚を持ち上げたところで、幸一郎の手が止まった。
「セルマ」
「はい」
「今日、なんかあっただろ」
セルマは幸一郎を見る。
「分かりますか?」
「なんとなく。藤堂さんに呼ばれたって言ってから、ちょっと変だし」
三年間、幸一郎のことを見てきたのはセルマだけではない。幸一郎もまた、三年間セルマを見てきた。
セルマは小さく息を吐いた。
「幸一郎さん。少し、お話があります」
幸一郎は持っていた皿をテーブルへ戻した。
「……うん」
二人はそのまま席へ座り直した。
会ってください。会った方がいいです。後悔します。家族なのですから。最後なのですから。
そのどれも、自分が言うべき言葉ではない。
セルマは事実だけを選んだ。
「お父様が入院されています」
幸一郎の表情が止まった。
「……親父が?」
「はい」
「何で?」
「癌です。末期だそうです。治癒を目的とした治療は、すでに終わっています」
幸一郎は何も言わなかった。
セルマは続ける。
「残された時間も、長くないそうです」
部屋にはテレビの音だけが流れていた。画面の中では、つい先ほどまで見ていた攻略隊とは別のニュースが始まっている。部屋も、食卓も、そこに置かれた食器も何一つ変わっていない。
ただ、幸一郎だけが動かなかった。
「……なんでセルマが知ってる?」
やがて幸一郎が尋ねた。
「お義母様から、藤堂さんへ手紙が届きました」
「俺じゃなくて?」
「はい」
「……親父は知ってるの?」
「いいえ。お父様は、幸一郎さんへ知らせないようにと言われていたそうです」
幸一郎が僅かに眉を寄せた。
「親父が?」
「はい」
「じゃあ、会いに来いって話じゃないんだな」
「違います」
セルマはすぐに答えた。
「お父様は、会いに来てほしいとは言っていません。むしろ、自分の病気を幸一郎さんへ知らせないでほしいと言われていたそうです」
「……そっか」
幸一郎は視線を落とした。
しばらく何も言わない。
セルマも待った。
やがて幸一郎が口を開く。
「それで?」
「それだけです」
「……それだけ?」
「はい」
幸一郎が顔を上げた。
セルマはその目を見たまま言った。
「私は、幸一郎さんに会いに行ってくださいとは言いません。会わないでくださいとも言いません。今すぐ何かを決める必要もありません」
「……うん」
「ただ、知らないまま選択肢がなくなることだけは、違うと思いました。だから、お伝えしました」
それ以上、セルマは何も言わなかった。
父親が何を後悔しているのか。義母が何を考えて手紙を書いたのか。家族が何を望んでいるのか。
今、それを幸一郎へ背負わせる必要はない。
会うのか。
会わないのか。
何もしないのか。
それを決めるために必要な事実は、もう伝えた。
長い沈黙のあと、幸一郎が小さく息を吐いた。
「……ちょっと考えていい?」
「もちろんです」
「今、決めなくても?」
「はい」
「行かなくても?」
セルマは一度も迷わなかった。
「はい」
幸一郎はしばらくセルマを見ていた。
「……そっか」
それだけ言って、立ち上がった。
「皿、洗ってくる」
「お願いします」
食器を持ってキッチンへ向かう。しばらくすると水道の音が聞こえ始めた。
セルマは椅子に座ったまま、その背中を見ていた。
いつもと同じように皿を洗っている。だが、何を考えているのかは分からない。
分からなくていい。
三年間そばにいる。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、同じベッドで眠っている。それでも、幸一郎のすべてを知っているわけではない。
そして、知っていたとしても、代わりに決めていいわけではない。
セルマは立ち上がり、何も言わず幸一郎の隣へ行った。洗い終わった皿を受け取り、布巾で水気を拭いていく。
幸一郎も何も言わなかった。
一枚洗う。
一枚受け取る。
一枚拭く。
いつもの夜と同じように、二人で食事の後片付けを続けた。
セルマが決めたのは、幸一郎が父親に会うことでも、会わないことでもなかった。赦すことでも、赦さないことでもない。
ただ、彼が自分で選べるようにすること。
そして。
その答えが出るまで、隣にいることだった。




