最終章 第126話 セルマの決断
「……家族のことです」
その言葉を聞いた瞬間、セルマの表情が僅かに変わった。
藤堂はそれ以上説明せず、机の上に置かれていた封筒を差し出した。
「私宛てに届きました」
セルマは受け取る前に、宛名を確認した。
WHA東アジア統括、藤堂剛。
幸一郎の名前はない。
「差出人は?」
藤堂が答える。
セルマは数秒黙ったあと、封筒を受け取った。
「読んでも?」
「そのために呼びました」
便箋を取り出す。
執務室が静かになった。
正確には、静かなのはこの部屋だけだった。扉一枚を隔てた向こうでは、WHA東アジア統括部がいつも通り動いている。電話が鳴り、職員が行き交い、世界各地から送られてくる攻略情報が処理されていた。
セルマは、その喧騒から切り離されたように手紙を読んでいた。
夫が入院していること。
末期癌であること。
治療による回復はもう望めず、残された時間も長くないこと。
本人は、幸一郎へ知らせることを望んでいない。
会いに来てほしいとも言っていない。
それでも妻は、夫との約束を破って藤堂へ手紙を送った。
最後まで読んだセルマは、すぐには顔を上げなかった。
最後の数行をもう一度読む。
『幸一郎が知らないまま夫が亡くなったとしても、会わなかったとしても、それを幸一郎の責任にだけはしないでください。』
やがて便箋を静かに畳んだ。
「……いつ届いたんですか?」
「今日です」
「病状は?」
「書かれている以上のことは、まだ確認していません」
セルマが藤堂を見る。
「確認しなかったんですか?」
「先にあなたと話すべきだと思いました」
「私と?」
「はい」
藤堂は椅子へ座り直した。
「私は、三年前の真神君を知っています」
セルマは黙って聞いている。
「六甲山から戻ってきた直後の彼を知っている。警察とのことも、家族とのことも、その後どうなったのかも、ある程度は知っています」
ある程度。
藤堂は、あえてそう言った。
すべてを知っているとは言えなかった。
八年間の地下生活を知っているわけではない。
17歳の少年が家を失い、祖父母宅へ移り、そこから六甲山へ向かうまでのすべてを見ていたわけでもない。
そして何より。
「ですが、今の真神君を私は知りません」
セルマの眉が僅かに動いた。
「知らない、ですか」
「あなたほどには」
藤堂は少し笑った。
「最近何を食べているのかも知りませんし、休日に何をしているのかも知らない。今朝、機嫌が良かったのか悪かったのかも分かりません」
「今朝は二度寝しようとしていました」
藤堂が一瞬黙った。
「……そうですか」
「はい」
「平和で何よりです」
セルマの口元が僅かに緩んだ。
ほんの一瞬だけだった。
机の上には、父親の死期を知らせる手紙がある。
すぐに空気は戻った。
「今の真神君を一番近くで見ているのは、あなたでしょう」
セルマは手紙へ視線を落とした。
「そうかもしれません」
「だから呼びました」
「ですが」
セルマは静かに言った。
「私は、昔の幸一郎さんを知りません」
今度は藤堂が黙った。
「17歳の幸一郎さんを見たことはありません。何があったのかは知っています。記録も読みました。本人から聞いたこともあります」
だが。
それは知識だった。
17歳の幸一郎がどんな声で「やっていない」と言ったのか。
家を出る時、どんな顔をしていたのか。
祖父母宅でどんな夜を過ごしたのか。
六甲山へ向かった朝に何を考えていたのか。
セルマは知らない。
「藤堂さんの方が、私より知っていることもあります」
「そうですね」
「私の方が知っていることもあります」
「はい」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
奇妙なものだった。
藤堂は過去を知っている。
セルマは現在を知っている。
だが。
この手紙を読んだ幸一郎が何を思うのか。
それだけは、どちらも知らなかった。
「藤堂さん」
「はい」
「私に、どうするべきか決めてほしいんですか?」
藤堂はすぐに首を振った。
「いいえ」
セルマは僅かに目を細めた。
「では?」
「私が決めるべきではないと思ったから、あなたを呼びました」
「ですが、私が決めれば同じです」
「ええ」
藤堂は頷いた。
それが分かる相手だから、呼んだ。
「知らせないという判断もできます。父親本人が望んでいるのですから、理由は成立します」
「はい」
「逆に、知らせるべきだという判断もできます。知らなければ、真神君は会うか会わないかを選ぶことすらできない」
「はい」
「どちらも正しいように見えます」
「そうですね」
藤堂は机の上で指を組んだ。
「だから困っています」
セルマは少しだけ藤堂を見た。
「随分素直ですね」
「私も歳を取りましたから」
「関係ありますか?」
「ないかもしれません」
また、僅かに空気が緩んだ。
それでも答えは出ない。
セルマは手紙を机へ戻した。
「幸一郎さんは、家族を憎んでいます」
藤堂は何も言わなかった。
「少なくとも、何も感じなくなったわけではありません」
それは三年間、隣にいたから分かることだった。
幸一郎は家族の話を毎日のようにするわけではない。
恨み言を繰り返すこともない。
今の生活を過去だけで埋めることもしない。
だからといって、消えたわけではない。
赦したわけでもない。
「でも」
セルマは続けた。
「だから会わない、と私が決めることもできません」
藤堂が頷く。
「私も同じ考えです」
「会った方がいい、とも言えません」
「ええ」
「会えば後悔するかもしれません」
「はい」
「会わなければ、後悔するかもしれません」
「そうでしょうね」
セルマはそこで黙った。
窓の外では午後の街が動いている。
誰かが仕事をしている。
誰かが学校から帰る。
誰かが病院へ見舞いに向かう。
そして、どこかの病室では。
一人の父親に残された時間が、今も減り続けている。
これは待てる問題ではなかった。
だが、急いで答えを出せばいい問題でもなかった。
「……伝えましょう」
セルマが言った。
藤堂は顔を上げた。
「ただし」
「はい」
「この手紙は、そのまま渡さない方がいいと思います」
藤堂は少し考えてから頷いた。
「理由を聞いても?」
「情報が多すぎます」
セルマは手紙を見る。
父親の後悔。
母親の迷い。
夫婦の約束。
家族の過去。
それらを一度に幸一郎へ背負わせる必要はない。
今、彼に必要なのは。
選択するための事実だけだ。
「父親が入院している。末期癌で、残された時間は長くない」
セルマは淡々と言った。
「本人は、幸一郎さんに来てほしいとは言っていない」
藤堂が頷く。
「それだけですか」
「それで十分だと思います」
会えとも言わない。
赦せとも言わない。
親子なのだからとも言わない。
最後くらいとも言わない。
ただ。
知らなければ選べない事実だけを渡す。
「そのあとは?」
藤堂が尋ねた。
セルマは少しだけ不思議そうに彼を見た。
「幸一郎さんが決めます」
当たり前のことだった。
それなのに。
十二年前には、その当たり前のことができなかった。
周囲には、幸一郎を知っていると思っていた人間が大勢いた。
父親。
家族。
教師。
警察。
それぞれが、自分は分かっていると思っていた。
そして。
本人より先に答えを決めた。
今。
この部屋にいる二人は違った。
藤堂は過去の幸一郎を知っている。
セルマは現在の幸一郎を知っている。
だからこそ。
二人とも分かっていた。
知っていることと、代わりに決めていいことは違う。
藤堂は机の上の手紙を見た。
「では、お願いします」
「はい」
セルマは封筒を手に取った。
だが、藤堂は最後に一つだけ尋ねた。
「リンドベルグさん」
セルマが振り返る。
「真神君は、どうすると思いますか?」
セルマは答えなかった。
少し考えたあと。
「分かりません」
それだけ言った。
藤堂は僅かに笑った。
「そうですか」
「はい」
「あなたでも?」
セルマは封筒を持ったまま、静かに頷いた。
「幸一郎さんですから」
その答えに。
藤堂も、それ以上は尋ねなかった。
知っている者がいた。
知らない者もいた。
そして、人は誰かをどれだけ知っていたとしても。
その人が最後に何を選ぶのかまで、知ることはできない。
だから。
選択肢だけを渡す。
選ぶのは。
真神幸一郎だった。




