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最終章 第125話 知っている者と知っていない者

数日後、病室を訪れたのは二人の老人だった。


面会時間が始まって間もない午後。病棟の廊下には配膳を終えたワゴンが残り、ナースステーションでは看護師たちが忙しく行き交っている。その中を、老夫婦はゆっくりと歩いてきた。


父と母だった。


「……来たのか」


ベッドの上から二人を見て、男は少しだけ驚いた顔をした。


「見舞いに来て悪いか」


父はそう言いながら、持っていた紙袋を妻へ渡した。母はそれを病室の棚へ置くと、息子の顔をじっと見た。


「また痩せたね」


「食えないからな」


「少しは食べなさい」


「食えるなら食ってるよ」


それだけ聞けば、どこにでもある親子の会話だった。


息子が入院し、年老いた両親が見舞いに来る。病室という場所では珍しくもない光景で、看護師が一度様子を確認したあと、三人だけが残された。


しばらくは病気の話をした。痛みはどうか。眠れているのか。医師は何と言っているのか。息子は短く答えた。


三人とも、病状がどういう段階にあるのかは知っていた。


だからこそ、「治ったら」という言葉を誰も使わなかった。


やがて話すことがなくなり、テレビだけが小さな音を流し始めた。


世界のどこかで、新しい攻略隊が400Fを越えたというニュースだった。その関連として、一人の男の写真が画面に映る。


真神幸一郎。


父がテレビへ目を向けた。母も気づいたが、誰も何も言わなかった。


完全攻略数12。Ex12。エベレストD、700F。


世界では、もう聞き慣れた名前と数字になっている。


だが、病室にいる三人にとっては、それよりずっと昔から知っている名前だった。


「……なあ」


男が口を開いた。


「幸一郎が、そっちにいた頃さ」


そこで言葉が止まる。


「あいつ……どんなだった?」


母の表情が僅かに変わった。父は窓際から離れ、空いている椅子へ腰を下ろした。


「どんなって?」


「俺、知らないんだよ。うちを出たあと、あいつがどうしてたのか」


幸一郎が祖父母の家へ身を寄せていたことは、当時から知っていた。


だが、そこで何をしていたのか。何を食べ、何を話し、どんな顔で眠っていたのか。


父親だった自分は、何も知らなかった。


老人はしばらく考えたあと、静かに答えた。


「普通だったよ」


「……普通?」


「ああ。普通の高校生だった。朝起きて、飯食って。手が空いてりゃ家のことを手伝って、婆さんに頼まれりゃ買い物にも行った。夜になれば風呂入って寝る。そんなもんだ」


「……そうか」


「最初はね」


今度は母が話した。


「ご飯を出すたびに、あの子、謝ってたのよ」


「謝る?」


「『すみません』って。朝ご飯を出しても、すみません。お昼を作っても、すみません。お風呂を沸かしても、すみません」


母は少し困ったように笑った。


「だから言ったの。ここはあなたの家でもあるんだから、ご飯を出されたら『いただきます』でいいのよって」


テレビの中では、専門家が700Fの攻略について語っていた。


人類史上、ただ一人。


世界最深。


そんな言葉が病室を流れていく。


けれど祖父母が話しているのは、その男のことではなかった。


十二年前。


飯を一食出されるたびに、すみませんと頭を下げていた17歳の少年の話だった。


「……他には?」


父が息子を見る。


「聞いてどうする」


責めるような声ではなかった。


「……知りたい。今さらだけどな」


老人は視線を落とした。


「電話だな」


「電話?」


「鳴るたびに、あいつの顔が変わった。何してても一回止まるんだ。誰からなのか気にしてた」


男の指が僅かに動いた。


「……俺たちからだと思って?」


「さあな。聞かなかった。言いたくなったら、自分から言うだろうと思ってた」


その言葉が、男には痛かった。


祖父母は、幸一郎が話したくないことを無理に聞かなかった。


自分たちは。


幸一郎が何度話しても、聞かなかった。


「夜中に起きてることもあったわね」


母が続けた。


「眠れないのかと思って声をかけたら、大丈夫だって。次の日は普通に起きてきたけど。でもね、少しずつ、ご飯の時に謝らなくなったの」


母は、ほんの少し笑った。


「そのうち『いただきます』って言うようになった」


それは、本来なら何でもない話だった。


子供が飯を食べる。風呂に入る。眠る。家の手伝いをする。電話を気にする。そして、その家に少しずつ慣れていく。


世界的な英雄の逸話として語られるようなものではない。


だからこそ、男には堪えた。


17歳の幸一郎が必要としていたものは、特別な何かではなかった。


「……俺が、それを家でやってやらなきゃいけなかったんだよな」


父は息子を慰めなかった。


否定もしなかった。


「ああ」


それだけだった。


警察が悪かった。学校が悪かった。嘘をついた人間が悪かった。間違った情報を信じてしまった。


事情なら、いくらでもあった。


だが、父親として何をしなかったのか。その答えまで曖昧にする必要は、もうなかった。


やがて母が尋ねた。


「幸一郎には?」


男は目を開けた。


「知らせない」


二人とも、何を、とは聞かなかった。


「そうか」


「……会いたくないわけじゃないぞ」


母が頷いた。


「分かってるよ」


「会いたいよ。当たり前だろ。息子なんだから」


男は笑った。痩せた頬を涙が伝った。


「でも、それは俺が会いたいだけだ。死ぬから会いに来いなんて、言えない」


午後の日差しが窓から差し込み、白い床の上をゆっくり移動していた。


「最後くらいって言えば、来るかもしれない。でも、それじゃまた同じだ。父親だから。家族だから。最後だからって……また、あいつに何かさせることになる」


父はしばらく息子を見ていた。


「なら、呼ぶな」


「ああ」


「ただし、幸一郎が自分で来ると言ったなら、その時は余計なことを考えるな」


老人は静かに続けた。


「会え」


男の顔が歪んだ。


「……ああ」


それ以上、三人は幸一郎について話さなかった。


やがて面会時間が終わり、老夫婦は病室を出た。廊下を歩きながら、母が一度だけ振り返る。


閉じた扉の向こうには、自分たちの息子がいる。


その息子が十二年前、自分の息子を失った。


そして今、その時間を取り戻せないまま、自分の人生を終えようとしている。


二人は何も言わず、並んで病棟の廊下を歩いていった。


病室には男が一人残った。


その脳裏に浮かんでいたのは、700Fを歩く世界最強の男ではない。


祖父母の家の食卓で。


ようやく「すみません」ではなく、「いただきます」と言えるようになった。


17歳の息子だった。


* * *


数日後。


WHA東アジア統括部では、いつもと変わらない時間が流れていた。


各地から届く攻略報告。深層素材の分析結果。新型装備の評価。攻略隊からの問い合わせ。各国支部との調整。


三年前とは、世界のダンジョン攻略を取り巻く状況そのものが変わっている。


400Fを越える攻略隊は、もはや一つではない。一人の突出した攻略者が持ち帰ったものを研究し、その成果を次の攻略隊が使う。そこで得られた素材が研究機関へ渡り、さらに次の装備へ変わる。


その循環は、すでに世界各地で動いていた。


真神幸一郎という一人の男が先頭を歩かなければ進めなかった時代から、人類そのものが少しずつ前へ進む時代へ。


当然、WHAの仕事が減るわけではない。


むしろ増えていた。


「欧州側へ返してください。東アジア統括で判断する案件ではありません」


藤堂剛の机にも、朝から途切れることなく書類が運ばれていた。


「こちらは研究部門だけで止めないように。攻略部門にも共有を」


「分かりました」


職員が出ていく。


入れ替わるように別の職員が入り、郵便物の束を机の端へ置いた。


WHAには今でも紙の郵便物が届く。行政機関からの正式文書もあれば、研究機関からの資料もある。所属ハンターへのファンレターまで紛れ込む。


その一通も、最初はただの郵便物だった。


WHA東アジア統括 藤堂剛様。


手書きだった。


藤堂が裏返す。


差出人を確認したところで、手が止まった。


ほんの数秒。


一日中ほとんど同じ速度で書類を処理していた男の手が止まれば、それだけでも近くにいる職員には何かあったと分かる。


藤堂は何も言わず、封を切った。


その間にも統括部の仕事は続いていた。


電話が鳴る。職員が廊下を行き交う。会議室では次の攻略計画が話し合われ、大型モニターには活動中の攻略隊に関する情報が表示されている。


世界は止まらない。


その中で藤堂だけが、一枚の便箋を読んでいた。


夫が入院している。


末期癌。


治癒を目的とした治療は終わっている。


残された時間は長くない。


父親本人は、幸一郎へ知らせることを望んでいない。


会いに来てほしいとも言っていない。


それでも妻は、夫との約束を破ってこの手紙を書いた。


藤堂は最後まで読み、もう一度最後の部分へ目を落とした。


『父親の最期に間に合わなかったとしても、それを幸一郎の責任にはしないでください。』


世界にとっては、何でもない話だった。


一人の男が癌で死のうとしている。


世界中の病院で、毎日のように起きている。


新しいダンジョンが出現したわけではない。攻略隊が壊滅したわけでもない。国際情勢が動くわけでもない。ニュースにもならない。


ただ、一人の父親が死のうとしている。


そして、その息子が真神幸一郎だった。


三年前なら、その名前だけで周囲が動いた。


JHA。


警察。


政府。


マスコミ。


家族。


誰もが彼について何かを決めようとした。


だが今、藤堂の机にある手紙が訴えているのは、その逆だった。


もう一度、本人以外の人間が決めてしまってよいのか。


藤堂は眼鏡を外した。


「……私に送ってきましたか」


なぜ自分なのかは分かる。


三年前。幸一郎が六甲山から帰還した時、自分はJHA大阪支部にいた。家族の事情を知り、警察とも話し、幸一郎本人とも向き合った。


今はWHAにいる。


だからこの手紙は、WHA会長でも幸一郎本人でもなく、藤堂剛へ送られてきた。


父親の意思を尊重して知らせない。


親族の死期が迫っているのだから、本人へ知らせる。


どちらにも理屈はある。


だが、どちらを選んでも最後に決めているのは藤堂だった。


「……それでは同じでしょうね」


十二年前。


誰かが良かれと思って決めた。


本人のためだと言って、選択肢を減らした。


それが何度も繰り返された。


一方で、この手紙をそのまま幸一郎へ渡して「あとは自由に決めてください」とすることも、藤堂には違うように思えた。


末期癌。


残された時間は長くない。


これは待てる話ではない。


藤堂は端末へ目を向けた。


組織としてなら、相談相手はレイチェル・アシュフォードになる。


だが、これは攻略ではない。


契約でもない。


政治でもない。


現在の幸一郎がどのように暮らし、何を嫌い、どこまで他人に踏み込まれることを許すのか。


それを最も近くで知っている人間は、別にいる。


数分後。


執務室の扉がノックされた。


「どうぞ」


銀色の髪を揺らし、一人の女性が入ってきた。


「お呼びでしょうか」


セルマ・リンドベルグだった。


「すみません。少し時間をいただけますか」


「はい」


セルマは扉を閉め、机の前まで来た。


「真神君のことで、相談があります」


赤い瞳が藤堂を見る。


「攻略ですか?」


「いいえ」


藤堂は首を振った。


そして、一通の手紙へ手を置いた。


「……家族のことです」


セルマの表情が僅かに変わった。


執務室の外では、今日も世界が動いていた。


400Fを越えた攻略隊が、次の一階を目指している。研究者たちは新しい素材を調べ、技術者たちは次の装備を作り、WHAには世界各地から新しい報告が届き続けている。


三年前。


真神幸一郎がいなければ動かなかったものの多くが、今では彼が何もしなくても動いている。


その一方で。


十二年前から止まったままだった一つの時間が、世界のどこにも影響しない、たった一通の手紙となって。


今。


二人の前に置かれていた。

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