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最終章 第124話 そうだったとしても…

病院を出た頃には、すでに日は落ちていた。


面会時間を終えた人々が、正面玄関からぽつぽつと出てくる。駐車場では家族を迎えに来た車がライトを点け、病棟の窓には一つ、また一つと明かりが灯っていた。


女は玄関前で一度だけ振り返った。


夫がいるのは、あの建物のどこかだ。


毎日のように通っている。病室が何階の何号室なのかも当然知っている。それでも外から見上げれば、無数に並んだ窓のどれが夫の部屋なのか、すぐには見つけられなかった。


――知らせなくていい。


病室で聞いた夫の言葉が残っていた。


幸一郎には知らせなくていい。会いに来てほしいとも思わない。自分が死ぬからといって、あいつの生活にもう一度割り込むようなことはしたくない。


それは、十二年前の夫からは考えられない言葉だった。


あの頃のこの家では、「家族だから」という言葉がよく使われた。


家族だから分かるはずだ。家族だから迷惑をかけるな。家族だから本当のことを話せ。父親の言うことを聞け。みんなが困っているのだから、少しは周りのことを考えろ。


今になって振り返れば、どれも幸一郎に何かを求める時に使われた言葉だった。


女は病院をあとにした。


自宅へ戻ると、家の中は静かだった。夫が入院してから、その静けさは日に日に深くなっている。


娘たちには娘たちの生活がある。父親の容体が悪化してからは頻繁に顔を見せるようになったが、それでも仕事もあれば家庭もある。二十四時間、病院にいることはできない。


十二年という時間は、誰に対しても同じように流れていた。


娘たちは大人になった。


自分たちは老いた。


そして、あの家族写真の中にいた少年は、今では世界中が名前を知る男になっている。


ただし。


その十二年間を、この家で過ごしたわけではない。


女は夫の着替えを洗濯機へ入れ、明日持っていく衣類を用意した。冷蔵庫を開けたところで、夕食を作る気になれず、そのまま閉めた。


テレビをつける。


偶然だった。


画面に幸一郎が映っていた。


『――WHA所属、真神幸一郎氏。現在の完全攻略数は12。旧JHA規定を基準としたEx12という表記も――』


女は立ったまま画面を見た。


最近は珍しくもない。


テレビをつければ、時折あの子の名前を聞く。


700F。


完全攻略。


世界最強。


Ex12。


どれも、自分の知っている幸一郎とは結びつかない言葉だった。


いや。


それ以前の問題なのかもしれない。


今の幸一郎が何を食べるのか。


どんな家で暮らしているのか。


誰と笑うのか。


休みの日に何をしているのか。


自分は何一つ知らない。


世界中の人間が真神幸一郎の記録を知っている。


けれど、かつて家族だった自分たちは、今の彼の日常を知らなかった。


それが十二年という時間だった。


女はテレビを消した。


静けさが戻る。


食卓には夫の椅子がある。その隣には自分の椅子があり、娘たちが帰ってくれば座る場所もある。


幸一郎が座っていた場所も、昔はあった。


だが、その席がなくなったのがいつだったのか、女にはもう思い出せなかった。


病室で夫は言った。


――もう、あいつに決めさせてやれよ。


その言葉だけは正しいと思った。


だから頷いた。


知らせない。


末期癌であることも、残された時間が長くないことも、夫が本当は会いたがっていることも。


何も伝えない。


それなら幸一郎を煩わせることはない。


そこまで考えたところで、女は動きを止めた。


「……違う」


誰もいない家に、小さな声が落ちた。


知らせない。


その判断をしているのは誰だ。


幸一郎ではない。


また、自分たちだった。


知らなければ、幸一郎は選べない。


会いたくないのなら、それでいい。父親を赦していないのなら、それも当然だ。知ったうえで来ないことを選ぶなら、それは幸一郎自身の選択になる。


だが、父親が死んだあとで初めて知ったなら。


その時にはもう、会うという選択肢そのものが存在しない。


女は食卓の椅子に座った。


知らせることが正しいのか。


知らせないことが正しいのか。


分からなかった。


十二年前なら、きっと分かったつもりになっていただろう。


あの頃の自分たちは、いつもそうだった。


警察がそう言っている。


学校がそう判断した。


娘たちを守らなければならない。


家庭を守らなければならない。


だから、こうするしかない。


そうやって一つずつ選択肢を消していき、最後には17歳の少年から、この家にいるという選択肢まで奪った。


その結果、幸一郎が選んだのが六甲山だった。


今では世界が「伝説の始まり」と呼ぶ場所。


けれど、この家族にとってだけは違う。


あれは成功への第一歩などではない。


一人の少年が、地上に残る場所を失った末に選んだ入口だった。


女は長い間、動かなかった。


やがて立ち上がると、棚から便箋を取り出した。


幸一郎へ書くつもりはなかった。


それだけは迷わなかった。


『お父さんが死にそうです』


『最後くらい会いに来てください』


『家族なのだから』


そんな言葉を、自分が幸一郎へ送ることだけはできなかった。


だが、自分一人で「知らせない」と決めることもできなかった。


そこで浮かんだ名前が、藤堂剛だった。


三年前、八年ぶりに幸一郎が地上へ戻った時、自分たち家族より先に彼と向き合った人間。JHAを離れた今もWHAにいて、幸一郎との関係を保っている。


何より。


こちら側の事情も、幸一郎が何をされたのかも知っている。


女は便箋へ向かった。


最初の一枚は、途中で破った。


二枚目も書き直した。


どうしても「お願い」という形になってしまう。


幸一郎に会わせてほしい。


夫の最期に間に合わせてほしい。


そんな願いが、自分の中にも確かにあるからだった。


三枚目で、ようやく書き方を変えた。


お願いするのではない。


事実だけを伝える。


夫が入院していること。


末期癌であること。


治癒を目的とした治療はすでに終わり、残された時間が長くないこと。


そして、夫本人は幸一郎へ知らせることを望んでいないこと。


『夫との約束を破って、この手紙を書いております。』


そこまで書いて、女はしばらくペンを止めた。


『幸一郎に会いに来るよう伝えてほしい、とは申しません。夫に会わせてほしいとも申しません。私たちには、それをお願いする資格はないと思っています。』


続く一文を書くまでには、さらに時間がかかった。


『ただ、何も知らないまま父親を失うことまで、私たちが幸一郎に代わって決めてしまってよいのか、私には分かりません。』


それが、この手紙を書いた理由だった。


正しいからではない。


むしろ逆だった。


もう、自分が正しいとは思えないからだった。


最後に一つだけ、書き加えた。


『もし、このことが幸一郎へ伝わるのであれば、どうか必ずお伝えください。会わなくても、返事をしなくても構いません。父親の最期に間に合わなかったとしても、それを幸一郎の責任にはしないでください。』


書き終えてから、女は何度も読み返した。


「家族だから」という言葉は、一度も書かなかった。


封筒の宛名にも、幸一郎の名前は書かなかった。


WHA東アジア統括 藤堂剛様。


翌朝。


病院へ向かう途中、女は郵便ポストの前で足を止めた。


通勤する人々が横を通り過ぎていく。信号が変わり、車が動き出す。いつもと変わらない朝だった。


手の中には、一通の封筒がある。


夫との約束を破る手紙だった。


これが正しいのかは、まだ分からない。


おそらく最後まで分からないだろう。


女は封筒を投函した。


乾いた音が、小さく響いた。


十二年前。


この家族は、正しいと思って幸一郎の選択肢を奪った。


だから今度は。


正しい答えを、自分たちで決めるのをやめた。

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