↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
129/136

最終章 第128話 別離…

「セルマ」


「はい」


「花、一輪だけ用意できる?」


セルマは手を止め、幸一郎を見た。


「花、ですか?」


「うん」


「どのような花を?」


幸一郎は少しだけ考えた。


「……青いやつ。小さいのでいい」


「今日ですか?」


「できれば」


セルマは理由を尋ねなかった。


「分かりました」


「ありがとう」


それだけだった。


* * *


夜。


消灯時間を過ぎた病院は、昼間とは違う時間を刻んでいた。照明を落とした廊下では夜勤の看護師が静かに行き交い、ナースステーションには白い光が残っている。眠れずに天井を眺めている患者もいれば、家族の付き添う病室もある。明日の検査を待つ者も、退院の日を待つ者も、もう退院という言葉を使われなくなった者もいた。


そのうちの一室で、一人の男が眠っていた。


薬の影響もあり、最近は眠っている時間が増えている。ただし深い眠りが長く続くことは少ない。その夜も何かの拍子に意識が浮かび、男はゆっくりと目を開けた。見慣れた薄暗い天井がある。どれほど眠っていたのか分からない。喉が渇いたと思い、何気なく足元へ視線を向けた。


そこで、目が止まった。


ベッドの足元。そのさらに少し後ろに、一人の男が立っていた。


眠りから覚めたばかりの頭では、すぐには理解できなかった。何度か瞬きをする。それでも姿は消えない。暗さに目が慣れ、その顔がはっきりしたところで、父親の呼吸が止まった。


十二年前より大人びている。当たり前だった。当時17歳だった少年は、もう29歳になっている。テレビでも新聞でもネットでも見た。今では世界中が知っている顔だったが、父親がそれを見間違えるはずはなかった。


「……幸一郎?」


「うん」


それだけ返ってきた。


父親はしばらく動けなかった。夢ではないのかと思ったが、幸一郎は何も言わず、足元から少し離れた場所に立っている。やがて父親は震える手を動かし、ベッド脇の操作パネルを探した。一度指が滑り、もう一度ボタンを押す。小さなモーター音とともに背もたれがゆっくり起きていく。途中で息苦しくなって止め、呼吸を整えてから、もう一度押した。


幸一郎は手を貸さなかった。父親も求めなかった。


時間をかけて上半身が起き、ようやく二人の視線の高さが近づく。


「……本当に、幸一郎なんだな」


「そうだよ」


「いつからいた?」


「少し前から」


「起こしてくれればよかったのに」


「寝てたから」


「……そうか」


十二年ぶりに父親と息子だけで交わした会話は、それだけだった。


病室の外では夜勤の看護師が一人、記録を確認しながら廊下を通り過ぎた。そのすぐ近くに、現在世界で唯一のEx12がいるとは知らない。昼間なら真神幸一郎が病院へ現れただけで騒ぎになっただろう。700Fを完全攻略した男の動向は今でもニュースになる。だが今夜、彼がここへ来たことを世界は知らなかった。


世界最強のハンターとしてではない。


十二年前にいなくなった、一人の息子として来ていた。


「……痩せたな」


幸一郎が言った。


「まあ……癌だからな」


「聞いた」


「そうか」


「末期だって。もう治療も終わってるって」


「そこまで聞いたか」


父親は少し迷ってから「誰から?」と尋ねた。


「セルマ」


その名前は父親も知っていた。今の幸一郎の傍にいる女性。なぜ彼女が知ったのかまで考えれば、おおよそのことは分かる。


「……母さんか」


幸一郎は答えなかった。父親も追及しなかった。


「怒らないの?」


「何をだ?」


「知らせるなって言ったんだろ? たぶん約束破られてるぞ」


「ああ……そうだな」


父親は少し考え、それから幸一郎を見た。


「でも、お前は自分で来たんだろ?」


「うん」


「なら、もういい」


その答えに幸一郎は何も言わなかった。


父親は改めて息子を見る。テレビで見るより近い。当たり前だが、画面の中にあるEx12という表示も、完全攻略数12という肩書きもない。


「……なんで来た?」


幸一郎はすぐには答えなかった。


「俺も、それ考えてた」


「答えは出たのか?」


「まだ。会ったら分かるかなと思って」


父親は何も返せなかった。


赦すために来たわけではない。別れを告げるためなのかも分からない。ただ、来た。それだけは幸一郎自身が決めたことだった。


しばらくして、父親が口を開いた。


「幸一郎」


「ん?」


「……すまなかった」


その言葉を言う機会が来るとは思っていなかった。


警察がそう言ったから。学校がそう判断したから。証言が揃っていたから。家庭を守らなければならなかったから。当時の自分には事情と呼べるものがいくつもあった。だが、今となってはどれも息子に聞かせる理由にはならなかった。


幸一郎は黙っていた。父親も言葉を重ねなかった。赦してくれとも、分かってくれとも言わない。


長い沈黙のあと、幸一郎の口から出たのは一言だけだった。


「……バカ」


父親の目から涙が落ちた。


それなのに、笑った。


「……ああ。本当に、大馬鹿だ」


一筋、もう一筋と涙が頬を伝っていく。


「息子がやってないって言ってるのに信じなかった。話も聞かなかった。家族を守るなんて言って、その家族を一人追い出した。大馬鹿だよ。本当にな」


「……遅いんだよ」


「ああ」


「今さら気づいても」


「ああ」


「俺、まだ赦してないからな」


父親は頷いた。


「それでいい」


幸一郎の眉が僅かに動いた。


「……それ決めるの、親父じゃないだろ」


父親は一瞬呆けた顔をしたあと、泣きながら笑った。


「……そうだった。最後までこれだ」


「ほんとにな」


「また勝手に決めるところだった」


「だからバカって言ったんだよ」


「手厳しいな」


「十二年分だからな」


「そりゃ……仕方ない」


過去は何一つ変わっていなかった。謝罪したから17歳の少年が家へ戻れるわけではない。失った高校生活も、祖父母宅で過ごした時間も、六甲山の入口をくぐったという事実も消えない。それでも十二年を経て、ようやく二人の間には会話が成立していた。


やがて父親が窓の外へ目を向けた。夜の街には無数の明かりが見える。


「世界じゃ、お前のことで凄い騒ぎだな」


「またなんかやってる?」


「700Fだの、Ex12だの」


「ああ……それか」


「それか、で済ませるのか」


「俺には昔の話だし」


父親は小さく笑った。


「俺にはさ、そっちより分からないことがある」


「何?」


「世界中の人間が、お前がどうやって700Fまで行ったのか知りたがってる。でも俺は、それより……なんで17歳のお前が六甲山の1Fに入らなきゃならなかったのか。そればっかり考えてた」


幸一郎の表情から、僅かに力が抜けた。


「最初は分からなかった。どうしてそんなところへ行ったんだ。なんで何も言わずにいなくなったんだって。でも違ったんだな」


父親は一度息を整えた。


「お前には、もう行くところがなかった。俺たちだよな。俺たちが、お前の地上にいる場所をなくした」


幸一郎は慰めなかった。


否定もしなかった。


「……そうだよ」


「ああ」


父親は目を閉じた。


痛い答えだった。


だが、それでよかった。十二年前は息子の答えを聞こうとしなかった。今は、それがどんな答えでもそのまま受け取ることができる。


病院の時計は進んでいた。別の病室では点滴が交換され、ナースステーションでは申し送りの記録が更新されている。夜の街でも、コンビニは営業を続け、終電へ急ぐ人々が駅へ向かっている。世界にとっては何の変化もない夜だった。


その片隅で、十二年間話すことのなかった親子が、少しずつ言葉を交わしていた。


父親は、幸一郎が帰還したあと何度か会いに行こうと思ったことを話した。それでも怖くて行けなかったことも。怒鳴られるかもしれない。顔も見たくないと言われるかもしれない。そんな自分勝手な恐怖で、結局三年を過ごした。


「殴られるかもしれないとも思った」


「殴りはしないよ」


「そうか」


「面倒だし」


父親が笑った。


「お前、昔からそういうところあったか?」


「知らない。十二年経ってるからな」


「……そうだな」


笑いは途中で咳に変わった。父親は何度か苦しそうに息をし、落ち着くまで待った。


「大丈夫?」


「もう、大丈夫じゃなくてもいいんだよ」


「……そっか」


「そういうところまで来た」


幸一郎は否定しなかった。


話す時間が長くなるにつれて、父親の声は少しずつ弱くなった。言葉と言葉の間も長くなる。それでも幸一郎は帰ろうとはしなかった。


やがて父親が、ふと思い出したように尋ねた。


「幸一郎」


「ん?」


「お前、酒……飲むのか?」


唐突な質問に、幸一郎は少し首を傾げた。


「飲むけど。そんなには飲まないな」


「そうか……」


父親は天井を見た。


「お前と、一緒に酒が飲みたかったな」


幸一郎は黙った。


「一回くらい、親子でさ。別に大した話じゃなくていいんだ。美味いとか、不味いとか……仕事の愚痴でも、なんでもいい」


話しているうちに、父親の瞼が少しずつ下がっていく。


「……やってみたかったな」


「……親父」


瞼が僅かに動いた。


「ん……?」


「俺、ビール苦手だからな」


父親の口元が緩んだ。


「……そうか」


「飲むなら日本酒がいい」


「……そっか」


ほんの僅かに、父親は笑った。


「じゃあ……日本酒だな」


「うん」


「……覚えとくよ」


「……うん」


父親の目が閉じた。


病室は再び静かになった。


幸一郎は眠ったのだと思った。話し疲れたのだろうと、そのままベッドの横にいた。


呼吸は続いていた。


浅く。


ゆっくりと。


一度息を吸い、吐く。


長い間を置いて、もう一度。


そして、その次が来なかった。


幸一郎はしばらく動かなかった。


病院では、人が生まれる夜もあれば、人が死ぬ夜もある。医師や看護師にとって、それは決して軽いものではない。それでも病院という場所は、一人の死によってすべての機能を止めることはできない。別の病室では誰かが薬を受け取り、廊下の先では看護師が患者の名前を呼んでいた。


世界も同じだった。


明日になれば、また攻略隊がダンジョンへ入る。研究者が新しい素材を調べ、ニュースでは400Fの先について語られる。Ex12の名も、700Fという数字も、これから何度も世界を巡る。


だが、この夜。


そのEx12は、ただ父親の死を見届けた一人の息子だった。


「……覚えられないだろ。バカ」


返事はなかった。


幸一郎は立ち上がり、持ってきた小さな包みを開いた。中にはセルマが用意した青い花が一輪だけ入っている。


ネモフィラ。


幸一郎はしばらくその花を見てから、ベッド脇にあった小さな花器へ挿した。


白い病室に、小さな青が一つだけ加わった。


その花をなぜ選んだのか。どんな意味でここへ残したのか。幸一郎は誰にも説明しなかった。


十二年前のことは消えない。今夜言葉を交わしたからといって、17歳の自分が救われるわけでもない。謝罪を聞いたからといって、赦せたわけでもなかった。


それでも。


幸一郎は病室を出る前に、一度だけ振り返った。


「……じゃあな、親父」


返事はない。


それでよかった。


幸一郎は静かに病室をあとにした。


夜はまだ明けていない。病院の外では街の明かりが灯り続け、世界は何事もなかったように回っている。


その夜、一人の父親が死んだ。


世界はそのことを知らない。


翌朝になれば、家族が知る。


そして、白い病室に残された一輪の青い花を見つけることになる。


けれど、その夜ここで父親と息子が何を話したのか。


それだけは。


二人だけが知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。