最終章 第128話 別離…
「セルマ」
「はい」
「花、一輪だけ用意できる?」
セルマは手を止め、幸一郎を見た。
「花、ですか?」
「うん」
「どのような花を?」
幸一郎は少しだけ考えた。
「……青いやつ。小さいのでいい」
「今日ですか?」
「できれば」
セルマは理由を尋ねなかった。
「分かりました」
「ありがとう」
それだけだった。
* * *
夜。
消灯時間を過ぎた病院は、昼間とは違う時間を刻んでいた。照明を落とした廊下では夜勤の看護師が静かに行き交い、ナースステーションには白い光が残っている。眠れずに天井を眺めている患者もいれば、家族の付き添う病室もある。明日の検査を待つ者も、退院の日を待つ者も、もう退院という言葉を使われなくなった者もいた。
そのうちの一室で、一人の男が眠っていた。
薬の影響もあり、最近は眠っている時間が増えている。ただし深い眠りが長く続くことは少ない。その夜も何かの拍子に意識が浮かび、男はゆっくりと目を開けた。見慣れた薄暗い天井がある。どれほど眠っていたのか分からない。喉が渇いたと思い、何気なく足元へ視線を向けた。
そこで、目が止まった。
ベッドの足元。そのさらに少し後ろに、一人の男が立っていた。
眠りから覚めたばかりの頭では、すぐには理解できなかった。何度か瞬きをする。それでも姿は消えない。暗さに目が慣れ、その顔がはっきりしたところで、父親の呼吸が止まった。
十二年前より大人びている。当たり前だった。当時17歳だった少年は、もう29歳になっている。テレビでも新聞でもネットでも見た。今では世界中が知っている顔だったが、父親がそれを見間違えるはずはなかった。
「……幸一郎?」
「うん」
それだけ返ってきた。
父親はしばらく動けなかった。夢ではないのかと思ったが、幸一郎は何も言わず、足元から少し離れた場所に立っている。やがて父親は震える手を動かし、ベッド脇の操作パネルを探した。一度指が滑り、もう一度ボタンを押す。小さなモーター音とともに背もたれがゆっくり起きていく。途中で息苦しくなって止め、呼吸を整えてから、もう一度押した。
幸一郎は手を貸さなかった。父親も求めなかった。
時間をかけて上半身が起き、ようやく二人の視線の高さが近づく。
「……本当に、幸一郎なんだな」
「そうだよ」
「いつからいた?」
「少し前から」
「起こしてくれればよかったのに」
「寝てたから」
「……そうか」
十二年ぶりに父親と息子だけで交わした会話は、それだけだった。
病室の外では夜勤の看護師が一人、記録を確認しながら廊下を通り過ぎた。そのすぐ近くに、現在世界で唯一のEx12がいるとは知らない。昼間なら真神幸一郎が病院へ現れただけで騒ぎになっただろう。700Fを完全攻略した男の動向は今でもニュースになる。だが今夜、彼がここへ来たことを世界は知らなかった。
世界最強のハンターとしてではない。
十二年前にいなくなった、一人の息子として来ていた。
「……痩せたな」
幸一郎が言った。
「まあ……癌だからな」
「聞いた」
「そうか」
「末期だって。もう治療も終わってるって」
「そこまで聞いたか」
父親は少し迷ってから「誰から?」と尋ねた。
「セルマ」
その名前は父親も知っていた。今の幸一郎の傍にいる女性。なぜ彼女が知ったのかまで考えれば、おおよそのことは分かる。
「……母さんか」
幸一郎は答えなかった。父親も追及しなかった。
「怒らないの?」
「何をだ?」
「知らせるなって言ったんだろ? たぶん約束破られてるぞ」
「ああ……そうだな」
父親は少し考え、それから幸一郎を見た。
「でも、お前は自分で来たんだろ?」
「うん」
「なら、もういい」
その答えに幸一郎は何も言わなかった。
父親は改めて息子を見る。テレビで見るより近い。当たり前だが、画面の中にあるEx12という表示も、完全攻略数12という肩書きもない。
「……なんで来た?」
幸一郎はすぐには答えなかった。
「俺も、それ考えてた」
「答えは出たのか?」
「まだ。会ったら分かるかなと思って」
父親は何も返せなかった。
赦すために来たわけではない。別れを告げるためなのかも分からない。ただ、来た。それだけは幸一郎自身が決めたことだった。
しばらくして、父親が口を開いた。
「幸一郎」
「ん?」
「……すまなかった」
その言葉を言う機会が来るとは思っていなかった。
警察がそう言ったから。学校がそう判断したから。証言が揃っていたから。家庭を守らなければならなかったから。当時の自分には事情と呼べるものがいくつもあった。だが、今となってはどれも息子に聞かせる理由にはならなかった。
幸一郎は黙っていた。父親も言葉を重ねなかった。赦してくれとも、分かってくれとも言わない。
長い沈黙のあと、幸一郎の口から出たのは一言だけだった。
「……バカ」
父親の目から涙が落ちた。
それなのに、笑った。
「……ああ。本当に、大馬鹿だ」
一筋、もう一筋と涙が頬を伝っていく。
「息子がやってないって言ってるのに信じなかった。話も聞かなかった。家族を守るなんて言って、その家族を一人追い出した。大馬鹿だよ。本当にな」
「……遅いんだよ」
「ああ」
「今さら気づいても」
「ああ」
「俺、まだ赦してないからな」
父親は頷いた。
「それでいい」
幸一郎の眉が僅かに動いた。
「……それ決めるの、親父じゃないだろ」
父親は一瞬呆けた顔をしたあと、泣きながら笑った。
「……そうだった。最後までこれだ」
「ほんとにな」
「また勝手に決めるところだった」
「だからバカって言ったんだよ」
「手厳しいな」
「十二年分だからな」
「そりゃ……仕方ない」
過去は何一つ変わっていなかった。謝罪したから17歳の少年が家へ戻れるわけではない。失った高校生活も、祖父母宅で過ごした時間も、六甲山の入口をくぐったという事実も消えない。それでも十二年を経て、ようやく二人の間には会話が成立していた。
やがて父親が窓の外へ目を向けた。夜の街には無数の明かりが見える。
「世界じゃ、お前のことで凄い騒ぎだな」
「またなんかやってる?」
「700Fだの、Ex12だの」
「ああ……それか」
「それか、で済ませるのか」
「俺には昔の話だし」
父親は小さく笑った。
「俺にはさ、そっちより分からないことがある」
「何?」
「世界中の人間が、お前がどうやって700Fまで行ったのか知りたがってる。でも俺は、それより……なんで17歳のお前が六甲山の1Fに入らなきゃならなかったのか。そればっかり考えてた」
幸一郎の表情から、僅かに力が抜けた。
「最初は分からなかった。どうしてそんなところへ行ったんだ。なんで何も言わずにいなくなったんだって。でも違ったんだな」
父親は一度息を整えた。
「お前には、もう行くところがなかった。俺たちだよな。俺たちが、お前の地上にいる場所をなくした」
幸一郎は慰めなかった。
否定もしなかった。
「……そうだよ」
「ああ」
父親は目を閉じた。
痛い答えだった。
だが、それでよかった。十二年前は息子の答えを聞こうとしなかった。今は、それがどんな答えでもそのまま受け取ることができる。
病院の時計は進んでいた。別の病室では点滴が交換され、ナースステーションでは申し送りの記録が更新されている。夜の街でも、コンビニは営業を続け、終電へ急ぐ人々が駅へ向かっている。世界にとっては何の変化もない夜だった。
その片隅で、十二年間話すことのなかった親子が、少しずつ言葉を交わしていた。
父親は、幸一郎が帰還したあと何度か会いに行こうと思ったことを話した。それでも怖くて行けなかったことも。怒鳴られるかもしれない。顔も見たくないと言われるかもしれない。そんな自分勝手な恐怖で、結局三年を過ごした。
「殴られるかもしれないとも思った」
「殴りはしないよ」
「そうか」
「面倒だし」
父親が笑った。
「お前、昔からそういうところあったか?」
「知らない。十二年経ってるからな」
「……そうだな」
笑いは途中で咳に変わった。父親は何度か苦しそうに息をし、落ち着くまで待った。
「大丈夫?」
「もう、大丈夫じゃなくてもいいんだよ」
「……そっか」
「そういうところまで来た」
幸一郎は否定しなかった。
話す時間が長くなるにつれて、父親の声は少しずつ弱くなった。言葉と言葉の間も長くなる。それでも幸一郎は帰ろうとはしなかった。
やがて父親が、ふと思い出したように尋ねた。
「幸一郎」
「ん?」
「お前、酒……飲むのか?」
唐突な質問に、幸一郎は少し首を傾げた。
「飲むけど。そんなには飲まないな」
「そうか……」
父親は天井を見た。
「お前と、一緒に酒が飲みたかったな」
幸一郎は黙った。
「一回くらい、親子でさ。別に大した話じゃなくていいんだ。美味いとか、不味いとか……仕事の愚痴でも、なんでもいい」
話しているうちに、父親の瞼が少しずつ下がっていく。
「……やってみたかったな」
「……親父」
瞼が僅かに動いた。
「ん……?」
「俺、ビール苦手だからな」
父親の口元が緩んだ。
「……そうか」
「飲むなら日本酒がいい」
「……そっか」
ほんの僅かに、父親は笑った。
「じゃあ……日本酒だな」
「うん」
「……覚えとくよ」
「……うん」
父親の目が閉じた。
病室は再び静かになった。
幸一郎は眠ったのだと思った。話し疲れたのだろうと、そのままベッドの横にいた。
呼吸は続いていた。
浅く。
ゆっくりと。
一度息を吸い、吐く。
長い間を置いて、もう一度。
そして、その次が来なかった。
幸一郎はしばらく動かなかった。
病院では、人が生まれる夜もあれば、人が死ぬ夜もある。医師や看護師にとって、それは決して軽いものではない。それでも病院という場所は、一人の死によってすべての機能を止めることはできない。別の病室では誰かが薬を受け取り、廊下の先では看護師が患者の名前を呼んでいた。
世界も同じだった。
明日になれば、また攻略隊がダンジョンへ入る。研究者が新しい素材を調べ、ニュースでは400Fの先について語られる。Ex12の名も、700Fという数字も、これから何度も世界を巡る。
だが、この夜。
そのEx12は、ただ父親の死を見届けた一人の息子だった。
「……覚えられないだろ。バカ」
返事はなかった。
幸一郎は立ち上がり、持ってきた小さな包みを開いた。中にはセルマが用意した青い花が一輪だけ入っている。
ネモフィラ。
幸一郎はしばらくその花を見てから、ベッド脇にあった小さな花器へ挿した。
白い病室に、小さな青が一つだけ加わった。
その花をなぜ選んだのか。どんな意味でここへ残したのか。幸一郎は誰にも説明しなかった。
十二年前のことは消えない。今夜言葉を交わしたからといって、17歳の自分が救われるわけでもない。謝罪を聞いたからといって、赦せたわけでもなかった。
それでも。
幸一郎は病室を出る前に、一度だけ振り返った。
「……じゃあな、親父」
返事はない。
それでよかった。
幸一郎は静かに病室をあとにした。
夜はまだ明けていない。病院の外では街の明かりが灯り続け、世界は何事もなかったように回っている。
その夜、一人の父親が死んだ。
世界はそのことを知らない。
翌朝になれば、家族が知る。
そして、白い病室に残された一輪の青い花を見つけることになる。
けれど、その夜ここで父親と息子が何を話したのか。
それだけは。
二人だけが知っていた。




