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最終章 第120話 独白-明日からただの老人-

机の中には、もうほとんど何も残っていなかった。


私物は昨日までに持ち帰った。引き出しの奥に転がっていた古いボールペンも、いつ入れたのか覚えていない飴も、すでに処分した。


残っているのは、今日使うものだけだった。


男は椅子に腰を下ろし、いつものように端末を立ち上げた。


三十数年。


長かったのか、短かったのか。


今日で、警察官としての生活が終わる。


定年退職。


夕方には簡単な挨拶があり、花束まで用意されているらしい。若い連中が何やら相談していたので、おそらく他にも何かあるのだろう。


ありがたいとは思う。


だが、朝から感傷に浸るほど暇でもなかった。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


いつも通り挨拶を返し、いつも通り仕事を始める。


最後の日だからといって、事件も書類も待ってはくれない。


それでいい。


男自身、その方が気楽だった。


しばらくして休憩に立つと、給湯室の近くで数人の若い署員が壁掛けのテレビを見ていた。


『――WHAは昨日、真神幸一郎氏の公式ランク表記をEx12へ変更しました』


男の足が止まった。


画面には、ここ数日ですっかり見慣れた名前と数字が並んでいる。


真神幸一郎。WHA所属。Ex12。完全攻略数12。確認されている最大完全攻略深度――700F。


「Ex12って、何なんです?」


若い署員が隣の先輩に尋ねた。


「JHAが作った完全攻略者用のランクらしい。完全攻略した数が後ろにつくんだと」


「じゃあ12って……」


「12個完全攻略したってことだ」


「……ゲームじゃないんだから」


小さな笑いが起きた。


700F。


完全攻略12。


Ex12。


男も知っている。


知らないはずがなかった。


だが、画面に映る29歳の男と、自分の記憶の中にいる少年は、どうしてもうまく重ならなかった。


十二年前。


17歳。


真神幸一郎。


制服姿の少年が、取調室の向こう側に座っていた。


Exではなかった。


700Fを攻略してなどいなかった。


ダンジョンを一つだって完全攻略していなかった。


WHAにも所属していなかった。


世界中から注目されてもいなかった。


ただの高校生だった。


そして自分は、その少年を取り調べた警察官の一人だった。


「先輩?」


声をかけられ、男は我に返った。


「ん?」


「コーヒー、空ですよ」


見ると、手に持った紙コップには何も入っていない。


「ああ……そうだったな」


「最後の日なんですから、しっかりしてくださいよ」


「最後の日だから、もういいだろ」


「夕方までは現役ですよ」


「厳しいな」


男も笑い、コーヒーを注いだ。


「そういえば先輩」


「ん?」


「真神幸一郎って、昔ここの管内で事件に巻き込まれた人ですよね」


コーヒーを注ぐ手が、ほんの少しだけ止まった。


「……ああ」


「先輩、その頃もういました?」


「いたよ」


「じゃあ、会ったことあるんですか?」


少し間を置いて、男は答えた。


「ある」


「マジですか。どんな人だったんです?」


その問いには、すぐ答えられなかった。


十二年前、何時間も同じ部屋にいた。


質問した。


答えさせた。


何度も同じことを聞いた。


矛盾を探した。


認めさせようとした。


それなのに。


「……知らん」


「え?」


「知らないんだ」


「でも、会ったんですよね?」


「ああ」


「話も?」


「したよ」


そこまで答えて、男は首を振った。


「いや……あれを、話したとは言わんのだろうな」


若い署員が黙る。


三年前。


真神幸一郎が六甲山ダンジョンから帰還したことで、十二年前の事件は再び掘り起こされた。


冤罪そのものは、彼が失踪して半年後には明らかになっていた。それでも、本人が生きて帰ってきたことで、警察内部では当時の捜査について改めて検証が行われた。


男も何度となく事情を聞かれた。


なぜ、否認を続ける少年の言葉を十分に検討しなかったのか。


なぜ、被害を訴えた側の証言を重く見たのか。


なぜ、途中で立ち止まれなかったのか。


答えはいくらでもあった。


当時得られていた証言。


現場の状況。


経験則。


限られた時間。


複数の人間による判断。


自分一人で決めたわけではない。


どれも嘘ではなかった。


だからこそ厄介だった。


一つ一つには、その時なりの理由があった。


その小さな「仕方がない」が積み重なった先で、一人の17歳から逃げ道がなくなった。


自分の席へ戻った男は、机の端に残された最後の私物へ目を向けた。


家族の写真だった。


写真の中にいる子供たちは、もうとっくに大人になっている。


そして今では、その子供にも子供がいる。


孫。


まだ17歳には遠い。


それでも、いずれその歳になる。


男は写真を手に取った。


もし。


あの椅子に座っていたのが、自分の子供だったら。


何度聞かれても「やっていない」と答えているのに、誰にも信じてもらえなかったら。


同じ言葉を投げかけられることを、仕方がないと言えただろうか。


証言があります。


みんな同じことを言っている。


認めた方が君のためだ。


いつまで否認するつもりだ。


それを自分の子供が言われていたとして。


適正な捜査だったと、受け入れられただろうか。


答えは、考えるまでもなかった。


言えるはずがない。


なら、孫だったら。


もっと無理だった。


おそらく自分は怒鳴り込んでいる。


ちゃんと調べろ。


本人の話を聞け。


決めつけるな。


証言だけで判断するな。


そう訴えるはずだった。


――それを、十二年前の自分に向かって言えるのか。


男は写真を机へ戻した。


「……言えるわけないよな」


誰にも聞こえないほど小さな声だった。


結局、自分が家族のためなら当然のように求めることを、あの少年にはしなかった。


そして、もう一つ。


もし、あの日の真神幸一郎が今の力を持っていたなら。


世界中が知るEx12で。


12のダンジョンを完全攻略し。


700Fを一人で歩き切るような人間だと知っていたなら。


自分たちは、間違いなく慎重になっただろう。


彼の言葉を聞いただろう。


何度も証拠を確認しただろう。


少なくとも、簡単に結論を決めることはなかった。


だが、それでは駄目なのだ。


相手が強ければ話を聞く。


社会的地位があれば慎重になる。


自分の子供なら信じる。


自分の孫なら怒る。


それでは、何も反省したことにはならない。


あの日、取調室にいた少年には、そのどれもなかった。


力も。


地位も。


味方も。


自分たちに言うことを聞かせる手段もなかった。


ただ、17歳だった。


だからこそ。


「……聞かなきゃいけなかったんだよな」


十二年かかった。


あまりにも遅い答えだった。


男はもう一度、テレビへ目を向けた。


今の真神幸一郎が幸せなのか、自分には分からない。


だが、生きている。


世界中に名を知られ、WHAに所属し、12のダンジョンを完全攻略した。


だからよかった。


そんなことを、自分が言っていいはずがない。


自分の子供が同じ目に遭い、十二年後に立派に生きている姿を見せられて。


――今は幸せそうだから、もういいでしょう。


そう言われたら、自分は何と答えるか。


「……ふざけるな、だな」


今度は、僅かに苦笑した。


そうだ。


今がどうであろうと、あの日に起きたことは消えない。


謝ったところで、失われたものは戻らない。


高校生活も。


家族との時間も。


本来なら歩いていたはずの人生も。


八年間、六甲山の地下で生きることになった時間も。


何一つ返せない。


なら、謝れば終わるのか。


申し訳なかったと伝えれば、自分は十二年前のことに区切りをつけていいのか。


違う。


それではない。


謝罪は、清算ではない。


清算などできない。


手紙を一通送ったところで、帳尻が合うようなものではない。


これは、自分が背負うものだった。


今日、警察官を辞めても。


明日からただの老人になっても。


十年後も、その先も。


いつか自分の人生が終わる日まで。


自分は17歳の少年の話を聞かなかった。


その結果の一端を、自分は確かに担った。


誰かに赦されたからといって、なかったことにはしない。


まして、本人に赦してくれなどとは言わない。


それはきっと。


墓まで持っていくものなのだ。


男は静かに息を吐いた。


ならば、いつか伝える言葉があるのなら、余計なものはいらない。


自分がどれほど苦しんだかも。


どれほど後悔したかも。


理解してもらう必要はない。


伝えるべきことは、一つだけだった。


あの日、あなたの話を聞かなかった。


申し訳なかった。


それだけでいい。


返事はいらない。


赦しも求めない。


受け取るかどうか。


読むかどうか。


赦すかどうか。


それは、彼が決めることだ。


だが、謝罪すべきだったという事実まで、相手の選択に委ねてはいけない。


謝るのは、自分の責任だった。


男は時計を見る。


退職まで、あと数時間。


その時間が終われば、警察手帳を返す。


三十数年続いた警察官としての人生は、そこで終わる。


だが、十二年前のあの日まで、一緒に置いていけるわけではない。


それだけは。


墓まで持っていこう。


男は家族写真を鞄へしまい、端末へ向き直った。


警察官としての最後の仕事が、まだ残っていた。

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