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最終章 第121話 独白-明日からただの老人2-

夕方が近づくにつれ、机の上から仕事が一つずつ消えていった。


最後に残った書類を確認し、端末上で処理を終える。


これで終わりだった。


「……終わったか」


何十年も繰り返してきた仕事の最後にしては、あまりにも呆気なかった。


周囲を見れば、何人かがこちらを気にしている。気づかないふりをしていたが、どうやら退職の挨拶を始める時間らしい。


やがて声をかけられ、男は席を立った。


形式ばったものではなかった。


上司から短い言葉があり、花束を渡された。若い署員からは記念品まで用意されていた。


「長い間、お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


頭を下げる。


拍手が起きた。


三十数年。


振り返れば、いろいろなことがあった。


嬉しかったこともある。


悔しかったこともある。


自分なりに人の役に立てたと思える仕事もあった。


すべてが間違いだったとは思わない。


そう思ってしまえば、今度は自分が関わってきた人々に失礼だろう。


だからこそ。


間違えたことまで、正しかったことの中へ紛れ込ませてはいけない。


「先輩、明日からどうするんです?」


朝、話していた若い署員だった。


「どうするって?」


「趣味とか。旅行とか。ずっと仕事だったでしょう」


「ああ……」


考えて、男は笑った。


「何も考えてないな」


「奥さんに怒られますよ」


「もう怒られてる」


周囲から笑いが起きた。


そんな、ごく普通の退職だった。


やがて一人、また一人と仕事へ戻っていく。


男も自分の席へ戻った。


最後に警察手帳を手に取る。


何度開いたか分からない。


若かった頃は、それを持っていることに誇りを感じた。


歳を取ってからは、誇りよりも責任の方が重くなった。


そして今日、それを返す。


手続きを終えた男の手から、警察手帳がなくなった。


それだけだった。


何かが劇的に変わったわけではない。


それでも、空になった胸元に手をやると、不思議な感覚があった。


もう、自分は警察官ではない。


明日からは、ただの老人だ。


男は席へ戻った。


ほとんどの私物を片付けた机。


その引き出しを開ける。


中から取り出したのは、警察の書類ではなかった。


白い便箋と封筒だった。


朝から考えていた。


いや。


本当は三年前から、何度も考えていたのかもしれない。


だが、書けなかった。


何を書いても言い訳になる気がした。


警察官として書けば、組織を代表するような文章になってしまう。


自分がどれほど後悔しているかを書けば、今度は自分のための文章になる。


だから、今日まで書けなかった。


男は椅子に座り、ペンを取った。


宛名を書く。


――真神幸一郎様。


そこで手が止まった。


十二年前。


取調室では、何度この名前を呼んだだろう。


真神君。


真神。


君。


少年。


容疑をかけられた者。


いくつもの呼び方をした。


だが、一人の17歳として向き合ったことがあっただろうか。


男は便箋へ視線を落とした。


そして、書き始めた。


長い文章にはならなかった。


当時の事情を書かなかった。


証言が揃っていたことも。


なぜ自分たちがそう判断したのかも。


捜査がどのように進んでいたのかも。


何一つ書かなかった。


それらは説明にはなる。


だが、謝罪にはならない。


三年前から後悔していたとも書かなかった。


自分が苦しんでいることを知ってもらう必要などない。


そして。


700Fという数字も。


Ex12という言葉も。


完全攻略という言葉も。


一文字たりとも書かなかった。


関係がないからだ。


真神幸一郎が、その後何者になったかは関係ない。


自分が謝らなければならないのは、世界最強の男ではなかった。


十二年前。


取調室の椅子に座り、自分の言葉を信じてもらえなかった17歳だった。


しばらくして、男はペンを置いた。


読み返す。


何度か迷った末、最後に二つだけ書き加えた。


返事は必要ありません。


私を赦す必要もありません。


それで終わりにした。


署名する。


便箋を折り、封筒へ入れた。


封をする。


男は完成した一通の手紙を、しばらく手の中で見つめていた。


これを送ったからといって、何かが変わるわけではない。


十二年前は戻らない。


失われたものも戻らない。


自分の責任が軽くなるわけでもない。


それでいい。


これは贖罪を終わらせるための手紙ではない。


終わらないものを、終わらないまま背負うための手紙だった。


問題は、送り先だった。


真神幸一郎の住所など知らない。


知ろうとも思わなかった。


調べるつもりもない。


今さら警察にいた人間が、かつての立場を使って彼の居場所を探すなど、それこそ何も分かっていない。


だが、窓口なら分かる。


WHA。


男はもう一枚、短い文書を用意した。


かつて真神幸一郎の取調べを担当した警察官の一人であること。


本日をもって定年退職したこと。


個人として謝罪の手紙を預けたいこと。


本人への取り次ぎが不適切と判断するのであれば、破棄しても構わないこと。


それだけを書いた。


男は封筒を鞄へ入れた。


「帰りますか?」


声をかけられた。


朝の若い署員だった。


「ああ」


「本当に最後ですね」


「そうだな」


男は立ち上がった。


空になった机を見る。


三十数年の最後としては、やはり呆気ない。


「先輩」


「ん?」


若い署員が少し迷ってから尋ねた。


「朝の話なんですけど」


「真神のことか」


「はい」


男は待った。


「もし、俺たちが同じような事件を担当することになったら……何に気をつければいいですか」


男は答えようとして、やめた。


立派な言葉なら、いくらでも言える。


予断を持つな。


多角的に検証しろ。


供述を慎重に吟味しろ。


研修なら、それでいい。


だが今、自分がこの若者に残せる言葉は、もっと単純なものだった。


「話を聞け」


「……はい」


「自分が正しいと思ってる時ほどな」


若い署員は少し驚いた顔をして、それから頷いた。


「分かりました」


「俺みたいになるなよ」


冗談めかして言った。


若い署員は笑わなかった。


「はい」


それでよかった。


男は花束と鞄を持った。


署を出る。


振り返らなかった。


明日からは、ただの老人だ。


警察官としてできることは、もうない。


だが、警察官でなくなったからといって、十二年前の自分まで消えるわけではない。


その夜。


男は一通の手紙を、WHAへ送った。


届けてもらえるかは分からない。


本人の手に渡るかも分からない。


読んでもらえるかも分からない。


それを決めるのは、自分ではなかった。


十二年前、自分たちは17歳の少年から、あまりにも多くの選択を奪った。


だから今度は。


渡すかどうかは、WHAが決めればいい。


受け取るかどうかは、真神幸一郎が決めればいい。


読むかどうかも。


返事をするかどうかも。


赦すかどうかも。


すべて、彼が決めればいい。


男は投函した手紙から手を離した。


これで終わったとは思わなかった。


終わるはずがない。


それは、この先も自分が背負っていく。


いつか墓に入る、その日まで。


ただ一つ。


十二年前とは違う。


今度は、彼から選ばなかった。


それだけだった。




署長室の窓から、一人の男が署を出ていくのが見えた。

片手には花束。

もう片方には鞄。

三十数年を警察官として過ごした男の、最後の後ろ姿だった。

署長は何も言わず、それを見送った。


十二年前。


あの男とは、同じ取調室にいた。

ずっと一緒だったわけではない。

だが、自分も質問した。

自分も少年の答えを聞いた。

そして自分も――聞かなかった。

机の上には、今日提出された退職関係の書類が置かれている。

署長はそれへ目を落とした。


一人は今日で警察官を辞める。


自分はまだ残る。

階級も上がった。

責任も増えた。

あの頃とは違う場所にいる。


だが。


十二年前の取調室に戻れば、そんなものに意味はなかった。

あの部屋にいた警察官の一人。


それだけだった。


窓の向こうで、男の姿が見えなくなる。


「……お疲れさん」


誰にも聞こえない声で呟いた。

それから署長は、壁に掛けられたテレビへ目を向けた。

真神幸一郎。


Ex12。


完全攻略数12。


最大完全攻略深度700F。


世界中が、その数字を語っている。


署長はしばらく画面を見てから、小さく首を振った。


「違うんだよな……」


あの日。


あの少年には、そんな数字は一つもなかった。


だから話を聞かなかった。


もし今の真神幸一郎が同じ椅子に座れば、誰だって話を聞く。


WHA所属のEx12を相手に、最初から答えを決めて取調べをする警察官などいないだろう。


そんなものは反省でも成長でもない。


相手に力があるから、慎重になっただけだ。


必要だったのは。


何も持っていない17歳があの椅子に座った時に、それでも話を聞ける警察であることだった。


署長はテレビを消した。


机へ戻る。


今日、去っていった男には明日がある。


警察官ではない人生が始まる。


だが、自分はまだここにいる。


ならば。


自分が背負うものは、少し違う。


後悔するだけでは足りない。


謝るだけでも足りない。


まだ、この場所を変える側にいる。


署長は内線電話を取った。


「署長ですが。例の若手向け研修資料、もう一度こちらへ回してください」


短く用件を伝え、電話を置いた。


十二年前をやり直すことはできない。


真神幸一郎の17歳を返すこともできない。


それでも。


次に、何の力も持たない17歳が取調室の椅子に座った時。


今度こそ、その声を聞くことはできる。


署長は、先ほどまで男が使っていた机を窓越しに見た。


もう誰も座っていない。


一人は、墓まで持っていくものを抱えて去った。


一人は、まだここに残る。


どちらも。


十二年前、あの取調室にいた警察官だった。

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