第1章 第12話 かえる場所
山あいの集落は、八年前とほとんど変わっていなかった。
細い道の先に、古い一軒家がある。瓦屋根の平屋と、少し広い庭。庭木は以前より大きくなっていたが、物置も縁側も、幸一郎の記憶にある場所にそのまま残っていた。
縁側には、祖父と祖母がいた。
祖父は湯呑みを片手に庭を眺め、祖母はその隣で洗濯物を畳んでいる。
八年前より、二人とも随分と年を取っていた。
その庭の中央で、空気がゆっくりと揺らいだ。
薄い陽炎のようなものが人の形を作り、やがて一人の男の姿になる。
最初に気づいたのは祖父だった。
湯呑みを持つ手が止まった。
「…………」
祖母も顔を上げる。
手にしていた洗濯物が、膝から落ちた。
二人とも動かなかった。
幸一郎も、何も言わなかった。
八年前にこの家を出ていった十七歳の少年は、もういない。
庭に立っているのは、二十五歳になった男だった。
それでも祖母は、すぐに分かった。
「……幸ちゃん?」
幸一郎が僅かに俯いた。
「……ばあちゃん」
祖母の顔がくしゃりと歪んだ。
「幸ちゃん!」
縁側から飛び出すように立ち上がった。
足元がおぼつかず、祖父が慌てて腕を伸ばしたが、それを振り切るように庭へ降りる。
幸一郎も咄嗟に前へ出た。
祖母はそのまま、幸一郎の胸へ飛び込んだ。
「幸ちゃん……幸ちゃん……!」
両腕で抱きしめ、何度も名前を呼ぶ。
「生きとった……生きとったんやなぁ……!」
「……うん」
「どこ行っとったん……ほんまに……!」
言葉は途中から泣き声になった。
幸一郎は両腕を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
やがて、おそるおそる祖母の背中に手を置いた。
祖父はまだ縁側に立っていた。
顔を背け、手の甲で何度も目元を拭っている。
「じいちゃん」
その一言で、祖父も駄目だった。
「……馬鹿もんが」
震えた声が返ってきた。
祖父は庭へ降りてくると、幸一郎の肩を掴んだ。
「八年やぞ」
「……うん」
「八年も……」
その先が続かなかった。
祖父は顔をくしゃくしゃにして、幸一郎の肩を何度も叩いた。
叱っているというには弱すぎる手だった。
「よう帰ってきた」
幸一郎は祖父を見た。
「よう帰ってきたなぁ……幸一郎」
祖父の手が後頭部へ回り、そのまま強く引き寄せられた。
祖母はまだ幸一郎の服を掴んだまま泣いている。
幸一郎は二人に挟まれたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……ただいま」
祖母がさらに大きな声で泣いた。
祖父も何度も頷いた。
「おう」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも笑っていた。
「おかえり」
八年前、誰にも告げずに出ていった少年が、ようやく帰ってきた。
そこには問い詰める声も、事情を聞こうとする言葉もなかった。
ただ、帰ってきた孫を抱きしめる二人の老人がいた。
「……ただいま」
その一言を聞いて、祖母はまた声を上げて泣いた。
祖父も何度も頷きながら、幸一郎の肩を叩いた。
「おう。おかえり」
三人はしばらく、そのままだった。
祖母がようやく身体を離しても、幸一郎の腕だけは掴んだままだった。手を離せば、またどこかへ消えてしまうとでも思っているようだった。
幸一郎はその手を見た。
八年前より細く、皺が増えていた。
「……じいちゃん、ばあちゃん」
「ん?」
「ごめん」
祖母の泣き声が止まった。
幸一郎は二人の顔を見た。
「何も言わずに出ていって」
祖父は何も言わなかった。
「俺がここに来たせいで、近所にもいろいろ来てただろ。記者とか、知らない奴とか」
「そんなもん――」
祖父が何か言おうとしたが、幸一郎は静かに首を横に振った。
「分かってたんだ」
祖父が口を閉じる。
「このままここにいたら、じいちゃんとばあちゃんにも迷惑をかけるって。俺がいる限り、ずっと誰かが来る。二人まで何か言われる」
幸一郎は一度言葉を切った。
「それに……」
少しだけ視線が落ちた。
祖父母は急かさなかった。
「二人が優しくしてくれるのが、嬉しかった」
祖母の指が僅かに動いた。
「俺のこと、何も聞かなかっただろ」
「…………」
「飯を作ってくれて、ここにいろって言ってくれて。何も変わってないみたいに話してくれて」
幸一郎は淡々と話していた。
それでも、いつもより少しだけ言葉が遅かった。
「嬉しかったんだ。本当に」
祖母の目に、また涙が溜まっていく。
「でも……同じくらい、辛かった」
祖父が幸一郎を見た。
「外じゃ、誰も俺の話なんか聞かなかった。家でも信じてもらえなかった。学校にもいられなくなった」
幸一郎はそこで一度、息を吐いた。
「なのに、ここだけ普通だった」
庭に、虫の声だけが響いていた。
「ばあちゃんが飯を出してくれるたびに、じいちゃんがいつも通り話しかけてくれるたびに……なんでここだけって思ってた」
「幸ちゃん……」
「嬉しいのに、辛くて。ここにいると、ずっとそれを考えるから」
幸一郎は祖母の手に、自分の手を重ねた。
「だから逃げた」
祖母の涙が落ちた。
「二人が嫌だったんじゃない」
「分かっとる」
祖母はすぐに答えた。
幸一郎が言葉を止める。
「そんなもん……分かっとるよ」
祖母は泣きながら、幸一郎の手を両手で握った。
祖父も大きく息を吐いた。
「だったら、一言くらい言っていけ。馬鹿もん」
「……あぁ」
「八年も心配させおって」
「ごめん」
「ほんまにな」
祖父はそう言いながら、また目元を拭った。
幸一郎は頭を下げた。
「ごめんなさい」
今度は、はっきりと言った。
祖父はしばらく幸一郎を見ていた。
やがて、その頭を軽く叩いた。
「もうええ」
幸一郎が顔を上げる。
「帰ってきたんや。それでええ」
祖母も何度も頷いた。
「そうや。帰ってきてくれたんやから」
「……あぁ」
「それにな」
祖父は縁側を振り返った。
「ここに孫がおって、何が迷惑や」
幸一郎は何も言わなかった。
「昔も今も、お前がおるくらいで迷惑になるような家やない」
祖母が幸一郎の腕を引いた。
「ほら、もうええから。中入り」
「ばあちゃん」
「何や」
「……ありがとう」
祖母の顔が、また崩れた。
「もう……あんたは……」
泣きながら、それでも嬉しそうに笑った。
「そんなこと言うくらいなら、もう勝手におらんようになったらあかんで」
幸一郎は少しだけ黙った。
そして頷いた。
「ああ」
三人は縁側へ向かった。
八年前には言えなかったことを、幸一郎はようやく二人に伝えた。
それで失われた八年が戻るわけではない。
ただ、八年前に何も告げず閉じられたこの家の扉だけは、ようやく開き直すことができた。




