最終章 第117話 何やってんだ…?
「……誰だ」
WHA本部の会議室で、藤堂剛は低い声を漏らした。
正面の大型モニターでは、数時間前に放送された番組が再生されている。真神幸一郎を除く攻略隊として世界最深となる407Fへ到達したトップハンターたちへのインタビュー。その途中までは、藤堂も実に良い番組だったと思っていた。
現在の攻略者たちが何を考え、どのように深層へ挑んでいるのか。無理をせず、撤退し、足りないものを確認し、地上で補ってから再び挑む。攻略者だけではない。研究者、技術者、医療関係者、後方支援を含めた人類全体で先へ進む。
この3年間で形になったものを、当事者自身が分かりやすく説明してくれていた。
問題は、その途中だった。
『エベレストDがあるでしょう?』
藤堂の眉間に皺が寄る。
『700Fです』
藤堂は両手で顔を覆った。
「……なぜ言った」
会議室には広報、攻略管理、情報管理の各部門から集められた職員が並んでいたが、誰もすぐには答えようとしなかった。
「なぜ生放送で言った……」
「本人たちは、一般公開されている情報だと思っていたようです」
ようやく一人が答えた。
藤堂は顔から手を離す。
「確認は?」
「していません」
「なぜだ」
「一般公開されていないとは思っていなかったので、確認する必要があるとも……」
「……そうなるか」
怒鳴りたいところだったが、理屈としては分からなくもなかった。
エベレストダンジョンが全700階層だったこと自体は機密情報ではない。真神幸一郎が完全攻略した事実も、すでに公表されている。
ただ、WHAはエベレストダンジョンの総階層数を一般向けに積極的に発表していなかった。一方、深層攻略へ挑むトップハンターたちには攻略資料として当然のように提供されている。
彼らにしてみれば、秘密を喋ったという認識などあるはずもなかった。
扉が開いた。
「会長がお見えになりました」
レイチェル・アシュフォードが会議室へ入ってくる。
「状況は?」
席に着くより先に問う。
「世界各国の報道機関から問い合わせが殺到しています」
「具体的には?」
「まず、エベレストダンジョンが本当に700Fまで存在したのか」
「事実です。回答してください」
「真神さんが700Fまで到達したのか」
「完全攻略です。そこは正確に」
「すでに訂正しています。それから、真神さんが完全攻略した残りのダンジョンについても、総階層数を公開してほしいという要望が来ています」
「公開可能な情報を整理してください。攻略上の問題がないものについては、後日まとめて公表します」
レイチェルは淡々と処理していく。
藤堂が横から口を挟んだ。
「会長。トップハンターへ提供する情報の範囲を、一度見直した方がよろしいのでは?」
「必要ありません」
即答だった。
「……即答ですか」
「攻略に必要だから提供している情報です。今回の問題は、彼らがその情報を知っていたことではありません」
レイチェルは席に着いた。
「情報ごとの公開範囲が明確に示されていなかったことです。彼らが機密情報を漏洩したのであれば別ですが、そもそも階層数は機密指定されていません」
「つまり、こちらにも落ち度があると」
「あります」
藤堂は深く息を吐いた。
「そう言われると、怒る相手がいなくなるんですが」
「怒る必要がありますか?」
「私の精神衛生上は」
何人かの職員がそっと視線を逸らした。
だが、問題は700という数字だけではなかった。
広報担当者が、いかにも言いにくそうに次の資料を開いた。
「それと……もう一件あります」
藤堂が嫌そうな顔をする。
「まだあるのか」
「700Fでの戦闘記録について、公開を求める問い合わせが殺到しています」
レイチェルの返答は早かった。
「却下してください」
「各国の報道機関だけでなく、研究機関、映像配信会社などからも要望が――」
「数は理由になりません」
声色すら変わらない。
「エベレストダンジョン深層部の戦闘記録は、深層攻略者と必要な研究者へ危険性を伝えるための資料です。娯楽映像ではありません。現在の公開範囲を維持します」
「了解しました」
そこだけは議論にもならなかった。
藤堂も異論はない。彼自身、700Fの戦闘記録を見たことがある。そして、もう一度見たいかと聞かれれば、答えは否だった。
「……しかし、あいつらも余計なことを言ってくれたな」
藤堂が呟いた。
レイチェルが視線を向ける。
「何のことでしょう?」
広報担当者が代わりに答えた。
「『世界が粉々に砕ける瞬間を想像したことがありますか。そういう戦いです』という発言です」
レイチェルが黙った。
数秒の沈黙。
「……アストラルギガブレイカーですか」
ぼそりと呟いた。
藤堂がゆっくりとレイチェルを見る。
「会長」
「何でしょう」
「具体的な技名を出すのはやめてください」
「ここは内部会議です」
「そういう問題ではありません」
広報担当者が何とも言えない表情で二人を見る。
「……実際、それなんですか?」
「答えません」
「会長」
「非公開情報です」
「自分から技名を出したでしょう……」
藤堂は再び額を押さえた。
この会議に入ってから何度目になるか、もう数える気にもならなかった。
広報担当者が咳払いをする。
「現在、各国メディアから、先ほどの発言が単なる比喩なのか、実際にそれに類する現象が700Fで発生したのかという問い合わせが来ています」
「回答する必要はありません」
レイチェルは即答した。
「さらに、その後の『比喩ならよかった』という発言についても確認が」
「追撃までしてるじゃないか……」
「こちらも回答なしでよろしいでしょうか」
「戦闘記録の内容に関わります。非公開です」
レイチェルの判断に揺らぎはなかった。
階層数は公開できる。完全攻略の事実も公開できる。
だが、その場所で何が起き、幸一郎が何をして最下層を突破したのかは別の話だった。
話はそこで終わるはずだった。
別の職員が手を上げる。
「一つ、提案があります」
藤堂は嫌な予感がした。
「なんだ」
「真神さん本人に確認してはいかがでしょう。あの表現が事実に即したものなのかどうかだけでも確認できれば、広報として回答を――」
「やめろ」
藤堂の返答は、この会議が始まってから最も速かった。
職員が目を瞬く。
「ですが、本人であれば最も正確な回答が得られると思います」
「だから駄目なんだ」
会議室が静かになった。
藤堂は真顔だった。
「君は真神君に、『700Fの戦闘は世界が粉々に砕けるような戦いだったという表現で正しいですか』と聞くつもりか?」
「……はい」
「そして、彼が何と答えると思う」
職員が少し考えた。
「正確な内容を説明していただけるのでは?」
「違う」
藤堂は断言した。
「おそらく、『まあ、だいたい合ってるんじゃない?』だ」
沈黙。
誰も否定できなかった。
むしろ真神幸一郎を知っている者ほど、その光景が容易に想像できた。
「それを広報が世界へ発表する。どうなる?」
「……世界が」
職員が途中で言葉を止める。
藤堂が頷いた。
「もう一回ひっくり返る」
会議室の隅で、小さな笑い声が漏れた。
藤堂がそちらを見る。
「笑い事じゃないぞ」
「申し訳ありません」
レイチェルだけは表情を変えなかった。
「藤堂支部長」
「今は東アジア統括です、会長」
「失礼しました。では藤堂統括の意見を採用します」
「そこは間違えてくれて構わないんですが……」
「真神さんへの確認は行いません」
それで決まった。
700Fという階層数については事実として公表する。幸一郎が完全攻略したことも、従来通り公開情報として扱う。他の完全攻略ダンジョンについても、公開可能な情報を整理したうえで公表する。
一方、深層戦闘記録については公開範囲を変更しない。
今回のトップハンターたちへの処分も行わない。漏らしたのは機密情報ではなく、彼ら自身も公開済みだと認識していたためだった。
代わりに今後は、攻略者へ提供する資料について、一般公開情報、攻略者限定情報、研究者限定情報などの区分を明確に示す。
誰かを罰して終わらせるのではなく、同じことが起きない仕組みを作る。
3年前なら、WHAもここまで大きな組織ではなかった。そして世界も、ここまで深くダンジョンへ潜ってはいなかった。
人類が先へ進めば、扱う情報も増える。
関わる人間も増える。
当然、それを支える仕組みも変わっていかなければならない。
会議が終わりかけた頃、藤堂が思い出したように尋ねた。
「ところで、真神君は今どこにいる?」
セルマと連絡を取っている職員が端末を確認した。
「本日は午前中の定例報告以外、予定はありません」
「午後は?」
「休暇扱いです」
「何をしている?」
「そこまでは把握していませんが、セルマ秘書と一緒です」
「そうか」
藤堂は椅子の背にもたれた。
世界各国の報道機関がWHAへ問い合わせを送り、ニュース番組では700という数字が繰り返され、ネット上では真神幸一郎が完全攻略した12のダンジョンについて検証が始まっている。
その中心にいる本人だけが、今日も予定なし。
「……本人が一番平和だな」
誰も否定しなかった。
その頃、幸一郎はセルマと昼食を食べていた。
「セルマ、これ美味い」
「昨日も同じものを食べていましたよ」
「美味いんだから仕方ないだろ」
世界が700Fで揺れていることを、本人はまだ知らなかった。




