最終章 第116話 目標はさらに先へ
407F。
その数字は、翌日になっても世界各地のニュースを賑わせていた。
わずか数年前まで、世界のトップハンターたちは100F前後で攻略を止めていた。そこから異鉱物の実用化が始まり、深層ドロップ装備が供給され、それを解析した技術が新たな装備を生み出した。攻略者自身もより深い場所から新たな素材や装備を持ち帰るようになり、それがまた次の攻略へ使われる。
一人の力による記録ではない。
攻略者、研究者、技術者、医療関係者、後方支援。そして途中で撤退しながらも情報を持ち帰った無数のハンターたち。その積み重ねによって、人類はとうとう400Fという領域へ足を踏み入れていた。
407Fへ到達した攻略隊もまた、その象徴として各国のメディアに取り上げられた。
帰還から数日後、攻略隊の一部が出演した番組でも、当然のようにその数字が話題となった。
『今回407Fへ到達されたことで、いよいよ500Fという数字も現実的になってきたのでしょうか』
司会者の問いに、攻略者の一人が頷いた。
「目標としては、そうですね。もちろん、あと93階だからすぐ行ける、なんて話じゃありませんけど」
『500Fといえば、やはり真神幸一郎氏です。最初に完全攻略された六甲山ダンジョンが500Fでした』
「ええ」
『現在の皆さんは407F。数字だけを見れば、真神氏が到達した領域まであと93階層です』
そこで、攻略者が僅かに眉を上げた。
「……六甲山の記録まで、って意味ですよね?」
『はい?』
「いや。500Fって、真神の最深記録じゃないですよ」
司会者の表情が止まった。
『……違うんですか?』
今度は攻略者たちの方が顔を見合わせた。
「違いますよ」
「エベレストDがあるでしょう?」
女性ハンターが当然のように口を挟む。
司会者もエベレストダンジョンの名前自体は知っていた。真神幸一郎がこの3年間で完全攻略したダンジョンの一つとして、その事実は報道されている。
だが、詳細な内部情報まで一般へ公開されていたわけではない。
『エベレストダンジョンが、どうかしたのでしょうか』
「700Fです」
数秒、誰も喋らなかった。
『…………700?』
「はい」
『700Fまで到達した、ということですか?』
「いや」
攻略者が首を振る。
「エベレストDが全700階層だったんです。真神は完全攻略してるから、700Fまで全部行ってますよ」
再び沈黙が落ちた。
司会者が手元の資料へ視線を落とす。しかし、そこに書かれているのはエベレストダンジョン完全攻略という事実までだった。
『……少々お待ちください。エベレストダンジョンは700Fまで存在したのですか?』
「そうですけど……」
答えながら、攻略者の表情が少しずつ変わった。
隣の女性ハンターも気づいたらしい。
「……これ、一般には公開されていない?」
「え?」
「私たちは攻略資料で見ているけれど」
「ああ……」
彼らにとって、エベレストダンジョンが700Fまで存在したことは秘密でも何でもなかった。
深層へ挑むトップハンターには、過去に完全攻略されたダンジョンの情報が資料として提供されている。階層構造、環境変化、確認された魔物、ドロップ品、深層で発生し得る現象。先人が得た情報を次の攻略者へ渡すこと自体が、現在の攻略体制の根幹でもある。
だから彼らは知っていた。
ただし、それが一般社会にまで公表されているかどうかなど、気にしたことがなかった。
『ちなみに、この番組は生放送です』
「…………」
攻略者が黙った。
「階層数だけなら問題ない……よな?」
「私に聞かないで」
「言ったの君だろ」
「最初に500Fじゃないと言ったのはあなたでしょう?」
『あの、我々としては大変興味深い情報なのですが』
司会者の言葉に、二人とも黙った。
その頃には、すでに遅かった。
放送を見ていた者たちの手によって、エベレストダンジョンという言葉は猛烈な勢いでネット上を駆け巡り始めていた。
エベレストD――全700階層。
そして、その700Fまでを真神幸一郎が完全攻略している。
407Fという人類の新記録に沸いていた世界へ、突然293階層先の数字が落ちてきた。
番組終了を待つ必要すらなかった。
各国の報道機関がWHAへ確認を始め、程なくして簡潔な回答が返された。
エベレストダンジョンが全700階層であったこと。
真神幸一郎が最下層へ到達し、完全攻略していること。
いずれも事実。
階層数そのものは機密指定された情報ではなく、一般向けに積極的な公表を行っていなかっただけだった。
世界が震撼した。
《700F!?》
《待て待て待て》
《エベレストDって700階もあったのかよ》
《407Fのニュース見たばっかりなんだが》
《真神は700まで行ったの?》
《行ったどころか完全攻略》
《到達じゃなくて完全攻略なの怖い》
《六甲山500Fが最深だと思ってた》
《俺も》
《トップハンターだけ普通に知ってたの草》
《攻略資料に載ってるならそりゃ知ってるか》
《いや問題そこじゃねえ》
《700Fをクリアした奴がいることだよ》
《真神だから流してたけど冷静に考えたらおかしい》
《しかも完全攻略12個だぞ》
《…………12?》
《そうだよ》
《一回ずつニュースで見てたから感覚麻痺してたわ》
《12個並べたら頭おかしい》
《500F一回だけなら奇跡って言えた》
《12回やったらもう奇跡じゃねえよ》
それまで個別のニュースとして受け止められていたものが、改めて一つの実績として並べられ始めた。
六甲山。
堺東。
ハワイ。
そしてエベレスト。
そのほかにも、この3年間で幸一郎が完全攻略したダンジョンは増え続け、現在その数は12に達している。
鐘が鳴り、完全攻略が知らされる。
また真神か。
いつしか世界は、それに慣れていた。
だが12という数字と、その中に含まれていた700Fという事実を一度に突きつけられたことで、人々は改めて気づくことになった。
真神幸一郎の六甲山500F完全攻略は、偶然でも、一度きりの奇跡でもなかった。
一方、生放送のスタジオでは話が終わっていなかった。
司会者も突然飛び出した700Fという数字を、そのまま流すことなどできなかった。
『では皆さんは、真神氏がエベレストダンジョンを攻略した際の記録もご覧になっているのですか?』
「見ています」
『700Fまで?』
「全部ではありません。必要な部分を選別したものです」
深層攻略者へ提供される資料には、文章や数値だけでなく映像も含まれていた。
その一部は一般公開されている。堺東ダンジョン最深部での幸一郎の戦闘などは、今でも映像サイトで簡単に見ることができる。
だが、すべてではない。
特に深層の戦闘記録には、現在も上位攻略者と研究者に限定して公開されているものが存在する。
エベレストダンジョンも、その一つだった。
『では、まず一般公開されているこちらを見ていただきましょう』
大型モニターに、数年前の堺東ダンジョンの映像が流れた。
一人で戦う幸一郎。
当時は、その映像を見ても大半の人間には「とてつもなく強い」ということしか分からなかった。
今、それを見ているのは400Fを知るハンターたちだった。
映像が終わる。
『現在の皆さんから見て、この戦闘はいかがでしょう?』
「頭おかしいですね」
即答だった。
スタジオに笑いが起こる。
隣の女性ハンターが呆れたように横を見る。
「もう少し言い方があるでしょう?」
「でも頭おかしいだろ、これ。一人でやる戦い方じゃない」
「それは否定しないけれど」
『現在の皆さんなら、再現できますか?』
「嫌ですよ」
『できる、できないではなく?』
「できるかもしれない部分だけ抜き出せばあります。でも全部真似したら死にます」
女性ハンターも頷いた。
「今だから、どこがおかしいのかまで分かるようになった、という方が正確でしょうね」
『強くなったからこそ?』
「ええ。私たちは3年前より遥かに強くなりました。だから、当時は理解できなかった部分まで見えるようになったんです」
堺東の映像については、まだ笑えた。
常識外れだと分かる。
真似などできないと分かる。
それでも、映像を見ながら冗談を言うことはできた。
司会者が、そこで当然の疑問を口にした。
『では、エベレストダンジョン700Fでの戦闘は?』
空気が変わった。
先ほどまで笑っていた攻略者が黙る。
女性ハンターも、すぐには答えなかった。
『映像は残されているのですよね?』
「あります」
『皆さんはご覧になった?』
「はい」
『どのような戦闘だったのでしょう。話せる範囲で構いません』
攻略者は少し考えた。
隣を見る。
女性ハンターも困ったように首を傾げる。
「どう説明する?」
「私に聞かれても困るわ」
「だよな……」
そして、もう一度考えた。
「世界が粉々に砕ける瞬間って、想像したことあります?」
司会者が固まった。
『…………はい?』
「そういう戦いです」
スタジオから笑いは起きなかった。
司会者が何度か瞬きをする。
『それは……比喩ですよね?』
今度は女性ハンターが答えた。
「比喩ならよかったんですけどね」
再び沈黙。
「だから、その説明やめろって」
「じゃあ他にどう言えばいい?」
「……思いつかないけど」
「だろ?」
『あの映像が一般公開される予定は?』
「それはWHAに聞いてください。ただ……」
女性ハンターが少し考えてから続けた。
「私は、見世物として見るような映像ではないと思います」
『それほどのものですか』
「堺東なら、今は頭おかしいって笑えるんです」
先ほど流れた映像を振り返る。
「あっちは笑えませんね」
彼女の表情には恐怖というより、深層を知る者だからこその警戒があった。
エベレスト700Fの戦闘記録は、トップハンターに「真神幸一郎の戦い方を真似させる」ために公開されているわけではない。
深層では何が起こり得るのか。
人間がまだ到達していない場所に、どのような危険が存在し得るのか。
その実例として提供されている。
『では、皆さんにとって真神氏の攻略記録は、目標ではない?』
「目標にはしますよ。700Fにいつか行ってみたいとは思います」
『では――』
「でも、真似はしません」
答えは明確だった。
「俺たちは真神じゃないんで」
その言葉に卑下はなかった。
「6人で行く。危なくなったら帰る。何が足りなかったか調べる。装備を改良する。研究者に頼る。それで、また潜る」
3年前には存在しなかった方法だった。
いや、正確には、その方法を作るための材料が足りなかった。
今は違う。
「俺たちは、あいつが一人で歩いた場所まで、人類全体で道を作ってるんです」
『現在407Fです』
「はい」
『真神氏が700Fまで到達していたと知って、遠いとは思いませんか?』
「遠いですよ」
攻略者はあっさり認めた。
「でも昨日まで406だったのが、407になった」
隣の女性ハンターも笑った。
「真神さんが700Fまで行ったことと、私たちが407Fまで来たことは別の話でしょう?」
407Fという数字の価値は、700Fという数字が現れたからといって失われない。
真神幸一郎という一人の人間を追い越すために、彼らはダンジョンへ潜っているわけではない。
昨日まで行けなかった場所へ行く。
そこで何かを持ち帰る。
次は、それを使ってもう一つ先へ進む。
それを繰り返す。
「700Fを一人で歩ける人間を作る必要なんてないんです」
『では、いつか?』
「行きますよ」
攻略者は笑った。
「俺たちなりの方法で」
その日の放送は、407Fという人類の新記録を紹介するために始まった。
ところが終わってみれば、世界中のニュースには別の数字が並んでいた。
700F。
そして、
完全攻略――12。
世界は改めて、真神幸一郎という存在の異常さを知った。
だが同時に、407Fへ辿り着いた者たちは、その数字を見上げながらも立ち止まらなかった。
世界最強の男が、どれほど先を歩いていようとも。
人類はもう、その男と同じ歩き方をする必要はなかった。
次の日。
別の攻略隊が、自分たちの方法で408Fへ向かった。




