最終章 第115話 世界は動き続ける
柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
幸一郎は薄く目を開け、まだ眠気の残る目で天井を眺めた。目覚ましが鳴ったわけでも、誰かに起こされたわけでもない。ただ自然に目が覚めただけだった。
もう一度眠ってしまおうか。
そう考えて身体を動かそうとして、やめた。
腕の中に人がいた。
胸元に銀色の髪が広がっている。規則正しい寝息を立てながら、セルマが幸一郎の胸に頬を寄せて眠っていた。幸一郎の片腕はその身体の下にあり、もう片方は腰へ回っている。ここで動けば、確実に起こしてしまう。
「…………」
幸一郎はしばらくセルマを眺め、それから視線だけを部屋へ向けた。
ベッドの脇には、昨夜脱いだ二人分の服が残されている。
「……まあ、いいか」
幸一郎は再び目を閉じた。
六甲山ダンジョンから帰還し、世界へ戻ってから数年。
そして、あの頃からさらに――3年の月日が流れていた。
「……幸一郎さん」
胸元から声がした。
「ん?」
「起きていますか?」
「今起きた」
「先ほど一度、目を閉じました」
「見てたの?」
「私も今、起きましたので」
セルマが顔を上げる。赤い瞳が、すぐ近くから幸一郎を見ていた。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけ答えて、幸一郎はまた目を閉じた。
「二度寝されるのですか?」
「まだ寝られるだろ?」
「今日は10時から予定があります」
「今何時?」
「7時8分です」
「じゃあ余裕じゃん」
「朝食とシャワーがあります」
「……シャワーはいるな」
昨夜のことを思い出したのか、セルマが僅かに視線を逸らした。
幸一郎はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
3年という時間は、人間関係を変えるには十分だった。
かつてWHAから派遣された秘書と、その担当だったハンターは、いつの間にか同じ部屋で暮らし、同じ食卓を囲み、そして同じベッドで朝を迎える関係になっていた。
いつからそうなったのかと問われれば、二人とも少し困るかもしれない。
少なくとも今となっては、これが特別な朝ではないことだけは確かだった。
結局、幸一郎の二度寝は許されなかった。
シャワーを済ませてリビングへ出る頃には、セルマもいつもの姿に戻っている。朝食を取りながら、幸一郎は何となくテレビをつけた。特に見たい番組があるわけではない。ニュースでも流しておけばいい。その程度だった。
『続いてはダンジョン関連です。昨日午後、国際攻略チームによって世界最深到達記録が更新されました』
パンを口に運びながら、幸一郎が画面を見る。
『今回確認された最深到達階層は407F。これまでの記録405Fを2階層更新しました。攻略隊はすでに安全圏まで帰還しており、死者、重傷者ともに確認されていません』
「……407?」
「はい」
「400超えたんだ」
セルマが幸一郎を見る。
「先月から超えています」
「そうなの?」
「はい」
「知らなかった」
「ニュースでも何度か報じられていました」
「最近あんまり見てなかったからなあ」
「報告書にも記載されています」
「それはもっと見てない」
「存じています」
テレビには、407Fから帰還した攻略隊の映像が流れていた。複数のハンターがWHA関係者や現地スタッフに迎えられ、その後ろでは回収された装備や素材が次々と運び出されている。
かつては100Fを越えるだけでも世界記録だった。
110Fへの到達が各国の研究者を驚かせ、120F、130Fと記録が伸びるたび、大きなニュースになっていた。
今では、人類は400Fを越えている。
もちろん、その道程が平坦だったわけではない。
幸一郎が持ち帰っていた深層装備は、最初の大きな足掛かりになった。それを手にしたハンターたちは、それまでより深い場所へ到達し、今度は自分たち自身で新たな装備や素材を持ち帰った。
それが研究され、次の攻略へ使われる。
六甲山から得られる異鉱物の研究も進み、人類側の技術もそこへ加わった。
装備を拾い、その装備に適合する人間を探すだけだった時代から、装備そのものを人間に合わせようとする時代へ。
画面に、今回の攻略隊が使用した武器が映った。
『今回の記録更新を支えた装備の一つが、こちらの第三世代融合装備です――』
「……融合?」
幸一郎が呟いた。
セルマの手が止まる。
「はい」
「何それ?」
「装備融合です」
「そんなのできるようになったの?」
「2年以上前から研究されています」
「へえ……」
セルマはしばらく幸一郎を見ていた。
「以前、ご説明しました」
「そうだっけ?」
「はい」
「覚えてない」
「そうでしょうね」
怒っているわけではない。
もう慣れているだけだった。
画面では専門家が装備融合について解説している。複数のドロップ装備を単純に組み合わせる技術ではない。それぞれの構造や特性を解析し、利用可能な部分を抽出し、人類側の技術や異鉱物を組み合わせて再構成する。
まだ高価で、製造も難しく、失敗も多い。
それでも、ダンジョンから与えられたものを使うしかなかった人類が、今では自分たちに必要なものを自分たちで作ろうとしている。
幸一郎は、その説明を少し嬉しそうに聞いていた。
「すごいな」
「はい」
「俺、こんなの持ってないぞ」
「当然です。人間が作ったものですから」
「……そっか」
その言葉が、妙に嬉しかった。
自分が拾ったものではない。
自分が持ち帰ったものでもない。
自分の知らないところで、人間が自分たちのために作り上げたものだった。
画面の中では、407Fへ到達したハンターたちが取材を受けている。次の目標を尋ねられた一人が、当然のように410Fと答えていた。
幸一郎はパンを食べながら、その姿をしばらく眺めた。
「……もう俺、いらなくない?」
セルマがゆっくりと顔を向ける。
「どうして、そうなるのですか?」
「だって400超えてんだろ?」
「はい」
「自分たちで装備まで作ってる」
「はい」
「じゃあ、もう勝手に進むじゃん」
「実際、進んでいます」
「いいことじゃん」
その言葉に、寂しさはなかった。
3年前、幸一郎は再びダンジョンへ向かった。
自分がまだ元気で、他の者より先へ進めるうちに、できるだけ先へ行っておこうと思った。
そこで得たものを持ち帰れば、後から来る者が使える。その者がさらに先へ進めば、今度は幸一郎の知らない何かを持ち帰るかもしれない。
自分と同じ歩き方をする必要などない。
ただ、自分がそこを通れたという足跡だけ残しておけばいい。
その足跡を、人類は確かに利用した。
そして今では、そこから外れた新しい道まで、自分たちで作り始めている。
「本当に、それでよろしいのですか?」
セルマの問いに、幸一郎は一瞬きょとんとした。
やがて質問の意味を理解して、テレビへ視線を戻す。
世界最深到達記録、407F。
自分ではない誰かが作った装備を身につけ、自分ではない誰かが、自分ではない仲間たちと辿り着いた場所。
幸一郎は笑った。
「いいに決まってるだろ」
テレビの中では、すでに次の攻略について話が始まっていた。
誰も真神幸一郎が動くのを待っていない。
それでいい。
「で、今日の10時って何だっけ?」
「……そこからですか?」
セルマは小さく息を吐き、手元の端末を確認した。
「WHAからの定期報告です。それと、次回の攻略についてアシュフォード会長から確認があります」
「次?」
「はい」
「俺の?」
「他に誰がいるのですか?」
幸一郎は少し考えた。
「また潜るの?」
「それを私に聞かれましても」
「最近行った気がするんだけど」
セルマの指が端末を滑る。
「前回の帰還から、もう2か月経っています」
「そんな経った?」
「経ちました」
この3年間、幸一郎も何もしていなかったわけではない。
むしろ、潜った。
そして帰ってきた。
釣りをして、祖父母のところへ顔を出し、セルマと買い物へ行き、食べて、眠って、また気が向けば潜った。
17歳からの8年間とは違う。
ダンジョンは、もう幸一郎の生活そのものではなかった。
生活の中に、ダンジョンがある。
それだけだった。
「今度どこだっけ?」
「まだ決まっていません。候補が3か所あります」
「完全攻略?」
「それも幸一郎さん次第です」
「ふーん」
幸一郎が何気なくテレビへ視線を戻すと、ちょうど今回の記録更新へ至る技術発展について振り返る特集へ移っていた。
六甲山から供給された異鉱物。
深層攻略によって得られたドロップ装備。
その解析から生まれた技術。
さらに現在の攻略者自身が持ち帰った、新たな素材と装備。
そして画面の端に、幸一郎の名前が表示された。
「…………」
名前。
所属、WHA。
ランク。
その下に表示された数字を見て、幸一郎の動きが止まった。
『なお、真神幸一郎氏自身も継続的にダンジョン攻略を行っており――』
「セルマ」
「はい」
「俺、何個クリアしたっけ?」
セルマがゆっくりと顔を向けた。
「覚えていないのですか?」
「六甲と、堺東と、ハワイと……」
幸一郎は指を折り始めた。
そこで止まった。
その後が多い。
名前を聞けば思い出す。場所を見ればもっと思い出す。しかし順番に並べろと言われると、かなり怪しかった。
セルマは端末を見る必要すらなかった。
「12です」
「……そんな行った?」
「行きました」
「12かあ」
「ご自分の実績ですよ」
「いや、潜ってクリアして帰ってきただけだし」
「世界では、それを実績と呼びます」
テレビ画面には、しっかりと数字が表示されていた。
完全攻略ダンジョン――12。
その中から幸一郎が持ち帰った装備や素材、そして攻略記録の多くが、この3年間で世界へ渡った。研究されたものもあれば、現役のハンターが使用しているものもあり、いまだ解析すら終わっていないものもある。
幸一郎が先に歩き、何かを持ち帰る。
それを使って別の者が先へ進み、新たなものを持ち帰る。
研究者が調べ、技術者が形にし、また別の攻略者がダンジョンへ向かう。
第4章の終わりに生まれ始めていた循環は、3年という時間の中で世界へ広がっていた。
そして人類が深層へ近づいたことで、もう一つ分かるようになったことがある。
真神幸一郎という一人のハンターが、どれほど異常だったのか。
幸一郎が六甲山ダンジョンの500Fへ辿り着いた頃、装備融合など存在しなかった。異鉱物を利用した装備もなく、深層攻略の蓄積も、400Fを知る研究者もいなかった。
仲間もいなかった。
地上から支援する者もいなかった。
その時代に、彼は一人で500Fまで歩いた。
今、人類は多くのハンターと研究者、技術者、支援組織が積み重ねた力によって、その場所へ近づいている。
世界が強くなったからこそ、以前よりはっきりと分かる。
真神幸一郎は、やはりおかしい。
当の本人は、そんな評価など知らない顔で朝食を食べ終えた。
「……10時まで、まだ時間あるよな?」
「ありますが」
「じゃあ、もうちょっと寝よう」
セルマが時計を見る。
それから、幸一郎を見る。
「一人でですか?」
「…………」
幸一郎は数秒黙った。
「それ聞く?」
「確認です」
「一緒に寝る?」
「仕方ありませんね」
そう言いながら立ち上がったセルマを見て、幸一郎も椅子から立ち上がった。
世界最深到達記録は、407F。
真神幸一郎の完全攻略数は、12。
そしてその朝、世界最強のハンターが次に向かった場所は――寝室だった。
世界はもう、彼が眠っている間にも回るようになっていた




