第4章 第109話 大きな一歩目
最初の更新は、それほど大きな騒ぎにはならなかった。
『世界最深到達記録、更新――118階』
これまで110階前後で停滞していたダンジョン攻略の最深記録が、久しぶりに塗り替えられた。
もちろんニュースにはなった。世界トップクラスのハンターによる新記録であり、異鉱物を利用した新装備の研究が各国で始まっている時期でもある。これまで停滞していた攻略が再び動き始めた兆候ではないかと、専門家たちは期待を込めて語った。
だが、それだけならば誰も異常とは思わなかった。
世界記録は、いつか誰かが更新するものだからだ。
問題は、その数日後だった。
『世界最深到達記録、121階へ』
さらに、その数日後。
『別パーティが123階への到達に成功』
そして――。
『125階到達を確認』
『世界最深記録、再び更新――127階』
そこでようやく、日本の関係者たちも違和感を覚え始めた。
「……ちょっと待て」
大型モニターに並べられた記録を前に、一人が呟いた。
「なんで急に更新が続いてる?」
それまでの世界は、長い間100階という壁に阻まれていた。
もちろん正確に100階で全員が止まっていたわけではない。105階まで進む者もいれば、110階へ到達する者もいた。だが、そこから先へ進もうとすれば危険性が急激に高まり、世界トップクラスと呼ばれるハンターであっても、安全を考えれば撤退を選ばざるを得なかった。
だからこそ、110階への到達だけでも世界記録として扱われていたのである。
それが今、次々と更新されている。
「同じパーティじゃないのか?」
「違います」
資料を確認していた職員が答えた。
「118階と121階は同じですが、123階は別です。125階も別。現在の127階記録も、それまでとは異なるパーティです」
「国籍は?」
「バラバラです」
「……なんだ、これは」
突然、世界中のトップハンターが一斉に強くなった。
そんなはずはない。
能力というものは、数週間で突然跳ね上がるものではない。ましてや一人ではなく、複数の国の複数のハンターが、ほぼ同じ時期に記録を伸ばし始めている。
何か共通する原因がある。
そう考えるのが自然だった。
「攻略映像は?」
「公開されているものを集めています」
映像が切り替わる。
あるパーティの戦闘。
これまでにも何度も映像で見たことのある世界トップクラスのハンターたちだった。
だが――。
「止めろ」
声が飛んだ。
「今のところを戻してくれ」
映像が巻き戻される。
一人の女性ハンターが、敵へ向かって槍を突き出していた。
「……この槍」
「はい?」
「前から使っていたか?」
別の職員が過去の映像を探す。
並べられた二つの映像。
「違いますね」
「メーカーは?」
「確認します」
しばらくして返ってきた答えは、予想外のものだった。
「不明です」
「不明?」
「少なくとも、彼女がこれまで契約していたメーカーの製品ではありません」
「試作品じゃないのか?」
「その可能性はありますが……」
「待ってください」
別の映像を確認していた者が声を上げた。
「こっちもです」
今度は剣だった。
さらに別のパーティ。
「この盾も違います」
「こいつの大剣もだ」
次々と過去の映像との比較が始まった。
全員ではない。
以前から使用していた装備を、そのまま使っている者もいる。
だが、記録を伸ばしているハンターたちの中に、明らかに見たことのない装備を使っている者が複数存在していた。
「……装備か?」
その可能性が浮かび上がった。
◇
最初に疑われたのは、六甲山だった。
異鉱物。
世界中の研究機関が欲しがっていた、ダンジョン深層でしか得られなかった未知の素材。
それが六甲山ダンジョンの《資源庫》化によって、継続的に採掘できるようになった。
そして現在、その異鉱物はWHAを通じて各国の研究機関へ研究資材として提供され始めている。
ならば答えは簡単に思えた。
「異鉱物を使った新装備では?」
だが、その可能性は専門家によってあっさり否定された。
「無理です」
「無理?」
「早すぎます」
研究者は映像に映っている槍を指した。
「異鉱物の供給量が増えたからといって、すぐに完成品ができるわけではありません。我々はようやく、素材を壊すことを恐れずに試験できるようになった段階です」
以前とは違い、今では失敗できる。
切断し、加熱し、圧力を加え、魔力を通し、破壊して内部を調べることができる。
それは大きな進歩だった。
だが、研究できることと、完成品を作れることは同じではない。
「まして、これだけの数を実戦投入するとなれば、加工法の確立だけでは足りません。設計、試作、評価、安全確認が必要です。数週間で用意できるものではありません」
「では、あの装備は?」
「分かりません」
研究者は正直に答えた。
「ただ――」
映像を拡大する。
槍を振るう女性ハンター。
これまでなら慎重に距離を取っていた敵を、一撃で押し切っている。
「少なくとも、我々が現在作ろうとしている試作品より、遥かに先にあるものだと思います」
「……遥かに?」
「魔鉄やミスリルを加工しただけの試作品では、あの挙動を説明できません」
そこで調査の方向が変わった。
装備そのものではなく、それを使っているハンターたちの動向が調べられ始めた。
そして、一つの共通点が見つかった。
記録を伸ばした者たちの何人かが、少し前の同じ時期に公の予定から姿を消している。
短期間だった。
もちろん、それ自体は珍しいことではない。トップハンターであっても私生活はある。非公開の訓練や企業との契約交渉もある。
だが、その後の行動にはもう一つの共通点があった。
「……六甲山?」
「はい」
現在、六甲山ダンジョンの採掘へ参加しているトップハンター。
その中に、同じ顔がいくつもあった。
そして六甲山を管理している組織は――。
「WHAか」
室内が静かになった。
「問い合わせを」
「どこまで聞きます?」
「まず事実確認だ。向こうに説明義務があるとは限らん。非公式な活動なら、こちらが開示を要求できる話でもない」
それでも、聞かなければ何も分からない。
正式な問い合わせがWHAへ送られた。
◇
回答は、意外なほど早かった。
そして、隠す様子もなかった。
『一部のハンターに対し、真神幸一郎氏が所有する装備を貸与しています』
最初の一文で、会議室が静まり返った。
「……真神氏の?」
『はい』
モニターの向こうで、レイチェル・アシュフォードはいつも通りの表情をしていた。
「その装備は、六甲山で産出された異鉱物を使用して新たに製造されたものでしょうか?」
『いいえ』
「では、どこから?」
『真神氏が過去のダンジョン攻略で取得したドロップ品です』
「…………」
誰かが資料をめくる手を止めた。
『六甲山、堺東、ハワイ。三つのダンジョンを攻略する過程で取得し、これまで使用されていなかった装備の一部です』
「少しお待ちください」
確認する側が追いついていなかった。
「使用されていなかったというのは、性能上の問題があったということでしょうか?」
『いいえ』
「では?」
『真神氏の戦闘スタイルに適さなかっただけです』
それだけ。
剣なら剣。
槍なら槍。
盾なら盾。
杖なら杖。
幸一郎自身が使わなかったというだけで、その装備の性能が低いわけではない。
「……取得階層を伺っても?」
『現在、貸与候補として評価しているものは、原則として200階までに取得された装備です』
一瞬、意味が理解されなかった。
「今、なんと?」
『200階までです』
「……まで?」
『はい』
質問した者が、隣にいる者を見る。
相手も同じ顔をしていた。
「では、それより深い階層で取得された装備も存在する?」
『存在します』
「どこまででしょうか?」
ほんの僅かに間を置いて、レイチェルが答えた。
『真神氏が到達した範囲までです』
今度こそ、完全に沈黙した。
六甲山――500階。
堺東――450階。
ハワイ――480階。
三つすべてを最深部まで攻略した男。
当然、その途中には数え切れないほどの戦闘があり、ドロップ品があった。
だが、これまで誰も考えなかった。
幸一郎が身につけている装備については注目していた。
彼が使う武器。
彼が使う防具。
それがどの程度の性能を持っているのか。
そこまでは考えた。
だが――。
使わなかった装備。
その存在を、誰も資産として数えていなかった。
「数量は?」
『正確な数については、現在WHAで確認と分類を進めています』
「かなりの量が?」
『三つのダンジョンを最深部まで攻略した過程で取得したものですので』
答えになっているようで、具体的な数字は何も言っていない。
だが、それで十分だった。
世界のトップハンターが、100階前後で撤退している。
その彼らに、200階付近までのドロップ装備が渡った。
そして、最深記録が次々と更新され始めた。
ようやく全てが繋がった。
◇
「もう一点、確認させてください」
『どうぞ』
「日本人ハンターへの貸与予定は?」
そこで初めて、別の問題が表面へ出た。
レイチェルの表情は変わらない。
『現在の貸与候補者は、先日の非公式評価に参加していただいた方々が中心となります』
「その評価に、日本人ハンターは?」
『参加されていません』
室内の空気が変わった。
「……招待は?」
『しておりません』
「理由を伺っても?」
『真神氏の私有装備について、WHAが必要と判断した方へ個別に協力をお願いした非公式の評価です』
淡々とした答えだった。
『国家別の参加枠を設けたものではありません』
反論しにくかった。
六甲山から産出される異鉱物について、日本の研究機関が排除されているわけではない。
条件を満たせば研究資材の提供を受けられる。
六甲山での採掘についても、日本人であることを理由に拒否されているわけではない。
WHAが公式に実施する国際的な制度から、日本だけが除外されたわけでもない。
今回の話は、そのどれでもなかった。
真神幸一郎という一個人が所有している装備。
それを誰に試してもらうか。
そのためにWHAが何人かのハンターへ、個別に声をかけただけ。
そこに国家ごとの参加枠など、最初から存在しない。
「真神氏本人が、日本人ハンターへの貸与を拒否しているのでしょうか?」
『そのような話は伺っておりません』
さらに逃げ道がなくなった。
「では、今後、日本人ハンターが貸与を受ける可能性は?」
『適性、安全性、運用条件などを満たす方であれば、国籍のみを理由に排除する予定はありません』
「……分かりました」
それ以上、聞けることはなかった。
通信が終了する。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて一人が椅子の背へ身体を預けた。
「つまり……」
言葉を探す。
「日本が排除されたわけではない?」
「そうなる」
「真神氏が拒否したわけでもない?」
「少なくとも、WHAはそう言っている」
「六甲山の研究にも参加できる?」
「できる」
「採掘も?」
「条件を満たせばな」
「では……」
そこで言葉が止まった。
何も奪われていない。
門を閉ざされたわけでもない。
差別的な条件を突きつけられたわけでもない。
ただ、気づいたときには――。
最初の輪の中にいなかった。
◇
その間にも、世界の攻略は止まらなかった。
『最深到達記録――129階』
また一つ、数字が更新された。
日本が異鉱物研究への参加資格を失ったわけではない。
六甲山への道を閉ざされたわけでもない。
真神幸一郎が、日本人ハンターへの装備貸与を拒否した事実もない。
ただ――。
世界のトップハンターたちが、真神幸一郎の持ち帰った深層装備を手にして次々と記録を更新し始めた、その最初の輪の中に。
祖国の人は、一人もいなかった。




