第4章 第102話 狸の皮算用
六甲山ダンジョンの入口へ続く道には、朝から見慣れない車両が何台も停まっていた。
いずれもWHAが手配したものだった。
入口事務所の周囲には黒いスーツ姿の職員が一定の間隔を空けて配置され、その外側にも警備要員が立っている。完全な封鎖ではないが、許可のない者が入口へ近づくことはできない。
幸一郎を守るためではなかった。
少なくとも、彼を物理的に守るためだけに、これだけの人数を並べる意味はない。
彼らが守っているのは六甲山ダンジョンそのものと、これからこの場所で起きるかもしれない何かだった。
その警備の中へ、一台の車が入ってきた。
後部座席から降りた幸一郎は、続いて降りてきたセルマとともに入口へ向かう。
「……なんか多くない?」
「本日の重要性を考えれば、少ないくらいかと」
「そういうもん?」
「はい」
幸一郎自身には、いまいち実感がなかった。
今日やることは単純だ。
六甲山へ入る。
完全攻略時に選択せず、そのまま残してきた《資源庫》を呼び出す。
そこで《異鉱物》を選ぶ。
それだけだった。
入口事務所の前には、すでに二人が待っていた。
「おはようございます、真神さん」
「おはよう、レイチェルさん」
レイチェル・アシュフォード。
そして、その隣に立つ男を見て、幸一郎の足が少しだけ速くなった。
「藤堂さん」
「真神さん。お久しぶりです」
「久しぶり」
藤堂剛。
最後に会ったときと、顔も声も変わらない。
服装も、落ち着いた色のスーツにネクタイ。
ただ、その上に濃色の薄手のコートが一枚加わっていた。
余計な装飾のない簡素なものだったが、胸元には小さくWHAの徽章が入っている。
「……なんか服変わったね」
「所属が変わりましたので」
「似合ってるよ」
「ありがとうございます」
藤堂は穏やかに笑った。
「東アジア統合支部長になったって聞いた」
「ええ」
「偉くなった?」
「肩書きだけなら、以前よりは」
「そっか」
幸一郎は改めて藤堂のコートを見る。
「大変そうだな」
「否定はいたしません」
「藤堂さんのおかげで、六甲山使えるようになったんだろ?」
「私は実務を担当しただけです」
「でも、ありがとう」
「……いえ」
藤堂はわずかに間を置いて、頭を下げた。
「こちらこそ」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
幸一郎にとって、藤堂はJHAそのものではない。
8年ぶりに地上へ戻った自分に服を用意し、シャワーを使わせ、古すぎるカードの処理に頭を抱えながら、それでも一人の人間として扱ってくれた男だった。
その男が今は、WHAの徽章を胸につけている。
それだけのことだった。
「藤堂さんがいるのは分かるけど」
幸一郎はレイチェルを見る。
「レイチェルさんも残るの?」
「はい」
「これ終わったら、すぐ出てくるよ?」
「存じています」
「じゃあ別に待ってなくても」
「だからこそ待っています」
「?」
「《異鉱物資源庫》が開放される瞬間です」
レイチェルは六甲山の入口へ視線を向けた。
「見届けない理由がありません」
「そういうもん?」
「そういうものです」
「そっか」
よく分からない。
ただ、レイチェルが少し楽しそうなのは分かった。
「じゃ、行ってくる」
「はい」
セルマが頷く。
「お待ちしております」
「うん」
幸一郎が入口へ向かおうとしたところで、藤堂から声がかかった。
「真神さん」
「ん?」
振り返る。
藤堂は少しだけ六甲山を見た。
「今度は、ちゃんと帰ってきてください」
幸一郎が一瞬、黙った。
8年前。
ここへ入ったとき、見送る者はいなかった。
帰ってくるつもりがなかったわけではない。
ただ、帰る場所がなかった。
だから下へ進んだ。
進める限り、下へ。
気がつけば、8年が経っていた。
「……うん」
幸一郎は少し笑った。
「今日はすぐ帰ってくるよ」
そして、六甲山ダンジョンへ入っていった。
◇
入口から離れた規制線の外には、すでに数台の報道車両が停まっていた。
最初に異変へ気づいたのは、六甲山周辺を取材していた地元局だった。
完全攻略後の六甲山は待機状態にあり、普段なら大きな動きなどない。
そこへ朝からWHAの車両が何台も入った。
警備要員が配置された。
そして、WHA会長レイチェル・アシュフォードが現れた。
それだけでも十分にニュースになる。
さらに、WHA東アジア統合支部長へ就任したばかりの藤堂剛。
セルマ・リンドベルグ。
最後に、真神幸一郎。
この4人が揃った。
何もないと考える方が難しかった。
「六甲山ダンジョン前です。現在、入口周辺ではWHAによる厳重な警備態勢が敷かれています」
規制線の外で、中継が始まっていた。
「現地にはレイチェル・アシュフォードWHA会長、先日WHA東アジア統合支部長へ就任した藤堂剛氏、さらに真神幸一郎氏とセルマ・リンドベルグ氏の姿も確認されています」
情報は瞬く間に各社へ回った。
さらに政治部から、日本政府とWHAが六甲山ダンジョンの長期管理・利用について協議し、契約が成立したらしいとの情報まで入ってくる。
「なぜWHAが六甲山を?」
スタジオからの問いに、現地記者も答えられない。
「分かっていません。六甲山ダンジョンは真神氏によって完全攻略されて以降、待機状態となっています。現在、内部へ入ることができるのは完全攻略者である真神氏だけです」
「通常のダンジョンとしては利用できない?」
「そのはずです。そして――」
記者が入口へ目を向けた。
「先ほど、真神氏が一人でダンジョン内部へ入りました」
スタジオが静かになった。
「……何をするつもりなんでしょう」
「現在のところ、WHAから発表はありません」
◇
六甲山ダンジョン。
幸一郎にとっては、懐かしい場所だった。
だが、感傷に浸るほど長くいるつもりもない。
最深部まで向かう必要すらなかった。
完全攻略者である幸一郎が意思を向けると、あの日、選ばずに残したものが再び目の前に表示された。
《資源庫》
石油。
石炭。
天然ガス。
メタンハイドレート。
鉱物。
異鉱物。
「残ってた」
幸一郎は少しだけ安心した。
これが消えていたら、別のダンジョンを完全攻略するところから始めなければならなかった。
目的は決まっている。
迷う理由もない。
《異鉱物》
選択する。
《資源種別――異鉱物》
《選択を確定しますか?》
「はい」
表示が切り替わった。
《六甲山ダンジョンを資源庫へ移行します》
《選択資源――異鉱物》
《資源庫管理権限を設定》
《完全攻略者――真神幸一郎》
幸一郎は表示が止まったことを確認した。
「これでいいのかな」
次の瞬間。
鐘が鳴った。
◇
世界中で。
同時に。
六甲山の麓にいた者たちは、その音を誰より近くで聞いた。
黒服の職員たちが一斉に顔を上げる。
藤堂も六甲山を見る。
セルマは静かに入口へ視線を向けた。
レイチェルだけが、ほんのわずかに口元を上げた。
「――始まりましたね」
そして世界へ、システムの告知が流れた。
《六甲山ダンジョンの資源庫設定が完了しました》
《選択資源――異鉱物》
《六甲山ダンジョンは異鉱物資源庫へ移行します》
《産出資源所有者――完全攻略者 真神幸一郎》
一瞬。
六甲山の麓が、奇妙なほど静かになった。
「…………」
「……今、所有者って言った?」
規制線の外で、誰かが呟いた。
「真神幸一郎って……」
「カメラ回ってるよな!?」
「回ってます!」
「今の全部入ってるな!?」
「入ってます!」
次の瞬間、現場が爆発した。
「資源の所有者が真神氏!?」
「六甲山は日本だろ!?」
「違う! 六甲山じゃない! 産出資源だ!」
「異鉱物って何が出るんだ!?」
「WHAに確認取れ!」
「政府にもだ!」
中継中だった記者は、イヤホンを押さえながらカメラへ向き直る。
「たった今、世界規模のシステム告知が発生しました! 六甲山ダンジョンが《異鉱物資源庫》へ移行。そして、そこから産出される資源の所有者として、完全攻略者である真神幸一郎氏が指定されました!」
ネットも同時に動いた。
『また真神か』
『六甲山に入った直後だぞ』
『異鉱物資源庫って何?』
『魔鉄とかじゃね?』
『ミスリルも出るのか?』
『待て、所有者って言ったぞ』
『真神のものなの?』
『六甲山は日本だろ』
『六甲山じゃなくて出てくる資源が真神の物って言ってる』
『どういうルールだよ』
『知らん。システムに聞け』
一般の人間には、まだ《異鉱物資源庫》の意味が分からない。
だが、研究者たちの反応は違った。
魔鉄。
ミスリル。
それまで、研究したくても試料そのものが足りなかった。
深層でしか得られない。
深層へ行くためには、より優れた装備が必要になる。
だが、その装備を作るための材料が深層にある。
その循環を崩すため、WHAは世界中の研究機関へ幸一郎が持ち帰った試料を配っていた。
それでも量には限界がある。
もし、《異鉱物資源庫》という名前が、その言葉通りの意味を持つのなら。
世界中の研究機関が、ほぼ同時に動き始めた。
◇
そして、日本政府でも。
《産出資源所有者――完全攻略者 真神幸一郎》
告知が終わった後も、会議室には沈黙が残っていた。
「……今、なんと言った?」
「産出資源所有者」
「そこじゃない」
「……真神幸一郎」
「そう聞こえたよな」
「はい」
すぐに契約書が開かれた。
「六甲山そのものの権利は?」
「日本側にあります。そこは変わりません」
「WHAは?」
「長期管理・利用権です」
「産出される異鉱物は?」
「……システム上は、真神氏の所有になるようです」
「そんな話、聞いてないぞ」
「WHAも把握していたかどうか分かりません。少なくとも、交渉では説明されていません」
「契約は?」
ページがめくられる。
「新たな資源その他の経済的価値が発生した場合について、利益分配条項があります」
「なら、少なくとも備えはあるか」
「はい」
一人が大きく息を吐いた。
驚きはした。
だが、何も決めていなかったわけではない。
何が起きるか分からないからこそ、事前に条件を作った。
それが、今になって意味を持っていた。
「……あとは、WHAと真神氏がどうするかだな」
◇
鐘が鳴ってから、さほど時間は経っていなかった。
六甲山ダンジョンの入口から、人影が現れた。
「出てきた!」
「真神氏です!」
「真神幸一郎氏が出てきました!」
規制線の外で、カメラが一斉に向けられる。
その遥か手前。
WHAの警備要員に囲まれた内側で、幸一郎は片手を上げた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
セルマが迎える。
「早かったですね」
「選ぶだけだったから」
藤堂がわずかに笑った。
「今回は、本当にすぐでしたね」
「言っただろ?」
「ええ」
幸一郎も笑う。
「ちゃんと帰ってきたよ」
「何よりです」
それから幸一郎はレイチェルを見る。
「外でも鳴った?」
「はい」
「また世界中?」
「そのようです」
「所有権のところも?」
「世界中に」
「……あれも?」
「あれもです」
「マジか……」
幸一郎が頭を掻いた。
レイチェルはそんな彼を見ながら尋ねる。
「真神さん。中でも同じ表示が?」
「うん。俺が完全攻略者だからだと思うけど」
「なるほど」
レイチェルの表情は落ち着いている。
だが、彼女にとっても、産出資源そのものの所有者がシステムによって明示されることまでは想定外だった。
「それなんだけど」
「はい」
「WHAに渡せばいいよな?」
「…………」
レイチェルが黙った。
セルマも幸一郎を見る。
藤堂だけが、何とも言えない表情で二人を見比べた。
「何?」
「真神さん」
「うん」
「今、世界中があなたを《異鉱物資源庫》から産出される資源の所有者として認識したところです」
「うん」
「もう少し重く受け止めてください」
「でも研究用だろ?」
「……はい」
「だったら俺が持ってても仕方ないじゃん」
幸一郎は六甲山を振り返った。
「これ、研究材料が足りないからやったんだろ?」
「その通りです」
「じゃあ、研究してるところに配ればいいよ。どこに何をどれだけ渡すとか、俺には分からないし」
「無条件でWHAへ所有権を譲渡することは認めません」
「なんで?」
「認めません」
「……はい」
返事が早かった。
セルマが静かに補足する。
「管理および運用をWHAへ委ねる形がよろしいかと思います。真神さんの意思に反する用途へ使用できないよう、契約上の制限も必要です」
「そこまでしなくてもいいんだけど」
「必要です」
「セルマまで……」
「必要です」
「はい」
2対1だった。
幸一郎は早々に諦めた。
「じゃあ、その辺は任せる」
「承知しました」
レイチェルはすでに次へ進んでいた。
「資源の運用方針を確認します」
「うん」
「一般市場への販売は?」
「必要ある?」
「研究資材として利用する限り、現時点ではありません」
「じゃあ売らなくていいんじゃない?」
「研究機関への提供を優先する?」
「うん。そのためにやったんだし」
「承知しました」
決まった。
幸一郎にとっては、それだけの話だった。
レイチェルは端末を取り出す。
「発表を出します」
「もう?」
「そのために現地まで来ています」
「ああ……」
ようやく幸一郎にも、レイチェルがここにいる理由が分かった。
この瞬間を見届けたい。
それもあるのだろう。
だがWHA会長本人が現地にいれば、何が起きたのかを自分の目で確認し、その場で組織としての判断を下せる。
レイチェルは端末へ短く指示を送った。
「予定していた文面を修正します。システムによる所有者指定を追記。真神さんとの協議結果も入れてください」
「早いな」
「世界はすでに動いていますから」
「そっか」
「こちらも動きます」
◇
それから、さほど時間はかからなかった。
規制線の外で待ち続けていた記者の一人が、スマートフォンを見て声を上げた。
「WHAから発表出たぞ!」
周囲の記者たちが一斉に端末を見る。
WHA公式サイト。
新着情報の最上段。
『六甲山ダンジョン《異鉱物資源庫》への移行について』
本日のシステム告知により、六甲山ダンジョンが《異鉱物》を産出する《資源庫》へ移行したこと。
同じくシステム告知により、産出される資源の所有者として、完全攻略者である真神幸一郎が指定されたこと。
そして、真神幸一郎との協議の結果、その管理および運用をWHAが担うこと。
そこまでは、世界がすでに知っている事実の確認だった。
人々の目が止まったのは、その次だった。
『六甲山ダンジョンから産出される異鉱物については、真神幸一郎氏の意向に基づき、一般市場への販売を目的とせず、ダンジョン攻略技術の発展に資する研究資材として運用します』
さらに続く。
『一定の条件を満たす研究機関に対し、国籍を問わず順次提供を行う予定です』
「……売らない?」
「異鉱物を?」
「全部研究用ってことか?」
「真神氏が決めたのか?」
「そう書いてある!」
「WHAに問い合わせろ!」
「研究機関への提供条件もだ!」
記者たちが一斉に電話をかけ始めた。
大学。
研究機関。
素材メーカー。
WHA。
日本政府。
JHA。
そして世界中の報道機関が、一斉に同じ話題を追い始めた。
◇
「……売らない?」
日本政府でも、同じ文面が読まれていた。
「はい」
「全部、研究資材?」
「少なくとも発表では、一般市場への販売を目的としない、と」
「…………」
契約書が、もう一度開かれた。
「利益分配条項は?」
「有効です。新たな資源その他の経済的価値によって利益が発生した場合、日本側にも契約に基づく分配があります」
「そうだな」
「はい」
「利益が発生した場合は」
「はい」
「でも、売らない」
「現時点では」
「…………」
長い沈黙が落ちた。
「つまり、売却益は?」
「ありません」
「……そこは読めなかったな」
誰も笑わなかった。
日本側の判断が間違っていたわけではない。
六甲山そのものに関する権利は維持した。
WHAの利用条件も定めた。
何が起きるか分からないからこそ、新たな経済的価値が発生した場合の利益分配まで事前に決めた。
情報が足りない中で、考えられる限りの備えはした。
ただ一つ。
真神幸一郎が、その資源から金銭的な利益を得ること自体に興味を持っていなかった。
そこまでは読めなかった。
「研究機関への提供条件を確認してくれ」
「すでに問い合わせています」
「国内の研究機関も対象なのか?」
ほどなくして、WHAから回答が届いた。
国籍による除外は行わない。
研究能力、研究計画、成果共有、利用目的その他の条件を満たす機関について、国を問わず審査対象とする。
日本国内の研究機関も、当然そこに含まれていた。
「……日本を外す気もないのか」
「そのようです」
「じゃあ、本当に研究用なんだな」
「少なくとも、現時点では」
男はしばらく黙ってから、もう一度WHAの発表へ目を落とした。
六甲山ダンジョン。
かつて価値が低いと見られ、人の出入りも少なかった場所。
17歳の少年が逃げ込み、そのまま8年間を過ごした場所。
その少年が25歳になって戻り、今度はそこを、後から続く者たちのための資源庫へ変えた。
そして、その資源の所有者として世界そのものから名指しされながら、本人はそれを自分のために使おうとはしなかった。
世界中で、研究機関からWHAへの問い合わせが殺到し始めている。
魔鉄。
ミスリル。
そして、その先にある、まだ十分な研究すらできていない異鉱物。
これまで深層へ到達しなければ手に入らなかったものが、研究者の手へ届く道が開いた。
それが何を生むのか。
まだ誰にも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
人類が深層へ進むために足りなかったものが、この日、六甲山から流れ始めた。




