第4章 第101話 隠れた資産の行方
六甲山ダンジョンについての最初の協議から数日。
日本政府内では、WHAから提示された申し入れについて検討が続けられていた。
だが、六甲山を調べ直しても、結局のところ日本側が新たに発見できたものはなかった。
待機状態。
新規進入不可。
完全攻略者である真神幸一郎のみ進入可能。
完全攻略前後の記録にも、日本側が把握していない明確な変化は見つからない。
つまり、分からないままだった。
「少なくとも、我々が保有している情報だけなら、六甲山に現在大きな経済的価値があるとは考えにくい」
「しかしWHAは欲しがっている」
「正確には、真神氏が利用したがっている、ですね」
「そこなんだよな……」
会議室の机には、ハワイダンジョンに関する資料も置かれていた。
完全攻略後、年間600万バレルという石油を最低30年間産出することになったダンジョン。
あれを見た後で、完全攻略済みの六甲山に何の価値もないと決めつけることはできなかった。
「我々が価値を知らないことと、価値がないことは同じではありません」
その言葉に反論する者はいなかった。
「なら、売却は避けるべきか」
「そもそもWHAは、所有権にこだわっていません」
資料が一枚、机の中央へ滑らされた。
「日本側が所有権を保持したまま、WHAに長期の管理・利用権を設定する。それで先方の目的は達成できる可能性があります」
「期間は?」
「それは交渉でしょう。ただ、短期間では意味がないと思います」
「問題は、その後だな」
別の出席者が口を開いた。
「仮にWHAが六甲山を利用した結果、新たな経済的価値が発生した場合、それをどう扱う?」
全員が黙った。
そこだった。
今の六甲山に価値があるかどうかではない。
WHAが六甲山を利用した後に、何が起きるのか。
「事前に決めておくしかないでしょう」
「利益分配を?」
「はい」
日本が所有権を保持する。
WHAが長期管理・利用権を得る。
そして、その運用によって新たな資源その他の経済的利益が生じた場合、その利益をあらかじめ定めた割合で分配する。
「……ハワイと同じ形か」
「完全に同じではありませんが、考え方としては近いかと」
「向こうが受けるかな」
「それを確認するための交渉です」
前回とは違う。
分からないから拒否するのではない。
分からないからこそ、何が起きても双方が困らない条件を先に決める。
その方針で、日本側の対案はまとめられた。
◇
「所有権は日本側に残す、ですか」
「はい」
再び開かれた協議の席で、日本側から提示された条件を聞き、レイチェルは静かに頷いた。
隣には藤堂がいる。
今日もスーツの上には、WHAの徽章が入った薄手のコートが羽織られていた。
「その代わり、WHAには長期にわたる管理権および利用権を設定します。期間については今後詰める必要がありますが、WHAの活動を不当に制限するものにはしない」
「合理的だと思います」
レイチェルはあっさり答えた。
日本側の何人かが、わずかに肩の力を抜く。
「ただし、一点あります」
やはり来た。
「六甲山ダンジョンの利用によって、現在存在していない資源、その他の経済的価値が新たに発生した場合です」
「はい」
「その利益については、日本側にも一定の権利を認めていただきたい」
「構いません」
また即答だった。
今度は日本側が少し戸惑った。
「……よろしいのですか?」
「当然でしょう。日本国内に存在し、日本側が権利を保持するダンジョンです。WHAだけが利益を独占する必要はありません」
レイチェルはそこで藤堂を見る。
藤堂が資料を一枚取り出した。
「むしろWHAとしても、その点は事前に明文化しておきたいと考えています」
「事前に?」
「はい。何らかの価値が発生した後で権利関係を協議すれば、双方の主張が衝突する可能性があります」
「……何か発生すると考えておられる?」
藤堂は答えず、レイチェルへ視線を向けた。
「可能性についての話です」
レイチェルが答えた。
「発生しない可能性もあります」
「しかし、発生した場合の割合は先に決めておきたい」
「はい」
「…………」
やはり何か知っている。
だが、それ以上は聞いても答えないだろう。
「割合について、WHA側に希望はありますか?」
「ハワイダンジョンで採用している割合を、一つの基準として考えています」
「ということは……」
「現地側70%、WHA29%、真神氏1%です」
会議室が少しざわめいた。
日本だから条件を変えるわけではない。
かといって、日本を特別扱いするわけでもない。
ハワイと同じ。
「真神氏も、その条件で?」
「確認します。ただ――」
レイチェルが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「おそらく、異論はないでしょう」
◇
『日本70%、WHA29%、あなた1%です』
「うん」
『……まだ説明の途中です』
「ハワイと同じだろ?」
『基本的には』
「じゃあ、それでいいよ」
WHAの拠点。
ソファに座った幸一郎は、レイチェルからの通話を聞きながら、ほとんど迷わず答えた。
向かいではセルマが資料を確認している。
『日本側は六甲山そのものの所有権を保持します。WHAが長期管理・利用権を取得する。新たな経済的利益が発生した場合には、先ほどの割合で分配する。現在は、その方向で調整しています』
「使えるなら、それでいいよ」
『所有権そのものには?』
「いらない」
『そう仰ると思いました』
「俺、六甲山の地主になりたいわけじゃないし」
セルマがわずかに視線を上げた。
『では、この条件で交渉を進めます』
「頼む」
『それと、もう一点』
「まだあんの?」
『仮に《資源庫》で《異鉱物》を選択した場合、産出された異鉱物の権利関係です』
「ああ」
そこで幸一郎は少し考えた。
「それって、どうなるんだ?」
『分かりません』
「分からない?」
『ハワイでは、資源庫を選択した真神さんに管理権限が設定されました。ただし、システムが資源そのものの所有権をどのように扱っているのか、法的に整理できるだけの事例がありません』
「ふーん」
『今回、異鉱物という物体が実際に産出されれば、より明確な表示が出る可能性があります』
「じゃあ、出てから考えれば?」
『人間社会の契約については、先に決めておきます』
「そっか」
幸一郎はあまり興味がなさそうだった。
セルマはそれを見ていたが、何も言わない。
レイチェルだけが通話の向こうで小さく息を吐いた。
『もし、システムが異鉱物を真神さん個人の所有物として認定した場合はどうしますか?』
「ん?」
『例えば、です。六甲山から産出されるすべての異鉱物について、完全攻略者であるあなたに所有権がある、と表示された場合です』
「俺に?」
『はい』
「全部?」
『仮定の話です』
「…………」
幸一郎は少しだけ眉を寄せた。
金額を考えている顔ではない。
面倒臭そうな顔だった。
「じゃあ、WHAに渡せばいいんじゃない?」
セルマが資料から顔を上げた。
通話の向こうも、数秒静かになった。
「だって俺が持ってても仕方ないだろ。研究に使うんだし、売ったり配ったりするのもWHAがやるんだろ?」
『真神さん』
「ん?」
『今、かなり大きな財産を丸ごと譲渡する話をしています』
「まだ出てもないじゃん」
『そういう問題ではありません』
「じゃあ出てからでいいよ」
『そういう問題でもありません』
「難しいな……」
セルマが小さく口を開いた。
「真神さん」
「うん?」
「その場合は、アシュフォード会長に契約を作っていただきましょう」
「契約?」
「はい。WHAへ所有権を移すのであれば、その範囲、用途、管理方法などを明確にしておいた方がよろしいかと」
「全部任せちゃ駄目なの?」
『駄目です』
即答だった。
「レイチェルさん、そこだけ早いな」
『あなたが簡単に渡そうとしているものの価値を、あなた自身が理解していないからです』
「異鉱物だろ?」
『そういう意味ではありません』
「またそれか……」
セルマがほんの少し笑った。
幸一郎は頭を掻く。
「まあいいや。じゃあ、その辺は任せる」
『承知しました。少なくとも、真神さんの意思を無視してWHAが自由に処分できる契約にはしません』
「別にそこまで――」
『します』
「……はい」
話は決まった。
◇
その後も細かな条件の調整は続いた。
日本側は六甲山に対する権利を保持する。
WHAは長期的な管理・利用権を得る。
運用に必要となる費用は、原則としてWHA側が負担する。
そして、六甲山の利用によって新たな資源その他の経済的価値が発生した場合、その利益は日本70%、WHA29%、真神幸一郎1%を基本として配分する。
日本側にとって、悪い条件ではなかった。
現在の六甲山は誰も利用できず、収益も生んでいない。
所有権を失わない。
維持と運用をWHAが担う。
その上、何か新しい利益が発生すれば、日本側にも大部分が還元される。
それでも。
「……やっぱり、何かあるんだろうな」
最終案を確認しながら、一人の官僚が呟いた。
「でしょうね」
「それを知らないまま契約するのか」
「知らないからこそ、契約するんでしょう」
隣の男が答えた。
「少なくとも、何が起きても権利関係で揉めないようにしておく。今できるのは、それくらいです」
「なるほどな」
しばらく契約書を眺めてから、男は苦笑した。
「それにしても……」
「何です?」
「真神氏の1%、本人は本当にこれでいいのか?」
「WHAからは了承済みと聞いています」
「年間600万バレルのときも思ったが……変なところで欲がない人だな」
「だからWHAが間に入ってるんじゃないですかね」
「……それもそうか」
数日後。
双方の最終確認を経て、六甲山ダンジョンに関する長期管理・利用契約が成立した。
契約書を受け取った藤堂は、内容を最後まで確認してから静かに閉じた。
かつてJHA大阪支部長として管理していた六甲山。
そこへ、今度はWHA東アジア統合支部長として関わることになった。
「確かに、お預かりしました」
薄手のコートの胸元には、WHAの徽章がある。
日本側の担当者はそれを一度見てから、藤堂へ手を差し出した。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
握手が交わされた。
◇
その日の夜。
『真神さん』
「ん?」
『六甲山、使えるようになりました』
「お、ほんと?」
『はい。正式に契約が成立しました』
「じゃあ行こうか」
『いつになさいますか?』
「明日」
『…………』
「駄目?」
『いえ』
電話の向こうで、レイチェルが小さく笑った。
『あなたなら、そう仰ると思っていました』
「じゃあ明日で」
『承知しました』
通話を切る。
幸一郎は隣にいたセルマを見る。
「明日、六甲山行こう」
「はい」
「たしか、まだ選択画面残ってるはずだから」
「《資源庫》ですね」
「うん」
8年前。
帰る場所を失った17歳の少年が、一人で入ったダンジョン。
8年間を過ごし、500Fまで降り、最後まで攻略した場所。
そして今度は。
そこに眠ったままになっているものを、後から歩いてくる者たちのために使う。
「異鉱物、どれくらい出るかな」
「分かりません」
「魔鉄いっぱい出るといいな」
「そうですね」
「じゃ、明日見に行けば分かるか」
幸一郎にとっては、それくらいの話だった。
だが翌日。
六甲山ダンジョンが8年間待ち続けていた選択肢は、人間社会がまだ知らなかったもう一つのルールを、彼らの前に示すことになる。




