第4章 第100話 原点
WHAから日本政府へ、一通の正式な照会が届いた。
担当部署で受理された文書は、通常の国際協議案件として処理されかけ――件名を確認したところで止まった。
『六甲山ダンジョンに関する権利取得協議の申し入れ』
担当官は一度読み、念のためもう一度読み返した。
差出人は世界ハンター協会――WHA。
内容は、六甲山ダンジョンについて、所有権を含む長期的な管理・利用に関する権利取得の可能性を協議したいというものだった。
それだけならば、前例のない案件ではあっても、まず法的な整理から始めればいい。
問題は、その対象だった。
「……六甲山?」
今の日本政府で、その名前を軽く扱える者はいなかった。
真神幸一郎が17歳で入り、8年後に帰還したダンジョン。世界で初めて500Fまで完全攻略された場所。そして、その攻略者である真神幸一郎は現在、日本のJHAではなくWHAに所属している。
照会はすぐに上へ回された。
通常より、明らかに速かった。
担当部署から局長級へ。関係省庁へ。ダンジョン行政を担当する部門へ。そして、六甲山の管理記録を持つJHA東京本部へ。
その日の午後には、複数の場所で似たような言葉が聞かれることになった。
「……今度は何だ」
冗談ではなかった。
ほんの少し前、JHAは大阪支部長だった藤堂剛へ退職を勧告した。その藤堂をWHAが迎え入れ、東アジア統合支部長へ据えたばかりである。
結果として、日本国内で真神幸一郎と最も長く接点を持ち、その対応を担ってきた実務責任者の一人が、その経験ごとWHAへ移った。
政府からJHA東京本部へ、その判断について事情確認が行われたのも、つい先日のことだった。
その直後である。
今度はWHAが、六甲山を欲しいと言ってきた。
◇
政府側では、すぐに六甲山ダンジョンについての情報が洗い直された。
だが、資料を確認すればするほど、WHAが今さら六甲山を欲しがる理由が分からなくなった。
六甲山ダンジョンは現在、待機状態にある。
真神幸一郎によって完全攻略されたことで通常の活動を停止し、入口そのものは存在しているものの、新たな攻略者を受け入れていない。
現在、内部へ入ることができるのは、完全攻略者である真神幸一郎だけ。
攻略には使えない。
内部資源の通常採取もできない。
新人ハンターの育成にも使えない。
さらに言えば、完全攻略される以前から、六甲山は人気のあるダンジョンではなかった。
攻略によって得られる利益、当時確認されていた資源、難易度、他のダンジョンとの比較。そうした条件を総合すれば、積極的に六甲山を選ぶ理由に乏しかった。
攻略者が殺到するような場所ではない。
人の出入りも少ない。
8年前。
17歳だった真神幸一郎が、人から離れ、身を隠す場所として六甲山ダンジョンを選んだ背景にも、それがあった。
誰も彼を追わなかった。
そもそも、そこへ入っていく者自体が少なかった。
戻る場所を失った少年は、そんな場所へ一人で入り、他のハンターなら撤退する深度を越え、そのまま8年間、下へ進み続けた。
そして500Fへ到達した。
今では世界で最も有名なダンジョンの一つとなった六甲山も、もともとはそういう場所だった。
人気がなかった。
価値が低いと見られていた。
そして完全攻略された現在は、誰も入れない。
それを――WHAが欲しいと言っている。
「……余計に分からんな」
資料を読み終えた一人が呟いた。
「攻略拠点として取得する意味はありません」
「当然だ。入れないんだからな」
「観光利用もできない。通常の資源採取もできない」
「それでもWHAは欲しい」
「はい」
「向こうから六甲山を名指しで?」
「間違いありません」
部屋が静かになった。
使い道が見当たらない。
少なくとも、日本側が持っている情報だけを材料にするなら。
「……こちらが知らない何かを、WHAは知っている」
誰も否定しなかった。
その可能性を考えない方が不自然だった。
そして、完全攻略後のダンジョンに、攻略以前とはまったく異なる価値が生じ得ることを、日本政府はすでに知っている。
ハワイが、それを世界中へ見せつけた。
年間600万バレル。
最低30年間。
完全攻略されたダンジョンが巨大な石油供給源へ変わるなど、事前に予測できた者はいなかった。
そのハワイを完全攻略したのも、真神幸一郎。
そして今、その真神幸一郎が所属するWHAが、彼が最初に完全攻略した六甲山を欲しがっている。
「六甲山とハワイの違いを洗え」
「すでに始めています」
「完全攻略時の記録もだ。真神氏が帰還した直後から、確認できるものは全部」
「JHAにも照会します」
「頼む」
一人が資料へ視線を戻した。
そこには、現在の六甲山について簡潔に記されている。
待機状態。
新規進入不可。
日本側から見れば、ほとんど使い道のないダンジョンだった。
だからこそ、気味が悪い。
「WHAは、あそこで何をするつもりなんだ……?」
◇
同じ頃。
JHA東京本部にも、政府から六甲山ダンジョンに関する資料提出の要請が届いていた。
「過去の管理記録一式。真神幸一郎氏帰還時の現地記録。完全攻略確認後の状態変化に関する記録……全部です」
「理由は?」
「WHAから、六甲山ダンジョンに関する権利取得の申し入れがあったそうです」
「…………」
会議室に沈黙が落ちた。
「WHAが?」
「はい」
「六甲山を?」
「はい」
確認しても答えは変わらなかった。
「……何に使うんだ」
「分かりません」
「完全攻略済みだぞ」
「分かっています」
そして、続く報告が空気をさらに重くした。
「なお、WHA側の実務担当者も通知されています」
「誰だ?」
「東アジア統合支部長――藤堂剛氏です」
先ほどより長い沈黙が落ちた。
誰も何も言わない。
言ったところで、どうにもならない。
藤堂を大阪支部長の席から外したのはJHAである。
退職を勧告したのもJHAである。
その藤堂をWHAが雇用し、東アジア統合支部長へ任命することに、JHAが口を挟める理由などどこにもない。
そして六甲山の現地事情を知り、日本国内の制度を知り、真神幸一郎本人とも接してきた。
人選としては、これ以上ないほど適切だった。
「……資料を出せ」
ようやく声がした。
「政府から求められたものは全部だ。余計な判断はするな」
「分かりました」
「それと、こちらでも六甲山を洗い直せ。完全攻略の前後で何か変化がなかったか。真神氏が帰還した際、こちらが意味を理解できず見落としたものがなかったか」
「はい」
誰かが小さく息を吐いた。
「今度は、何なんだ……」
その問いに答えられる者は、東京本部にもいなかった。
◇
そして、協議当日。
政府側の会議室には、予定時刻よりかなり早く関係者が集まっていた。
机上には、六甲山について集められるだけ集めた資料が並んでいる。
それでも、WHAが六甲山を欲しがる理由だけは分からなかった。
「確認します」
開始直前、政府側の責任者が口を開いた。
「本日は、売るとも売らないとも即答しません」
何人かが頷く。
「まず相手の目的を確認する。こちらが把握していない価値が六甲山に存在する可能性を否定しない。その上で、法的に何が可能なのかを整理する。条件の話はそれからです」
「承知しました」
「相手が何を知っていて、こちらが何を知らないのか。そこを見誤らないでください」
一つ一つには理由がある。
一つ一つは、組織として理解できる判断である。
それでも、その先に望んでいなかった結末が待っていることがある。
彼らは、つい最近それを目の前で見たばかりだった。
同じ轍を踏むつもりはなかった。
そこへ、来訪者の到着が告げられた。
会話が止まる。
やがて、扉が開いた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
最初に入ってきたのは、WHA会長レイチェル・アシュフォード。
そして、その隣を歩いてきた男を見て、何人かの表情がわずかに固くなった。
「お久しぶりです」
藤堂剛。
顔も、声も、立ち居振る舞いも、彼らの知る藤堂と何も変わっていない。
服装も、落ち着いた色のスーツにネクタイ。
ただ一つ。
その上に、見慣れない薄手のコートを羽織っていた。
濃色の生地に、余計な装飾のない簡素な仕立て。その胸元には、小さくWHAの徽章が入っている。
たったそれだけの違いだった。
だが、それだけで十分だった。
つい先日までJHA大阪支部長だった男は、もうJHAの人間ではない。
「WHA東アジア統合支部長、藤堂剛です。本件については、私が実務面を担当いたします。よろしくお願いいたします」
「……よろしくお願いします」
変わったのは、所属だけ。
そして今日は、その所属を示す徽章が、はっきりと藤堂の胸にあった。
人選としては正しい。
六甲山を知っている。
日本の制度を知っている。
真神幸一郎を知っている。
東アジア統合支部長という現在の役職まで考えれば、これ以上の適任者を探す方が難しい。
だからこそ、何人かにとっては胃の痛い光景だった。
双方の紹介が終わり、協議が始まった。
「まず、今回の申し入れについて確認させてください」
「はい」
レイチェルが応じる。
「WHAは、六甲山ダンジョンそのものの所有権取得を希望している、という理解でよろしいでしょうか」
「必ずしも所有権に限定しておりません」
レイチェルは手元の資料を開いた。
「六甲山ダンジョンについて、WHAが長期的かつ安定して運用できる権利を確保すること。それが我々の希望です。日本の法制度上、所有権の移転が適切でないのであれば、長期管理権、利用権、その他の形式でも構いません」
「運用、ですか」
「はい」
「六甲山ダンジョンは、すでに完全攻略されています。現在は待機状態にあり、真神氏以外は内部へ入ることもできない」
「承知しております」
「その六甲山を、WHAは何に利用するのでしょうか」
「今後の活動に必要となるためです」
答えにはなっている。
だが、日本側が知りたい部分には答えていない。
「もう少し具体的に伺うことは?」
「現時点では、回答を控えさせていただきます」
レイチェルの表情は変わらない。
「今回の申し入れは、真神幸一郎氏とも関係が?」
「はい」
今度は即答だった。
「発案は真神氏です」
何人かの視線が上がった。
「真神氏本人が、六甲山ダンジョンの取得を希望している?」
「正確には、六甲山ダンジョンをWHAが利用可能な状態にできないか、という相談を受けました。所有そのものに真神氏の関心はありません」
「目的については?」
「先ほど申し上げた通りです」
「非公開、と」
「はい」
短い沈黙が落ちた。
やはり、何かがある。
それだけは、ほぼ間違いない。
そして当然、一部の視線がレイチェルの隣へ向いた。
「藤堂支部長」
「はい」
「藤堂さんは、六甲山ダンジョンについて詳しかったと記憶しています」
「現地の運用については、ある程度」
「今回、WHAが六甲山を希望する理由についても?」
「承知しております」
藤堂はごく普通に答えた。
「……伺うことはできますか?」
「申し訳ありません」
藤堂はわずかに頭を下げた。
「WHA内部の非公開情報になりますので、私からお話しすることはできません」
「そうですか」
「はい」
それ以上、誰も聞かなかった。
所属する組織の非公開情報を外部へ漏らさない。
当然の対応である。
ただ、その当然の対応をしている男の胸にある徽章が、以前とは違う。
それだけだった。
「では、別の方向から確認させてください」
「どうぞ」
「六甲山でなければならないのでしょうか」
レイチェルは少しだけ考えた。
「いいえ」
日本側の何人かが、わずかに表情を変えた。
「六甲山でなければならない、ということではありません」
「では、日本側が今回の申し入れを受け入れなかった場合は?」
「別の候補を探します」
「真神氏も、それで?」
「構わないとのことです」
再び沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、先ほどとは少し性質が違った。
WHAは六甲山を欲しがっている。
真神幸一郎も、その利用を希望している。
だが、執着してはいない。
日本が拒否するなら、別の場所へ行く。
圧力ではなかった。
取引材料ですらない。
単なる事実だった。
だからこそ、判断が難しい。
「……一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
「今回の申し入れは、ハワイダンジョンの完全攻略後に確認された事象と、何らかの関係がありますか?」
その質問に、レイチェルはほんのわずかに間を置いた。
「その質問についても、回答を控えさせていただきます」
「……分かりました」
誰も表情には出さなかった。
回答を拒否したこと自体を、肯定と解釈することはできない。
だが、考慮しないわけにもいかなかった。
そこから先は、より実務的な話へ移った。
そもそもダンジョンを売買の対象として扱えるのか。土地の権利とダンジョン内部の管理権を分離できるのか。安全保障上の問題はどう扱うのか。WHAに長期利用を認めた場合、日本側にはどのような権限が残るのか。
前例のない話だった。
レイチェルも即答を求めなかった。
藤堂も、日本国内の制度を踏まえながら、WHA側が必要とする条件を一つずつ確認していく。
交渉というより、まだ交渉を始めるための条件整理に近い。
そして数時間後。
「本日の段階では、結論をお伝えすることはできません」
「承知しております」
日本側の言葉に、レイチェルは頷いた。
「政府内で法的な扱いも含めて検討します。その上で、改めて協議の場を設けさせてください」
「もちろんです。我々も即答を求めているわけではありません」
双方が席を立つ。
そこで、日本側の一人が藤堂へ声をかけた。
「藤堂さん」
「はい」
「……随分、早い再会になりましたね」
藤堂は少しだけ笑った。
「私もそう思います」
「まさか、次にお会いするときがWHA側だとは思いませんでした」
「私も想像しておりませんでした」
「……お元気そうで」
「ええ。おかげさまで」
それ以上の言葉はなかった。
藤堂は軽く頭を下げ、レイチェルとともに会議室を出ていった。
濃色の薄いコートを羽織った、その後ろ姿が扉の向こうへ消える。
扉が閉まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
机の上には、WHAから提出された資料が残されている。
六甲山ダンジョン。
完全攻略済み。
待機状態。
新規進入不可。
WHAが権利取得を希望。
発案者、真神幸一郎。
目的、非公開。
「……さて」
一人が椅子へ座り直した。
「どう見ます?」
「何かある」
「でしょうね」
「問題は、それが何なのかだ」
別の一人が資料へ視線を落とす。
「ハワイについて聞いたとき、否定しませんでした」
「肯定もしていない」
「分かっています。ですが、無視するわけにもいかないでしょう」
「当然だ」
六甲山の権利を渡してから、その価値に気づく。
それは避けたい。
だからといって、正体の分からない何かを恐れて拒否する。
その結果、WHAと真神幸一郎が別のダンジョンへ向かう。
それが正しい判断なのかも分からない。
そして何より、日本側は最近、よく似たものを見たばかりだった。
一つ一つには理由があった。
一つ一つは理解できる判断だった。
それでも、その先に望んでいなかった結末が待っていることがある。
「即断はしない方がいいでしょう」
「ああ」
「調べられるだけ調べる。法制度も、六甲山の現状も、完全攻略前後に起きた変化も」
「それから判断するしかないな」
結論は出なかった。
少なくとも、この日は。
ただ一つだけ、出席者の認識は一致していた。
「……で」
誰かが呟いた。
「六甲山に、何があるんだ?」
答えを知っている者は、もう会議室にはいなかった。




