第4章 第98話 追いかけてきた過去
それは、誰かが新しい事実を暴いたことから始まったわけではなかった。真神幸一郎について調べていた誰かが、8年前の記事へ辿り着いた。ただ、それだけだった。
『真神って、そもそもなんで17歳でダンジョン入ったんだ?』『冤罪事件のあとだろ』『それは知ってる。事件の詳しい経緯って残ってないの?』『昔の記事ならあるぞ』
そんなやり取りから始まった。
真神幸一郎。17歳で冤罪事件の当事者となり、補導と取り調べを受け、高校を事実上退学する形で去った少年。その後、祖父母宅へ移り、やがて失踪した。事件が冤罪だったことが確定した時には、もう少年は帰ってこなかった。
その後8年間、六甲山ダンジョンの中にいた。
今では多くの人間が知っている話だった。だが、事件そのものを詳しく知る者は少ない。そして誰かが、さらに過去を掘った。
『当時のログ残ってる』『マジ?』『魚拓あるぞ』『これ?』『うわ』
8年前。冤罪が明らかになった直後にも、小さな炎上は起きていた。当時高校生だった、事件の発端となった女子生徒。その人物について、一部の人間が面白半分に調べていた。
学校名。名前。そして、一枚の写真。
どこから持ち出されたものなのか、それすら今となっては分からない。制服姿の少女が、友人たちと並んで笑っている写真だった。
『これ、当時晒されてた女じゃない?』『名前まで出てるじゃん』『写真も残ってんのかよ』『待て待て、本人って確定してんの?』『当時の書き込みではそうなってる』『8年前の未成年の写真を今さら拡散するのは違うだろ』『真神本人が名前出したわけでもないぞ』『でも虚偽申告した女子生徒がいたこと自体は確定してるんだろ?』『だからって今のWHAまで全部こいつのせいにするのは無茶だぞ』
やり取りが続く中、一つの書き込みが落ちた。
『全部の原因なんて誰も言ってない。ただ、最初の一個はここだったんだなって話』
◇
彼女が最初に気づいたのは、自分の名前だった。
「…………え?」
スマートフォンを持ったまま指が止まる。同姓同名だと思った。そう思いたかった。だが、そのすぐ下に表示されていた写真を見た瞬間、その可能性は消えた。
高校の制服を着て、友人と並んで笑っている少女。17歳の自分だった。
「……なんで。なんで、これ……」
投稿には、さらに古いページへのリンクが貼られていた。恐る恐る開き、表示された日付を見て息が止まる。
8年前だった。
『冤罪だったってよ』『じゃあ最初に言い出した女は?』『○○高校の――』
その先に、自分の名前があった。さらに下には、今見たものと同じ写真まで残っている。
「……残ってたの?」
消えたと思っていた。いや、消えたことを確認したわけではない。いつしか誰も話題にしなくなった。検索することもなくなった。だから終わったと思っていただけだった。
8年間、誰も拾わなかったものがネットの底に沈んでいた。それを今、誰かが拾い上げた。
理由は分かっている。
真神幸一郎。
その名前が、あまりにも大きくなってしまったからだ。
六甲山を完全攻略し、堺東を攻略し、ハワイを攻略した。日本のJHAではなくWHAへ所属し、ハワイでは《資源庫》から石油が産出されるようになった。そして今では、彼が持ち帰った異鉱物を使った研究が世界各地で進み、つい先日には異鉱物装備を使用した攻略隊が110Fへ到達して世界最深記録を更新した。
日本でも連日報じられている。見たくなくても目に入った。だから彼女は、できるだけ真神幸一郎の記事を開かないようにしていた。
それなのに今、その真神幸一郎の記事のすぐ下に、自分の17歳の写真がある。
『この女が真神の冤罪の原因になった奴?』『正確には虚偽申告の発端になった女子生徒らしい』『今どうしてんだろ』『特定やめとけ』『これ以上掘る必要ある?』『真神本人、こいつについて何も言ってないだろ』『でも、この時の高校生が今の真神なんだよな』『このあと8年間六甲山だもんな』
スクロールする指が震えた。閉じればいい。そう思うのに、閉じられない。
『日本への異鉱物試料が2か月遅れたのも、元を辿ればこいつじゃね?』
「違う……」
反射的に声が出た。だが、その書き込みにはすぐに反論がついた。
『それはさすがに飛躍しすぎ』『WHA選んだ理由がこの事件だけとは限らんだろ』『藤堂がWHA行ったのまでこの女の責任にする気かよ』『そこまで背負わせるのは違う』
正しい。そうだ。自分には関係ない。
真神幸一郎がWHAへ行ったことも、日本への異鉱物試料が先行した国々より遅れたことも、藤堂という元JHA大阪支部長がWHAへ移ったことも、ハワイから石油が出ることも、世界のハンターが110Fへ到達したことも、何一つ自分が決めたことではない。
「……私のせいじゃない。そこまで、私のせいじゃない……」
誰もいない部屋で呟いた。
その通りだった。8年後に起きたことまで、当時高校生だった自分一人の責任にされる理由などない。警察が何をしたのか。学校がどう対応したのか。彼の家族が何を言ったのか。そして最後に六甲山へ入ることを選んだのは、真神幸一郎自身だ。
全部を自分のせいにされるのは、おかしい。
彼女はもう一度、画面を見た。
『全部の原因なんて誰も言ってない。ただ、最初の一個はここだったんだなって話』
「…………」
そこだけは、否定できなかった。
8年前、自分が嘘をついた。そこから事件が始まった。幸一郎は否定した。それでも事件は進んだ。そして自分の嘘が明らかになった時には、彼はもういなかった。
そこだけは、誰のせいにもできなかった。
◇
ネットで過去の情報が掘り起こされた翌日、それに目を付けた者たちがいた。
週刊誌だった。
「これ、裏取れるか?」
編集部の机に、8年前の写真が置かれた。
「当時の記事は確認できました。冤罪が確定したことも、女子生徒による虚偽申告が発端だったことも確認できます。ただ、氏名は記事では伏せられています」
「ネットに残ってる名前は?」
「学校と年代は一致しています。写真の出所は不明です。同級生で連絡が取れそうなのが何人かいます」
「本人は?」
「現在の所在らしきものまでは」
編集者は机の上の写真を見た。8年前なら、地方で起きた一つの冤罪事件だった。それが今では違う。写真の向こう側にいたもう一人の高校生は、世界で初めて六甲山500Fを踏破した真神幸一郎。WHAへ所属し、ハワイの《資源庫》を動かし、世界のダンジョン攻略そのものを変え始めている人物だった。
「同級生から当たれ。確認できるまでは断定するなよ」
「了解です」
彼らにとって、それはもう8年前に終わった事件ではなかった。
今、世界でもっとも注目されるハンターの原点だった。
◇
インターホンが鳴った。
彼女は顔を上げた。宅配便を頼んだ覚えはない。もう一度鳴ったが、玄関には近づかなかった。やがて音が止まり、ほっと息を吐いた直後、今度はスマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
一度切った。数秒後、また同じ番号から着信する。そのままにしていると留守番電話へ切り替わった。
『突然のお電話、失礼いたします。週刊――編集部の――と申します。8年前の真神幸一郎氏に関する事件について、いくつかお伺いしたいことがありまして――』
身体が固まった。
途中で再生を止め、スマートフォンを伏せる。
だが、その日のうちに別の番号からも電話が来た。
8年前の出来事は、もう画面の中だけには収まっていなかった。
◇
翌朝、彼女は周囲を確認してから外へ出た。誰もいない。それを確かめて歩き出したところで、背後から声がした。
「――○○さんですか?」
足が止まった。男が一人、こちらへ近づいてくる。
「週刊――です。8年前の真神幸一郎さんの事件について、少しお話を伺いたいのですが」
「違います。人違いです」
考えるより先に答えていた。
「当時、真神さんと同じ高校に在籍されていましたよね?」
「知りません」
「現在ネット上で再拡散されている写真について、ご本人で間違いありませんか?」
「やめてください」
「真神さんが現在WHAに所属されていることについて、どうお考えですか?」
「やめてください!」
それでも質問は続いた。
「日本への異鉱物試料の提供が、先行した研究機関より約2か月遅れたことについては――」
「私には関係ないでしょう!」
声が響いた。
記者が止まり、彼女自身も止まった。
「……私には、関係ない」
昨日から何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
記者はわずかに間を置いて、別の質問をした。
「では、8年前の虚偽申告については?」
「…………」
「現在、真神さんに対して何かお話しになりたいことはありますか?」
答えられなかった。
「……失礼します」
それだけ言って歩き出した彼女を、記者は追わなかった。
◇
数日後、記事が出た。
『「私には関係ない」――真神幸一郎氏“8年前の冤罪”渦中の元女子生徒を直撃』
大きな見出しの下に、現在の彼女の名前も顔写真も掲載されてはいなかった。ネット上で再拡散されている情報について、編集部では複数の関係者への取材から一部を確認したものの、私人であることを考慮して詳細な個人情報の掲載を控えた、と記されている。
そして記事の末尾には、真神幸一郎のWHA所属、日本への異鉱物試料の提供時期、その他現在生じている国際的状況と8年前の事件について、直接的な因果関係は確認されていないとの一文まで添えられていた。
書いてあることは、存外冷静だった。
見出し以外は。
『「私には関係ない」いただきました』『いや異鉱物が2か月遅れた件は実際この人の責任じゃないだろ』『そこはそう』『週刊誌も一般人追い回すなよ』『でも8年前の虚偽申告については答えてないんだな』『突撃されて答えろって方が無茶だろ』『真神本人は何か言ってんの?』『何も』『むしろ一回もこの女の名前出してない』『じゃあ周りが勝手に燃えてるだけじゃねーか』『そうだぞ』『でも事件そのものは消えないからな』
意見は割れた。8年前の行為を責める者もいれば、現在の出来事まで彼女一人に背負わせることを批判する者もいた。私人への突撃取材そのものを問題視する声も少なくなかった。
その中に、短い書き込みがあった。
『これ一番怖いの、真神が何も言ってないことじゃない?』
◇
「真神さん」
「ん?」
セルマに呼ばれ、幸一郎は顔を上げた。
「8年前の事件について、当時流出した個人情報が再び拡散されています。虚偽申告を行った女性の氏名と写真です。週刊誌による本人への取材も行われました」
「ああ……週刊誌って元気だな」
「真神さんにもコメントを求める連絡が届いています」
「俺に?」
「はい」
「ないよ」
「では、そのように回答します」
「あ、待って。『コメントはありません』でいい」
「承知しました」
「俺が何か言ったら、また余計に騒ぐだろ」
「おそらくは」
「じゃあ言わない」
セルマが頷く。幸一郎はそこで話を終えかけ、少し考えてから付け加えた。
「ただ、俺の名前使ってその人を脅したり、何かやらせようとする奴が出たら、それは止めて」
「真神さんの意思を騙る行為について、ですね」
「うん。俺がやらせてるみたいになるのは嫌だから」
「分かりました」
「頼む」
「はい」
それで終わった。
幸一郎は彼女の名前を世界へ告げなかった。写真を公開したわけでもない。罰を求めてもいなかった。そして、助けようともしなかった。
8年前、一人の少女が真神幸一郎について一つの嘘を語った。その言葉は周囲へ届き、多くの人間と組織を巻き込み、やがて彼の人生を変えていった。
8年後、真神幸一郎は彼女について何も語らなかった。
それでも世界の方が過去を辿った。
世界に影響を与えるほど大きな存在となった男が、なぜ17歳で一人、六甲山へ入ったのか。その始まりを探して、8年間ネットの底に沈んでいた一枚の写真まで拾い上げた。
過去は消えていたのではない。
ただ、誰も見ていなかっただけだった。




