土の章 第8話――「肉」と「骸」の境界線
夜明け前の午前4時。
星さえも凍りつくような冷気が漂うなか、
5歳のあいは、約束通りザビーヤ(屠畜)小屋の重い扉を押し開けた。
鼻を突くのは、
昨日よりもさらに濃く、
ねっとりと肺にへばりつくような生暖かい血の匂いだ。
「……おはよー、じーちゃん。早いんだね」
暗がりの中で、
じーちゃんはすでにナイフを研いでいた。
シュッ、シュッという規則的な音が、
静まり返った小屋に不気味に響く。
「まあな。もう50年、この仕事を続けてる。
始めたのは、
じょーちゃんよりもう少し年をとってからだったがな……」
じーちゃんは顔を上げず、
研ぎ澄まされた刃先を見つめたまま答えた。
あいはその背中を見つめながら、
昨日の光栄な食卓と、
目の前の凄惨な現実を脳内で繋ぎ合わせようとしていた。
「ねえ? わたしも肉は食べたことがあるよ。
……美味しかった。でも、
こんなに血なまぐさいところがあるなんて知らなかった。
肉は、ただの肉だったもん」
あいは、自分の小さな手を見つめた。
「初めて見たときは気絶しちゃった
……ほんと。……ねえ、じーちゃん?
動物たちをかわいそうだって、思ったことないの?」
「そうじゃな……」
じーちゃんの手が止まり、深い皺に埋もれた瞳があいを捉えた。
「まあ、感情移入してたら続かないのが正直なところじゃな。
何千という塊を、この手で、このナイフで殺してきたからな……」
老人の声は、乾いた砂のように冷徹だった。
けれど、その後に続いた言葉には、濁った沼の底にあるような重みがあった。
「それでも、人は殺しちゃいない。
……いいかじょーちゃん。
人は殺しちゃいけねえ。
……まあ、わしのような人殺しの手をしたもんが言うなってところだがな」
「…………」
「なあ、じょーちゃん。
さっき肉を食べたって言ってたな。
どこで食べたんだ? そんな小さな子が、ひとりでか?」
あいは一瞬、視線を泳がせてから、唇を噛んだ。
「……それは内緒。子供にだって、いろいろあるんだよ」
高校生のあいのぼやき(独白)
(……あーあ、まじでえげつない。
あっちの世界じゃさ、スマホ片手に
「焼肉食べ放題」とか言って、
キラキラした照明の下で肉を焼いてたんだよ。
マックのバーガーだって、可愛い包み紙に入っててさ。
こんな、鉄錆びた匂いが充満してて、
足元が血の海で、はらわたがぶちまけられてる光景なんて、
誰も知らない。
こんなの見せたら、客なんて一人も来ないよね。
みんな叫んで逃げ出すよ。
日常と「死」が完全に切り離されてたんだなって、
今さら気づく。
でもさ、今あいの目の前にあるこの「えげつなさ」こそが、
あっちで食べてたものの正体なんだよね……。
逃げたくても、あいの服にはもう、
この匂いが染み込んできてる。皮肉だよね、ほんと……)
じーさんは、あいの浅黒く汚れ始めた頬と、
それでも光を失わない瞳をじっと見つめた。
(こんな小さな子が、どこで肉を食うような境遇にいたのか。
……わけありなのは見てわかるが、あまりにも危うすぎる。
この場所の毒に、こいつの魂まで腐らされなきゃいいがな……)
じーさんは大きな溜息をつくと、
棚から薄汚れた布に包まれたものを取り出した。
「まあ、よく来たな。じょーちゃん。
もう少ししたら、みんなも来る。
それまで待ってろ。……おお、そうだ。朝ごはん、食べてないんだろ?」
じーちゃんは、石のように硬いパンと、色の悪い干し肉を差し出した。
「パンと干し肉しかねえが、今のうちに食っておけ。
……午前中の仕事はきついからな。
腹が空いてちゃ、この血の匂いに酔って、また倒れちまうぞ」
あいは差し出された干し肉を受け取った。
その肉は、昨日見た「動物の塊」の一部だったものだ。
あいはそれを、躊躇うことなく小さな歯で強く噛み締めた。
「……いただきます、じーちゃん」
生々しい塩気と、かすかな獣の匂い。
5歳のあいは、屠畜場の冷たい床に座り込み、
血の匂いのなかで、生きるための糧を必死に咀嚼し始めた。




