土の章 第7話 屠畜場の洗礼――血と鉄の道理
薄暗い石造りの建物の中には、
外の陽光を拒絶するような重苦しい空気が停滞していた。
5歳の小さなあいの前に立っているのは、
脂ぎった革の前掛けをつけ、
安酒と煙草の匂いをさせた、
深い皺の刻まれた老人だ。
老人は欠けた歯を見せ、
あいを値踏みするように睨みつけると、
しゃがれ声で吐き捨てた。
「さて、じょーちゃん。ここで何が行われてるか、
説明してやろうか。
……まあ、簡単に言えば、牛や豚を殺して、
肉をバラバラに切り分ける。それがここでの『仕事』だ。」
あいは、足元に広がる黒ずんだ血の跡をじっと見つめ、
唾を飲み込んだ。
「……じーちゃん。殺して、バラバラにするのが、お仕事なの?」
小さな問いかけに、老人は鼻を鳴らした。
「そうだ。じょーちゃん、残酷だろう?
だがな、あんたが路地裏で見かけるような小綺麗な格好をした貴族どもは、
この血まみれの肉を、よだれを垂らして好んで食うのさ。
わしらみたいな下っ端が、ドブネズミにまみれてこういう仕事を引き受ける。
それが、この世界の逃れられん『道理』ってやつだ。
わしも食っていかなきゃならんからな……。」
「どうり……。食べなきゃ死んじゃうから、
殺すの? じーちゃんも、私も、食べなきゃいけないから、やるの?」
あいは首をかしげ、じーちゃんの濁った瞳を覗き込んだ。
老人は鼻をつまむような仕草をして、
周囲の空気を指し示した。
「まずな、ここは独特の生暖かい血の匂いが漂っている
。空気には常に鉄分が含まれていて、
いくら水で洗い流そうが、この死の臭いだけは消えやしねえ。
……なあ、じょーちゃん。さっきまで気絶してやがったろ?」
「……ごめんなさい。鼻の奥が、熱くて、痛かったから。
……でも、もう大丈夫。じーちゃん、私は倒れないよ。」
あいは袖で鼻を拭い、逃げ出したい衝動を奥歯で噛み殺した。
「仕事は朝4時半から昼の2時までだ。
早く始まり、早く終わる。
朝は早いぞ、覚悟はいいか?
ま、午後は早く終わるんだ、
あとは野垂れ死のうが自由にするがいい。
ただしな、朝は絶対に遅れるんじゃねえぞ。」
「朝の4時半……。
わかった。暗いうちにここに来る。じーちゃんより早く来るよ。」
「フン、言いやがったな。
……ここでは流れ作業でな、内臓、毛、皮が次々に取り除かれていく。
じょーちゃんは体がちいさいから、せいぜい雑用係だろうが、
ま、まずは見て学べ。
……いいか、動物ってのはな、
ナイフで急所を一突きにするんだ。
くれぐれも苦しませるんじゃねえぞ。
慈悲じゃねえ、肉がダメになるからだ。
暴れさせれば肉が硬くなり、まずくなる。」
「……苦しませると、不味くなるんだ。
死んじゃうのに、痛くしちゃだめなんだね。
……じーちゃん、私、よく見てる。
どうすれば上手く殺せるか、
じーちゃんのナイフを見てるよ。」
あいは、老人の腰で不気味に光るナイフを食い入るように見つめた。
「よく見ておくんだ。
そしてナイフの使い方を学ぶんだな。
……それが、
いずれじょーちゃんの身を守る術にもなるだろうよ。
ノコギリの使い方もな。」
「……私の、身を守る? ナイフは、
私を守ってくれるの?
じーちゃんも、ずっとそうやって、自分を守ってきたの?」
あいの小さな手が、
恐怖を打ち消すように自分の細い腕を強く掴んだ。
「次は肉を切り裂いて、血抜きをする。
完全に血を抜くのに4、5時間はかかる。
そのあとは、一番汚れる仕事が待っている。
……はらわたを全て取り出してな、
汚染廃棄物として処理するのさ。
クソと血にまみれる覚悟は、
できてるか? ええ、じょーちゃんよ。」
強烈な「はらわた」の臭いが風に乗って鼻を突く。
あいは一瞬、胃の底がせり上がるのを感じたが、
それを力ずくで飲み込んだ。
「……血だらけになってもいいよ。汚いのも、
もう怖くない。じーちゃん、私、ここでやる。
……だってお腹が空くのは、それよりずっと怖いんだもん。」
老人の嘲笑が、湿った石壁に反響する。
5歳のあいは、その鉄の匂いが混じった空気を肺いっぱいに吸い込み、
血の海の上で、小さな、けれど確かな一歩を前に踏み出した




