土の章 第6話 泥濘のザビーヤ小屋――悪魔の契約と天使の空腹
あいはようやく、
その深い「風の虚無」から意識の底へと引きずり戻された。
「……っ……、くっ……」
瞼を持ち上げようとするだけで、
全身に鉛を流し込まれたような重痛い感覚が走る。
そして、意識より先に鼻腔を蹂躙したのは、
耐え難いほどの凄まじい腐敗臭だった。
血の生臭さ、内臓の腐りかけた臭い、
そして得体の知れない獣の脂の匂い……。
それらが熱気と混ざり合い、
あいの頭からつま先までをドロドロとした眩暈で満たしていく。
「……なんなんだよ……これ……、最悪……」
視界が歪む。
ここは、まともな人間が住む場所じゃない。
剥き出しの土、こびりついた赤黒い染み。
壁には正体不明のフックがぶら下がり、
床には何かの「残骸」が散らばっている。
けれど、そんな地獄のような光景の中でも、
無慈悲なまでの生存本能が声を上げた。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
あいの小さな、
けれど成長したばかりの5歳の腹が、
情けないほど大きく鳴り響く。
こんな状況でもお腹は空く。
生きようとする細胞が、叫びを上げている。
「おい、じょーちゃん。
ようやくお目覚めかよ。……しぶとい生命力だな」
逆光の中から、
地の底から響くような嗄れた声がした。
そこに立っていたのは、
一人の初老の男。
かつては「じーさん」と呼べるような温和な風貌だったのかもしれない。
だが、今の彼の瞳には、慈悲など一滴も混ざっていない。
男の手は、手首までべったりと赤黒く汚れていた。
今しがたまで、何かを「解体」していた証拠だ。
その節くれ立った指先は、まるで岩にこびりついた呪いのよう。
「……どうするよ、じょーちゃん。
とりあえずの『餌』なら用意してやらんこともないがね」
男はじりじりとあいに歩み寄る。
その足音が、骨を砕く音のように嫌に耳に残る。
「望むならここに置いてやってもいい。
行き場のないガキを一人路頭に迷わせるほど、
俺も鬼じゃねえ……。
だがな、ここでの暮らしは、
お前がさっきまで見ていた夢よりもずっと『厳しい』ぞ」
男は、壁にかけられた無骨なナイフを愛でるように指でなぞった。
その仕草には、獲物の弱点を値踏みするような冷徹な悪意が滲んでいる。
「見ての通り、ここは動物の解体をなりわいとするザビーヤ小屋だ。
……いいか、この世界はな、生まれた瞬間に道が決まってんだよ。
お前みたいな身分の知れねえガキに、仕事を選ぶ権利なんてねえ。
そのボロボロの襤褸を見りゃ分かる。
下人か、それともどこかの主から逃げ出してきた奴隷か?」
男の濁った眼光が、あいの細い首筋を舐めるように動く。
「……で、どこから来たんだ? 答えによっちゃ、
今すぐその汚え体を放り出さなきゃならねえ」
あいは、乾いた喉を鳴らした。
恐怖はある。けれど、
それ以上に「生への渇望」が、
あいの瞳を王のような鋭さで輝かせる。
「さあ……。気が付いたら、ここにいたんだよ。
……食べるものなんて何もないし、
さっきまで死にかけてたんだ。
過去なんて、風が全部削り取っていったわ」
あいは、震える体で精一杯、男を睨みつけた。
泥だらけの顔の中で、その大きな瞳だけが宝石のように燃えている。
「ねえ、じーちゃん。
……ここで働けば、ご飯、くれるんだよね?
飢えないだけの『パン』と、
凍えないための『居場所』……それは、ここにあるの?」
男は一瞬、あいの気圧されるような眼光に言葉を失った。
この小さなガキのどこに、これほどまでの覇気が宿っているのか。
男の口角が、醜く吊り上がる。
「……ふん。いい度胸だ。
ああ、そうだ。きちんと働き、
俺の『道具』として役に立つならな。
泥水にまみれても、血の臭いにまみれても、
死なない程度の飯は保証してやるよ」
「……わかった……。約束だよ……」
あいは、いちまつの安堵を得た。
けれど、あまりの悪臭と、
急激に動き出した血液の熱量に耐えきれず、
彼女の意識は再び、深い闇へと溶け落ちていくのであった




