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そして準備だけに費やした時間は終わり、
ついにこの時がやってくる。
「思えば、ここまで来るだけでも時間がかかったもんだ」
「あんま時の流れが早いみたいな発言を多用すんなよ。じじいっぽく見えちまうぜ」
「流石は一度中年の人生を歩んだことはあるな」
「このやろー、二十代はまだ中年じゃねえよ」
シャニの肩をがくがく揺さぶる。揺さぶられているシャニはハハハと豪快に笑い飛ばした。
「なんか……男子を見てると緊張感無駄になるしっ」
「いいんじゃないかなぁ。暗いなんてわたしたちらしくないもん」
「そーそー。明るく楽しくー。お気楽にいきましょー」
「……今からやる張本人がその能天気はどうなのかしら」
かといって、女子陣も特別気負っているわけでもない。教室の空気を、そのまま持ち出したようだった。
――【ナゴョミ】へ力を見せつける。
いくらでも解釈できるし、方法もあるであろう、そんな課題。
話し合って決めた、魔の力を叩き込むという、単純な行動。
これから起こる出来事を前にして、中等部の面々は、これはあくまでも日常の延長である、と決めていた。
「こうして待ってると、月って動くの遅いよな」
「なにか日本語でいい表現でもないのか?」
「そうだなあ。〈立待月〉……立って待つ月、って言い回しがある。満月の夜の二日後は立って月が出るのは待てる。その翌日になると〈居待月〉。座って待つ月。更に次の日は〈寝待月〉。寝ながら待つ月。今日のは満月のはずなのに〈立待月〉だけどな」
「風流さがあっていいな」
「トゥールスルトも天文学は重要だろ? なんかあったりしないのかよ」
「そうだなあ。――――」
シャニから説明受ける。それは、こちらの世界での法則に、トゥールスルトの哲学観の混ざった、また異文化の香りがする表現の数々。
「えっとねぇえっとねぇ、レチクラもあるよそういうの! ――――」
そうしてナージもそれに続けと、レチクラ語での慣用句を教えてくれる。
「……汝らは自分らの言葉しか使えないのかしら。――――」
なにを触発されたのか、リィンが自身の出身国ではなく、何故かセゴナ語の古い表現を言い出してくる。
「ええ? そんなかび臭いの、今日日言わないしっ。――――」
それに対抗してか、マイカは今風の言い回しをしてきた。流石はルォズヌの愛読者。現実で使ったことあるのかしら不明だが、ばっちりと都会ギャルっぽい言い方ができていた。
「くすくす」
特定の言語に特化していないサクラは、ただ、へーとだけ頷きながら、本当に楽しそうな笑顔を撒いていた。
古今東西。人は、月へ向けた枢要な感情を抱いてきている。
「いつかトゥールスルトの月もみんなに見せてやりたい」
「いつかなんて言わないでさ。すぐ実現させようぜ。そうだ、修学旅行として行くのはどうよ。もちろんチカキも含めて」
「いいなそれ。うん。真剣にやってみたい」
そんな、近い将来の青写真を撮り続ける。
「――――」
月が南中する。
同時に。
サクラの魔が全身から噴き出る。
来た、と誰もが本質的に感じ取れた。
それまでの和やかな雰囲気など、今は投げ捨てよう。
準備などとうにできている。
【ナゴョミ】から十歩ほど離れた位置に男二人は並んでいる。フーマは自分たちの説が正しければ、ただそこにいることが重要。シャニに特別な役割はないが何かがあれば遊撃的に当たる。
男二人から半分ほどの距離で、女子三人が並ぶ。各々の方法で、魔をサクラに渡す。変換効率は悪いが、少しでもサクラの足しになるならそれでいい。
そして、一番前にいるのは、サクラ。
フーマの知識にある名前だと和服としか言えない格好……装束の上に、斎服で身を包む。一片の影すらも許さぬ、真っ白な生地で仕立てられたそれは、目に入るだけで心を浄化する。
フーマの隣にいるシャニも、先程から目を顰めてサクラを見ている。フーマと同じ気持ちなのだろう――果たしてそれがサクラであるのかすら怪しくなる。纏う雰囲気もあって尚更に疑問となるほどに。それでも今から鍵を握る人物が、ずっと一緒にいた仲間であることを見失ってはならない。そう強く思うほど、自然に顔が険しくなっていく。
思うしかないのが、こんなにもどかしいとは。
サクラはその大きな袖口から伸びる細い両腕を、ゆっくりと【ナゴョミ】へ触れさせた。
瞬間。
風が、【ナゴョミ】を中心として吹いた。
実際のそれは、風などと表現できる生やさしいものではなかった。突風……衝撃波、とでも言っておいた方がいいかもしれない。空気の壁が重量を伴って移動する。そんな感触すらした。
それに晒された一同は、大きく後ろへ吹っ飛ばされる。すんでのところで、背中に咲いた大きな花弁で受け止められ、大事には至らない。
僅か一秒にも満たない、刹那の出来事であった。
突然の出来事、誰もがそんな対策、取れているはずがないだろうに――サクラだけが、微動だすらなく、変わらずにそこへ居続けた。
「この子、呼吸を始めたみたい」
サクラのその一言で、何が起きたかなんて、誰もが理解できた。
【ナゴョミ】はサクラに触れられると同時、まずは活動を始めた。それがどのような仕組みなのかはどうでもいい。ただ確かなのは、ただ呼吸をしただけで、これほどのエネルギーを霧散させるということ。
またも衝撃。
先程よりも柔らかく、一同は花弁に包まれる。その後も数秒おきぐらいに、不規則なリズムで衝撃が起こる。その都度、サクラは花弁を作り、みんなを守る。
これじゃあいけない。フーマはそれを強く思った。
全員で協力して【ナゴョミ】を咲かす。それが目的のはず。なのにどうしたことだ。サクラに任せっきりどころか、サクラの足を引っ張っているではないか。
「――ナージ!」
フーマは真っ先に、ナージへ呼びかけた。
「!」
それだけで理解してくれた。
フーマを見ずに頷いたナージは、自身の持てる最大の規模で、【単響楽団】を発動させる。それと同時、サクラは花弁を全て消失させた。
「【なーちゃんの降誕序曲】!」
大きく題を読み上げたナージは、打楽器の壮健さから始まり、管楽器のつんざく音色を針として空気ごと八方を貫く。弦楽器の震えが、管楽器の用意した針ごと空間を揺れさせる。
今ここに存在する気体は、【ナゴョミ】が呼吸するためでなく、ナージが世界の美しさを伝えるための触媒に塗り変わる。
不規則だった【ナゴョミ】の呼吸は規則正しく、またとてもたわやかなものへと変わっていく。――それは、母の腕の中で子守唄を聞き、背中をとんとん叩かれて安心する赤子のような。
そうして少しずつ空気は落ち着いていく。ようやく両の脚で立ってられるようになる。
――すると、視界が一瞬にして、暗くなっていく。
なにが。なにがどうなっている。
展開が早い。もともと想像できる範囲のことが起きるなどとは思っていなかったが、一度冷静になる隙など与えてくれない。
ナージが演奏の手を緩める。するとすぐにまた【ナゴョミ】は呼吸を始めた。演奏を止めるわけにはいかない。ナージは踏ん張って、何があっても演奏を続けるよう腰を据えた。
そう考えている間にだって、視界は暗くなっていき――違う。
「……光、それ自体を食っているのか?」
シャニが呟く。どういうことだ、とシャニの方を向く。……それで気がついた。
暗いのではない。色がないのだ。
シャニ髪の毛が白い。制服の複雑な紋様までも白い。全てが白い。
自分の髪の毛を見る。これも黒に染めているはずなのに白い。輪郭線は感じ取れる。色だけが抜けている。虹彩に入っていく色の要素がない。
「私たちを見ようとしている」
サクラが【ナゴョミ】の現状を伝えてくる。
それで分かった。シャニとサクラの一言で、点を線として結べられる。
ああ、そういうことなのか、と。
「――マイカ! 【照明弾】!」
「わ、分かったしっ!」
「とにかく強く! みんなの色を作り出せ! 髪の色だけでもいい!」
マイカは全くついていけてないようだったが、フーマの断定的な口調により、それだけを遂行しようとしてくれる。
……【ナゴョミ】は、今度は色を食べ始めた。それがどのような栄養となるものなのか。そんなことは知ったことではない。ただ、食べ尽くされたが最後、体液が枯れるように、身体を構成する何かを吸い尽くされてしまう。そんな本能的な恐怖もあったのだ。
対処療法ではあるが、それに対抗するには、色を取り戻す。
瞳に入った光は、角膜と水晶体を通ったときに屈折して、網膜で像を結ぶ。そして網膜は光の明るさや色合いを感じとる視細胞が密集している。ここに到達した光の情報は、視神経を通り、脳の中の視覚野という部分に送られて、ようやく映像となる。
今、【ナゴョミ】は周囲の光を分解している。言ってみれば、この周囲そのものが【ナゴョミ】の瞳の役割となっている。
ならば必要なのは、ビタミンA、レチノールの役割か。フーマは自分で納得できる表現に噛み砕く。
マイカが【照明弾】を何発も打ち上げては花火のように弾ける。すると【照明弾】が輝いている間はフーマの髪の毛に黒さが戻った。フーマだけでなく、他の誰のも。こうして思えば、誰とも髪色が被ってないんだなあ、などと呑気なことを思う自分を、どこか遠くへ感じた。
「うっわきっつ……」
マイカが呻きながら【照明弾】を続ける。発動しても発動しても色を失う。その都度マイカは新たに打ち上げる必要があった。かなり魔を消費するようで、顔は苦悶に歪む。
「無理はしないでまいかちゃん」
「……いんや、サッキーだけにいいとこ見させてやらないしっ!」
サクラの一言で、逆に火のついたマイカは、より一層の【照明弾】を放つ。
少しずつではあるが、周囲全体の色も、元の精彩を取り戻し始める。
「……まだ、なにか、風があるな」
「だろうなあ」
シャニと軽口を言うだけの余裕などなかったが、無理矢理にでも作らないと精神が保ちそうになかった。
あまり縁起でもないことは口にしない方が華。それは分かっているつもりではあるのだが、案の定、またすぐ次の局面に移行する。
「なあシャニ」
「……どう、した」
「なんか今さあ、無性に悲しくなってねえか?」
「……ああ。もしかして」
「俺ってば、この調子のまんまでばっこし凹むから、昔から誤解されがちでねえ」
胸を締め付ける痛み。物理的に掴まれているわけでもないのに、どこかへぶつけたくなるような、強い衝動。
永らく忘れていた、前世では幾度も感じていた、行き場のない焦燥感。
「…………」
さて、自分たちなどどうでもいい。それよりもずっと大切なのは、ナージとマイカだった。ナージの【単響楽団】は心情を表すように不協和音が混じり、マイカの【照明弾】は不安を示す揺らめきに支配されている。
「たきものは香をもってみずから焼く」
サクラが何かの一節を読み上げる。
「……?」
フーマは全く理解できなかったが、シャニの方はピンと来たようだ。




