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第7章

振り返らなくても、もう誰かが一人、こちらを覚えている。


     *


 《ヘルメス》へ戻るまで、


 二人とも口を利かなかった。


 救命艇を格納し、


 外部ハッチを閉じ、


 気密を確認する。


 船内。


 見慣れた壁。


 見慣れた照明。


 見慣れた匂い。


 それだけで、


 カイは泣きそうになるほど安堵した。


「……戻ったな」


 ミロが言った。


「ああ」


 だが、


 二人とも操舵室へ行かなかった。


 居住区の前で立ち止まっていた。


 三つの扉。


 カイ。


 ミロ。


 そして、


 第三寝台室。


 白いプレート。


 何度見ても文字は消えない。


「開けるか」


「嫌だ」


「俺もだ」


 それでも、


 開けなければならない気がした。


 カイは扉の認証盤へ触れる。


 ロックは掛かっていなかった。


 ぷしゅ。


 扉が開く。


 ベッド。


 机。


 収納棚。


 壁際に一足の靴。


 シーツには、


 誰かが寝た皺が残っている。


「……誰の部屋だ」


 カイが呟いた。


 ミロは答えない。


 机の上にマグカップがあった。


 底に、


 乾いていないコーヒー。


 壁には写真。


 三人の男が写っていた。


 《オルフェウス》のドック。


 肩を組んで笑っている。


 左にカイ。


 右にミロ。


 そして中央に、


 知らない男。


 カイは写真を外した。


「こいつ……誰だ」


「知らん」


「俺たちと一緒にいるぞ」


「見れば分かる」


「誰なんだよ!」


「知らねえよ!」


 ミロが怒鳴った。


 二人とも、


 男の顔を知っている気がした。


 なのに、


 名前だけが存在しない。


 思い出そうとすると、


 頭の奥に穴が開く。


「……写真を持っていこう」


「ああ」


 その時。


 部屋の奥から、


 かすかな音がした。


 ごそ。


 二人は固まった。


 収納棚の扉が、


 ほんの少し開いている。


 ミロが工具を握る。


 カイが近づく。


 一歩。


 また一歩。


 棚へ手を伸ばす。


 開いた。


 中には、


 宇宙服が一着あった。


 《ヘルメス》の船員用。


 胸部の名前は潰れて読めない。


 その内側から、


 声がした。


『……カイ』


 カイは後退した。


 ミロが工具を振り上げる。


「誰だ!」


 宇宙服は動かない。


『……ミロ』


 二人とも聞いた。


 スピーカーは切れている。


 電源も入っていない。


『俺を』


 ノイズ。


『忘れ――』


 音が途切れた。


 ミロが宇宙服を掴んだ。


「おい!」


「やめろ!」


「誰だ!」


 強く引き出した瞬間、


 棚の金属部分が外れた。


 鋭い破片。


「っ!」


 ミロが叫んだ。


 手のひらが裂けた。


 血が落ちる。


「ミロ!」


「大丈夫だ」


 カイは救急キットを取りに走った。


     *


 二十分後。


 消毒。


 止血剤。


 組織接着剤。


 包帯。


 通常なら、


 翌日には塞がる程度の傷だった。


「しみるな」


 ミロが顔をしかめる。


「我慢しろ」


「分かってる」


 二人は黙った。


 痛い。


 血が出る。


 怪我をする。


 身体は、


 まだ普通だった。


     *


 十二時間後。


 カイはミロの手を見た。


「包帯替えるぞ」


「ああ」


 外す。


 二人とも黙った。


 傷は、


 そのままだった。


 塞がっていない。


 悪化もしていない。


 血も、


 十二時間前と同じ量だけ滲んでいる。


「……止血剤効いてないな」


「もう一回やる」


     *


 二十四時間後。


 同じ。


     *


 三十六時間後。


 同じ。


     *


 三日後。


 同じだった。


 腫れない。


 化膿しない。


 治らない。


 血も止まらない。


 だが、


 ミロは貧血にもならない。


「おかしい」


 カイは呟いた。


「分かってる」


「三日だぞ」


「分かってるって」


「細胞修復剤まで使った」


「だから何だよ!」


 ミロが怒鳴る。


 カイは黙った。


 傷口から、


 赤い血が一滴落ちた。


 ぽたり。


 床。


 三日前の血痕も、


 すぐ隣に残っている。


 まだ、


 乾いていなかった。


「……カイ」


「ああ」


「これ」


「ああ」


 時間は進んでいる。


 時計は進む。


 記録も増える。


 二人は眠る。


 目を覚ます。


 腹も減る。


 それなのに、


 何一つ、


 変化しない。


     *


 五日目。


 食料を食べた。


 味はする。


 満腹にもなる。


 六日目。


 また腹が減った。


 七日目。


 ミロが言った。


「やめてみるか」


「何を」


「食うの」


 カイは意味を悟った。


「馬鹿なこと言うな」


「確かめるんだよ」


 ミロは包帯を外した。


 傷は同じ。


 血も同じ。


「俺たちがどうなってるのか」


     *


 二人は食事をやめた。


 一日目。


 腹が減った。


 二日目。


 頭痛。


 三日目。


 身体が重い。


 四日目。


 喉が乾く。


 水もやめた。


「やめろ」


 カイが言った。


「もう十分だ」


「まだだ」


 ミロの唇は乾いている。


 それなのに、


 ひび割れない。


 五日目。


 喉の渇きは、


 四日目と同じだった。


 六日目。


 同じ。


 七日目。


 同じ。


 十日目。


 同じ。


 ミロの体重は減らなかった。


 筋力も落ちない。


 意識も朦朧としない。


 ただ、


 空腹と渇きだけが、


 消えない。


「食うぞ」


 カイが言った。


 ミロは答えなかった。


「もう分かった」


「何が」


「死なない」


 その言葉を口にした瞬間、


 船内の空気が変わった気がした。


 ミロがゆっくりカイを見る。


「言うな」


「……」


「まだ言うな」


 カイは黙った。


 遠くで、


 鐘が鳴った。


 ゴォーン。


 その音は、


 以前より近かった。


     *


 十三日目。


 ミロが笑い始めた。


「何だよ」


 カイが聞く。


「俺さ」


 ミロは裂けたままの手を見る。


「これ、一生このままなのかなって」


「やめろ」


「一生って言い方も変だな」


「やめろって」


「終わらないなら、一生じゃない」


「ミロ!」


 ミロは笑っている。


 目には涙が溜まっていた。


「じゃあ何て言えばいい?」


 カイは答えられなかった。


「永遠?」


「黙れ!」


 カイが机を叩いた。


 コップが落ちた。


 割れる。


 破片が跳ねた。


 一つが、


 カイの前腕に刺さった。


「あっ……!」


 血が出る。


 痛い。


 カイは破片を抜いた。


 ミロは笑うのをやめた。


 二人は、


 その傷を見た。


 カイは理解した。


 この傷も、


 もう治らない。


     *


 二十日目。


 二人の腕には、


 傷が二つあった。


 ミロの手。


 カイの腕。


 二十日前の状態のまま。


 毎日、


 同じ痛み。


 強くもならない。


 弱くもならない。


 痛み止めは効く。


 だが薬が切れると、


 必ず元の痛みが戻る。


 昨日と同じ強さで。


 一昨日と同じ場所に。


「なあ」


 ミロが言った。


「何だ」


「怪我する前に戻れないかな」


「無理だろ」


「じゃあさ」


 ミロは自分の手を見る。


「これから怪我が増えたら」


 カイは答えなかった。


 ミロも続きを言わなかった。


 傷が治らない。


 死なない。


 なら、


 事故を起こすたび、


 痛みだけが増えていく。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 百。


 千。


 それでも、


 終わらない。


 その想像だけで、


 カイは吐き気を覚えた。


     *


 二十三日目。


 操舵室の窓から、


 街を見ていた。


 太陽は、


 二十三日前と同じ場所にある。


 海は、


 三秒ごとに同じ波を返す。


 カモメは、


 同じ軌道を飛ぶ。


 白い街。


 鐘楼。


 広場。


 そして、


 ロッキングチェア。


 あれ以来、


 毎日同じ場所にある。


 誰も座っていない。


 だが、


 揺れている。


 きい。


 きい。


 距離があるのに、


 なぜか音が聞こえる。


「見ない方がいい」


 ミロが言った。


「分かってる」


 カイは目を逸らした。


 すると、


 操舵室の後ろから、


 同じ音がした。


 きい。


 きい。


 カイは動けなかった。


 ミロも、


 顔を上げたまま固まっている。


 きい。


 きい。


 後ろには、


 何もないはずだった。


 椅子などない。


 カイは振り返らない。


 ミロも振り返らない。


 音だけが続く。


 そして、


 老婆の声がした。


 すぐ背後。


 耳元ではない。


 もっと近い。


 頭の内側。


「……かわいそうに」


 カイの全身に鳥肌が立った。


 声は、


 優しかった。


 祖母が孫を慰めるような、


 温かな声だった。


 それだけに、


 恐ろしかった。


「痛いでしょう」


 ミロが震え始めた。


「黙れ」


 カイが言った。


 老婆が、


 小さく笑った。


「でも」


 きい。


 椅子が揺れる。


「そのうち慣れるわ」


 カイは奥歯を噛み締めた。


「誰だ」


 返事はない。


「何なんだ、お前は」


 沈黙。


 そして、


 老婆は囁いた。


「まだ、始まったばかりよ」


 鐘が鳴った。


 ゴォーン。


 二人は同時に振り返った。


 誰もいない。


 椅子もない。


 ただ、


 操舵室の床に、


 老婆の裸足の跡だけが残っていた。


 濡れていた。


 海水だった。


 足跡は、


 二人の間を通り抜け、


 第三寝台室の方へ続いていた。


 そして、


 そこから先は、


 天井へ向かって歩いていた。


 カイは息を止めた。


 ミロは工具を握り直したが、天井を見上げることができなかった。足跡は壁との境目で途切れず、重力など最初から存在しなかったかのように、白い天井の中央へ向かって一歩ずつ続いている。


「……あそこに、何がある」


 ミロの声は掠れていた。


「分からない」


「見に行くなよ」


 カイは答えなかった。天井の足跡の先に、第三寝台室の扉と同じ白いプレートが浮かんでいるように見えた。瞬きをすると消えたが、次の瞬間、船内の照明が一度だけ明滅した。


 ぷつ。


 暗闇の中で、天井から水滴が落ちた。


 ぽたり。


 カイの頬に触れた水は冷たく、塩辛かった。


 その直後、第三寝台室の認証盤が勝手に点灯した。


 誰も触れていないのに、ロック解除の音が響く。


 ぷしゅ。


 扉の向こうから、三人分の足音が聞こえた。


 一人は裸足で。


 一人は重い宇宙靴で。


 そしてもう一人は、天井を歩いていた。

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