第8章
一人は裸足で。
一人は重い宇宙靴で。
そしてもう一人は、
天井を歩いていた。
ぺたり。
ごつ。
ぺたり。
ごつ。
音が重なる。
三人分。
第三寝台室の奥から。
カイは動けなかった。
ミロも同じだった。
扉は開いている。
部屋の中は暗い。
だが、
そこには誰もいない。
ぺたり。
ごつ。
音だけが近づいてくる。
「閉めろ」
ミロが囁いた。
「……」
「カイ、閉めろ」
カイは認証盤へ手を伸ばした。
扉が閉まる。
ぷしゅ。
ロック。
足音が止まった。
二人は息を殺した。
十秒。
二十秒。
何もない。
「……消えたか」
ミロが言った。
その瞬間。
こん。
扉の向こうから叩く音。
二人は飛び退いた。
こん。
もう一度。
こん。
三回。
未来船で聞いたものと、
全く同じだった。
カイは扉を見つめる。
「開けるなよ」
「分かってる」
こん。
今度は一回。
間。
こん、こん。
二回。
間。
こん、こん、こん。
三回。
ミロが顔をしかめた。
「何だ?」
また。
一回。
二回。
三回。
「数字?」
カイが呟いた。
「何の」
一。
二。
三。
それを繰り返す。
そして、
突然変わった。
三回。
間。
一回。
間。
四回。
「……暗号か?」
「知らん」
カイは端末を取り出した。
音を記録する。
三。
一。
四。
一。
五。
九。
カイの指が止まった。
「おい」
「何だ」
「これ……」
三、一、四、一、五、九。
ミロが数秒考えた。
「円周率?」
「ああ」
扉の向こうで、
さらに音が続く。
二。
六。
五。
三。
五。
八。
規則正しい。
正確。
誰かが、
内側から数字を送っている。
「人間だ」
ミロが言った。
カイは答えられなかった。
人間なら。
なぜ姿が見えない。
なぜ、
天井を歩いている。
そして、
どうして二人はそいつの名前を思い出せない。
「開けるぞ」
「待て」
「人間かもしれない」
「だったら余計に待て」
「俺たちの仲間かもしれないんだぞ!」
ミロが黙った。
その言葉は、
二人にとって重すぎた。
カイはロックへ指を置く。
解除。
ぷしゅ。
扉が開いた。
*
誰もいなかった。
ベッド。
机。
棚。
宇宙服。
すべて先ほどと同じ。
ただ一つ。
机の上に、
端末が置かれていた。
「こんなのあったか?」
ミロが聞く。
「ない」
「断言できる?」
カイは答えなかった。
もう、
自分の記憶を信用できない。
端末は旧式だった。
《ヘルメス》標準支給品。
電源を入れる。
所有者情報。
文字化け。
顔写真。
表示されない。
名前。
空欄。
「ログ」
カイが呟く。
大量の記録が残っている。
ほとんどが破損している。
最後に正常保存されたもの。
日時。
《オルフェウス》出港から、
七日後。
「俺たちがここへ来る前だ」
ミロが言った。
「……見るぞ」
再生。
画面に男が映った。
写真の中央にいた、
あの男だった。
年齢は三十代。
短い黒髪。
痩せた顔。
制服には《ヘルメス》の徽章。
男はカメラを見ていない。
何度も背後を振り返っている。
『記録する』
声。
カイの胸が締めつけられた。
知っている。
この声を知っている。
だが、
名前が出てこない。
『カイとミロは寝ている』
二人は顔を見合わせた。
『俺だけが覚えている』
男は息を整えた。
『たぶん、鐘のせいだ』
映像が乱れる。
『最初は四人だった』
カイの身体が固まった。
ミロの口が開く。
「……四人?」
映像の男は続ける。
『俺たちは四人で《オルフェウス》を出た』
『カイ』
『ミロ』
ノイズ。
一人分の名前が、
完全に聞こえない。
音ではなく、
そこだけ存在しない。
『そして俺』
男はカメラを見る。
『今は三人だ』
カイは写真を見る。
三人。
自分。
ミロ。
この男。
では、
四人目は。
『誰が消えたのか分からない』
男の声が震える。
『でも、いた』
『絶対にいた』
『食堂の席が四つある』
『宇宙服も四着あった』
『水の消費量も四人分だった』
『なのに今は全部、三人分になっている』
男がカメラへ近づく。
『写真も変わった』
『名簿も変わった』
『船内AIまで、最初から三人だったと言っている』
一度、
映像の男が泣きそうな顔をした。
『俺だけが、四人だったことを覚えている』
沈黙。
『だから書く』
『映像に残す』
『俺まで忘れたら終わりだ』
そこでログが途切れた。
次。
翌日。
男はもっと疲れていた。
『カイが今日、俺を見て聞いた』
男の唇が震える。
『誰だ、と』
カイは息を止めた。
『冗談だと思った』
『でも違った』
『ミロも俺の名前を思い出せなかった』
男は笑った。
乾いた、
壊れかけた笑い。
『俺はまだここにいるのに』
『見えているのに』
『話しているのに』
『二人の中から、俺だけが消え始めている』
カイは端末を握る手に力を込めた。
『鐘が鳴るたび、少しずつ薄くなる』
『俺の部屋を二人は倉庫だと思い始めた』
『俺のコップを捨てようとした』
『昨日は、ミロが俺の肩を避けずに歩いてきた』
男は自分の肩を見る。
『ぶつかったのに』
『謝らなかった』
そして、
小さな声で言った。
『たぶん、もう見えてない』
ミロが顔を伏せた。
次のログ。
三日後。
男の姿が、
映像から半分消えていた。
輪郭が薄い。
背景が身体を透けている。
『まだいる』
声だけははっきりしている。
『俺はまだいる』
『カイ』
『ミロ』
『ここにいる』
声が震える。
『忘れないでくれ』
ノイズ。
『頼むから』
カイは目を閉じた。
だが映像は続く。
『今日、分かったことがある』
男が自分の腕を見せた。
傷。
深い傷だった。
『治らない』
カイとミロが、
同時に自分たちの傷を見る。
『俺は確かめた』
男の声が変わった。
妙に落ち着いている。
『やってはいけなかった』
映像が一瞬乱れる。
次の瞬間、
男は床に横たわっていた。
『死ねない』
カイの喉が鳴る。
『何をしても』
『意識が終わらない』
『苦しい』
『痛い』
『でも、その先に行けない』
男がカメラを見る。
目だけが、
異様に静かだった。
『ここでは、死ぬという出来事が完成しない』
ミロが小さく言った。
「……俺たちと同じだ」
映像の男は続ける。
『それだけじゃない』
『傷も』
『空腹も』
『眠りも』
『全部、途中で止まる』
『眠れる』
『でも疲れは完全には消えない』
『食べられる』
『でも空腹はまた戻る』
『血は出る』
『でも失い切らない』
『痛い』
『でも壊れ切らない』
そして、
男は、
笑った。
『ここは俺たちを生かしてるんじゃない』
長い沈黙。
『終わらせないんだ』
映像が暗転した。
*
次のログは、
日付がなかった。
男はもう、
ほとんど見えなかった。
声だけ。
『街で女を見た』
カイとミロが同時に顔を上げた。
『老婆だ』
きい。
どこかで、
椅子が軋んだ。
二人は動かなかった。
『目を閉じている』
『ずっと笑っている』
きい。
きい。
『俺に話しかけてきた』
男の声が掠れる。
『名前を呼ばれた』
カイは反射的に背後を見る。
誰もいない。
『誰も俺を覚えていないのに』
『あの女だけが』
『俺の名前を知っていた』
ミロが囁く。
「……覚えてる」
カイは返事をしなかった。
『嬉しかった』
男が言った。
『怖かったのに』
『嬉しかった』
『やっと誰かが俺を見てくれたから』
ノイズ。
『あの女は言った』
映像が歪む。
『かわいそうに』
カイの背中に、
冷たいものが走った。
『一人になるのは、寂しいでしょう』
きい。
きい。
椅子の音が、
さっきより近い。
『だから――』
映像の男が、
急に黙った。
『……違う』
声が変わった。
『違う』
『あいつは俺を助けようとしてない』
激しいノイズ。
『あいつは』
『俺たちが苦しむのを――』
映像が切れた。
「続きは」
ミロが端末を操作する。
「ない」
「探せ!」
「やってる!」
ファイル。
破損。
破損。
破損。
最後に、
一件だけ。
音声ファイル。
再生。
最初は、
何も聞こえない。
数秒。
男の呼吸。
『カイ』
カイは身体を固くした。
『ミロ』
ミロが顔を上げる。
『もしこれを聞けてるなら』
男は、
泣いていた。
『俺はもう、お前たちから消えてる』
ノイズ。
『でも』
『あの女には触るな』
二人は黙った。
『絶対に』
声に、
初めて明確な恐怖が混じった。
『何を言われても』
『何をされても』
『殴るな』
『掴むな』
『押すな』
『絶対に手を出すな』
カイの心臓が速くなる。
『俺は見た』
『別の奴がやった』
『あいつに手を出した』
音声の向こうで、
男が吐いた。
『その瞬間』
長い沈黙。
『目を開けた』
きい。
椅子の音が止まった。
カイとミロは、
顔を見合わせた。
音声の男が囁く。
『あれは目じゃない』
『あんなものを』
『目って呼ぶな』
声が崩れる。
『真っ黒だった』
『でも暗いんじゃない』
『中に』
ノイズ。
『ずっと』
ノイズ。
『ずっと憎んでる』
何を。
誰を。
音声には残っていない。
『それから床が――』
激しい雑音。
男の悲鳴。
何かが割れる。
『下に!』
『下に何かある!』
『街の下に――』
音が途切れた。
無音。
そして最後に、
男の声ではない声が入っていた。
老婆。
優しい声。
『見てしまったのね』
記録終了。
*
ミロは端末を置いた。
「……出よう」
「ああ」
二人は第三寝台室を出た。
カイは写真だけ持っていった。
三人。
いや、
四人だった。
はずだ。
扉を閉める。
ロック。
二人は操舵室へ向かった。
その途中で、
カイが立ち止まった。
「ミロ」
「何だ」
「今の男」
「……ああ」
「顔、覚えてるか」
ミロが振り返る。
数秒。
「覚えてる」
「どんな顔だった」
ミロの口が開いた。
閉じた。
「黒髪」
「ああ」
「三十……」
止まる。
「目は?」
「……」
「鼻」
「……」
カイは写真を取り出した。
二人で見る。
左。
カイ。
右。
ミロ。
中央。
誰もいなかった。
二人の間に、
不自然な空間だけがある。
肩を組んでいるはずなのに、
カイとミロの腕は、
何もない場所へ伸びていた。
「……さっきいたよな」
ミロの声が震えた。
「ああ」
「映ってた」
「ああ」
「誰だった」
カイは答えようとした。
何も出てこない。
声。
顔。
話していた内容。
全部覚えている。
ただ、
その男だけが、
記憶から抜け落ちていた。
ゴォーン。
鐘が鳴った。
「やめろ……」
ミロが耳を塞ぐ。
ゴォーン。
二度目。
「やめろ!」
ゴォーン。
三度目。
船内照明が落ちた。
暗闇。
カイは叫んだ。
「ミロ!」
「いる!」
「名前言え!」
「ミロ!」
「俺は!」
「カイ!」
「もう一回!」
「ミロ!」
「カイ!」
二人は互いの名前を叫び続けた。
忘れないために。
そこにいることを確認するために。
「ミロ!」
「カイ!」
「ミロ!」
「カイ!」
そのうち、
二人の声に、
もう一つの声が混じった。
『カイ!』
二人が黙る。
『ミロ!』
暗闇の中。
第三寝台室の方向。
『俺もいる』
カイの全身から汗が噴き出した。
『俺もいるんだ』
声が近づいてくる。
『忘れないでくれ』
ぺたり。
一歩。
『頼む』
ごつ。
二歩。
『俺は』
天井から、
声。
『まだ』
すぐ真上。
『ここにいる』
照明が戻った。
カイとミロは、
ゆっくり上を見た。
何もいない。
ただ、
天井に、
濡れた裸足の跡が並んでいた。
その足跡は二人の真上で止まり、
つま先だけが、
操舵室の窓を向いていた。
カイはその方向を見る。
広場。
白い街。
青い空。
ロッキングチェア。
今度は、
空ではなかった。
老婆が座っていた。
遠すぎて顔など見えるはずがない。
それでも、
分かった。
目を閉じている。
笑っている。
椅子を揺らしている。
きい。
きい。
きい。
そして老婆が、
ゆっくりと片手を上げた。
こちらへ、
手招きをした。
一度。
もう一度。
カイは目を逸らした。
「見るな」
「ああ」
「絶対に行かない」
「ああ」
その瞬間、
船内放送が起動した。
聞き慣れた機械音声。
『乗員に通知します』
二人は凍りついた。
『現在、乗員一名が船外にいます』
「……何?」
カイが端末を見る。
乗員管理。
表示。
船内乗員数:2
次。
船外乗員数:1
「誰だよ」
ミロが呟く。
船外カメラが、
勝手に切り替わった。
港。
石段。
広場へ続く道。
そこに、
男が一人歩いていた。
背中だけ。
《ヘルメス》の宇宙服を着ている。
ゆっくり。
老婆の方へ。
「止めろ!」
カイがカメラを切ろうとする。
切れない。
男が歩く。
一歩。
一歩。
胸部の名前は、
潰れて読めない。
「誰なんだよ……」
ミロが泣きそうな声で言った。
カイには、
分からない。
だが、
男の歩き方を知っていた。
右足を少し引きずる癖。
肩を回す仕草。
何度も見た。
何年も一緒にいた。
そう感じる。
男は広場へ入った。
老婆まで、
あと十メートル。
五メートル。
三メートル。
そこで、
船外映像が停止した。
静止画。
男。
老婆。
老婆は目を閉じている。
男は、
右腕を振り上げていた。
「……やめろ」
カイが呟く。
動かない映像に向かって。
「やめろ」
ミロも言った。
端末のスピーカーから、
男の荒い息が聞こえた。
映像だけが止まっている。
音声だけが続いている。
『お前のせいだ』
男の声。
『全部』
老婆は何も言わない。
『返せ』
沈黙。
『俺を返せ!』
そして、
拳が風を切る音。
その瞬間。
映像が真っ黒になった。
街全体から、
鐘が鳴った。
一つではない。
何百。
何千。
存在しない鐘まで、
一斉に。
ゴォォォォォ――――ン。
カイは耳を塞いだ。
ミロが床へ崩れ落ちる。
その音の中で、
老婆が、
初めて笑わなかった。
そして、
画面の暗闇の中に、
二つの目が開いた。
どこまでも、
黒かった。




