第6章
今度は、さっきより近かった。
ゴォーン。
鐘の余韻が、船内の白い壁を這っていく。
カイには、音ではなく、何かがこちらへ手を伸ばしてくるように聞こえた。
「出るぞ」
ミロが言った。
「ああ」
カイは端末を切った。
画面が暗くなる。
一瞬、黒い画面に二人の姿が映った。
老婆はいない。
だが、隅に三人目の影が立っていた気がした。
カイは目を逸らした。
もう一度鐘が鳴る前に、ここを出たかった。次に鳴った時、自分が何を見ても覚えていられる保証はなかった。
*
来た道を戻る。
白い廊下。
無人の居住区。
開いたままの扉。
何も変わっていない。それなのに、往路より長く感じた。
歩くたび、戻るべき場所の記憶が薄れていく。
「こんなに歩いたっけ」
ミロが言った。
「知らん」
「入口まで何分だった?」
「十分くらいだろ」
「もう十五分だぞ」
カイは端末を見る。
十八分。
「……急ごう」
二人は歩調を速めた。
同じ形の壁、同じ柔らかな光。曲がり角を抜けたところで、カイが立ち止まった。
「待て。ここ」
壁に、入る時ミロが工具をぶつけた薄い傷があった。
「さっき通った」
「……一周した?」
「曲がってない」
「しただろ」
「してない」
来た道は一本道で、分岐などない。それなのに、同じ傷が帰路に何度も現れる。
「逆だ」
ミロが言った。
「何が」
「方向間違えたんだよ」
二人は反対方向へ歩いた。
五分。十分。十二分。
また同じ傷が現れ、その下に見覚えのない文字が刻まれていた。
――カイ。
「……」
ミロが壁を殴った。
「ふざけんな!」
鈍い音が響く。だが壁は傷つかない。
「落ち着け」
「落ち着いてられるか!」
「出口を探す」
「出口は一つだっただろ!」
「だから探すんだよ!」
二人の声が廊下へ響く。
ずっと遠くで、同じ声が返ってきた。
『だから探すんだよ』
二人は黙った。
反響ではない。返るまで五秒ほどあり、しかもカイの声ではなかった。
誰かが、カイの言葉を覚えていた。
ミロが小声で言う。
「走ろう」
二人は走った。
白い廊下を何度も曲がったつもりになりながら進む。呼吸が荒れ、汗が流れても景色は変わらない。
背後から、二人分の足音が追ってくる。
振り返るたび、そこには誰もいなかった。
突然、光が途切れた。
目の前に海があった。
「……出口」
二人は転がるように船外へ出た。
背後で、見えない誰かが最後に一歩だけ踏み出した。
*
空は青かった。
海も青い。
白い街もある。
太陽の位置さえ変わっていない。
カイは膝に手をつき、息を整えた。
「何分いた?」
ミロが聞いた。
カイは端末を見て、二度見した。
「……三分」
「は?」
「船に入ってから、三分しか経ってない」
ミロも端末を見る。
「俺のも三分だ」
二人は振り返った。
未来の宇宙船。入口は消え、滑らかな銀色の船体だけが残っている。
カイは触らなかった。触れれば、入口だけでなく、ここへ来た理由まで消えそうだった。
「帰ろう」
その一言に、今まで以上の重みがあった。
だが、二人とも帰る場所の名前を口にしなかった。
*
小舟は置いた場所にあった。
二人が乗り込み、カイは港を確認した。街も、その少し沖の《ヘルメス》も見える。
「見えるな」
「ああ」
「行くぞ」
舵を港へ向ける。
舟は水面を滑り、風が頬を撫でた。何も問題はない。
カイは何度も《ヘルメス》を見る。そこにある。帰れる。船まで戻れば、食料も装備もある。どうすればいいかは、それから考えればいい。
五分が経った。
「……なあ」
ミロが言った。
「ああ」
「遠くなってないか?」
《ヘルメス》が小さくなっている。
「方向は合ってる」
船首は港を向き、速度も出ている。それなのに、距離だけが開いていた。
「反対向け」
「何?」
「一回逆に行く」
カイは舟を百八十度回した。
十秒。二十秒。
振り返ると、《ヘルメス》が少し近くなっていた。
「もう一回」
港へ向けると遠ざかり、逆へ向けると近づく。
「どういうことだ」
ミロが呟いた。
「分からない」
「俺たち、どっちに進んでる?」
「見れば分かるだろ!」
声が荒れた。しかし、その問いには答えられなかった。
舟は前進している。波も風景も流れている。それなのに、目的地との関係だけが逆転していた。
「だったら」
ミロが言った。
「反対向きのまま行けばいい」
カイは未来船から離れる方向へ舵を向けた。
一分。二分。
港が近づいてくる。
「いける」
三分で《ヘルメス》が大きくなり、五分で岸壁が見えた。
「何なんだよ、ここ」
「考えるなって言ったの、お前だろ」
「言ったな」
ミロが短く笑った。
その笑いが、どちらのものだったのか、カイにはすぐ分からなくなった。
港まで数百メートル。
その時、鐘が鳴った。
ゴォーン。
舟が止まった。
「……おい」
波も風もある。だが舟だけが進まない。
ゴォーン。
二度目。
ミロが街を見る。
「鳴るなよ……」
ゴォーン。
三度目。
舟がゆっくり回り始めた。
「何してる!」
「俺じゃない!」
舵は動いていない。カイが力いっぱい切っても抵抗はなく、舟は鐘楼へ向きを変えた。
やがて船首が鐘楼を向いて止まる。
鐘も止まった。
静寂。
街の奥から、誰かが歩く音がした。
遠い石畳を踏む音。
こつ。こつ。こつ。
姿は見えない。しかし、確実にこちらへ向かっている。
「行くぞ」
カイが言った。
「どこへ」
「どこでもいい!」
舟を沖へ向ける。
今度は動いた。
鐘楼も街も《ヘルメス》も遠ざかっていく。なのに、石畳を歩く音だけは近づいていた。
海の上なのに、水面の下から聞こえる。
カイは下を見なかった。
*
やがて二人は、別の宇宙船へ辿り着いた。
古い船だった。側面には擦れた文字が残っている。
「これ……」
ミロが船名を読む。
カイも知っていた。三百年以上前に消息を絶った探査船。乗員十二名、全員行方不明。
「本物なのか」
「船籍番号が一致してる」
入口は開いていた。
暗い内部には、見慣れた金属、配線、手動ハンドル、古い表示装置がある。
それだけで、カイは少し安心した。古いものは記録を残す。記録があれば、忘れずに済む。
「中、見るか」
「……少しだけ」
*
内部は荒れていた。
壁には錆、床には白い塩が積もっている。
足跡があった。
古い裸足の跡が、廊下の奥へ続いている。
二人は追った。
操舵室には椅子が十二脚あった。
「十二……」
机の上に、黄ばんだ紙が一枚置かれている。
カイは慎重に手に取った。
『鐘が鳴るたび、一人減る』
二人は黙った。
『姿が消えるのではない』
『忘れる』
『最初から、その人間がいなかったようになる』
ミロが紙を奪うように取った。
「……何だこれ」
続きには、震えた字でこう書かれていた。
『私は十二人で来た』
『今、名簿には十一人しかいない』
『だが椅子は十二脚ある』
『誰がいなくなったのか分からない』
『写真にも十一人しか写っていない』
『それでも私は十二人だったことだけを覚えている』
最後の一行。
『次の鐘が怖い』
その瞬間、街の方角から鐘が鳴った。
ゴォーン。
ミロが紙を落とした。
「出るぞ!」
二人は操舵室を飛び出した。
出口へ走る。
カイが先に小舟へ飛び乗った。
「ミロ!」
返事がない。
船内を見る。
「ミロ!」
その時、背後から声がした。
「何してんだ」
振り返ると、ミロが小舟に座っていた。
「……いつ乗った」
「は?」
「いつそこに乗った!」
「お前の後だろ」
「嘘だ。俺の後ろにいた」
「いたよ」
ミロが眉をひそめる。
「お前……今、船の中に」
「ああ」
言葉が続かなかった。
ミロの顔はいつも通りだった。
「カイ、大丈夫か」
「ああ」
嘘だった。
カイは初めて、隣にいるミロが本当にミロなのか分からなくなった。
*
二人は再び港を目指した。
カイは何度も隣を見る。
ミロはいる。呼吸し、腕を組み、海を睨み、いつもの癖で親指の爪を噛んでいる。
ミロだ。
そう言い聞かせるたび、確信は薄くなった。
「なあ」
ミロが突然言った。
「俺たち、二人だったよな」
カイは答えられなかった。
「変な感じがする」
「何が」
「《ヘルメス》って、乗員二人だったよな」
「ああ」
「本当に?」
カイの身体が冷えた。
「何言ってんだ」
「俺も分からん」
ミロは笑おうとして、できなかった。
「食堂の席、三つあった気がする」
「二つだ」
「寝台」
「二つ」
「宇宙服」
「二着」
カイは即答した。
ミロが頷く。
「だよな」
沈黙。
「じゃあ、第三寝台って何だ?」
カイの脳裏に、《ヘルメス》の船内配置が浮かんだ。
操舵室。機関区。貨物区画。居住区。カイの個室。ミロの個室。
そして、その隣の扉。
プレートには、確かにこう書かれていた。
第三寝台室
「……誰が使ってた」
「知らない」
「使ってない」
「じゃあ何である」
「知らない!」
カイの声が海上へ響く。
直後、街のどこかから同じ声が返ってきた。
『知らない!』
二人は黙った。
鐘が鳴った。
ゴォーン。
カイは目を閉じ、隣にいるミロの呼吸を聞いた。
一。二。三。
目を開ける。
ミロはいる。
「……いるな」
「何が」
「いや」
カイは前を見る。
港。《ヘルメス》。
やっと近づいてきた。
だが、側面の居住区に窓が三つあった。
「ミロ」
「見えてる」
三つ目の窓にはカーテンが閉じている。
今まであったのか、なかったのか、カイには分からない。
「考えるな」
ミロが言った。
「何を」
「人数を」
ミロの顔は真っ青だった。
「数えるな。この街で、人間を数えるな」
その言葉を聞いた瞬間、カイは自分が何人いるのかさえ数えられなくなった。
*
港へ着いた。
石段を上がる前に、カイは一度だけ街を見た。
無人の白い壁。青い屋根。洗濯物。噴水。果物。
すべて同じに見える。
だが、広場の小さな食堂にある屋外席で、一脚だけ椅子が揺れていた。
木製のロッキングチェア。
風はない。
ゆっくり、前へ。後ろへ。
「行こう」
ミロが言った。
「ああ」
二人は目を逸らして歩き出した。
背後で椅子が軋んだ。
きい。きい。
そして、とても小さな老婆の笑い声がした。
二人とも振り返らなかった。
振り返らなくても、もう誰かが一人、こちらを覚えている。




