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第5章

そして扉の内側で、


 誰かが、小さく息を吸った。


 ひゅ、と喉の奥を擦るような音だった。


 カイとミロは動かなかった。


 開いた扉の向こうは暗い。


 昼の光が、家の中だけを避けている。扉の敷居から先へ、光は一歩も入り込んでいなかった。


「……誰かいるのか」


 ミロが呼びかけた。


 声は暗がりに吸い込まれ、返事はない。


「俺たちは遭難者だ。危害を加えるつもりはない」


 静寂。


 遠くで海が砕ける音だけが、かすかに聞こえていた。


 カイは腰の工具用ホルスターから携帯灯を抜いた。


「入るのか?」


「今の聞いただろ」


「だからだよ」


 カイが携帯灯を点ける。


 白い光が、暗がりをゆっくりとなぞった。


 白い漆喰。


 木製の棚。


 古風な食卓。


 陶器の皿。


 壁に掛けられた、青い海の絵。


 光が進むたび、何もないことだけが浮かび上がる。


 怪物も、人影もない。


 二人は中へ入った。


 背後で、開いた扉がわずかに軋んだ。


「こんにちは」


 返事はない。


 床板が、二人の体重を確かめるように軋む。


 ぎ、と低く鳴った。


 小さな居間。厨房。二階へ続く階段。


 それだけだった。


「さっき確かに――」


「ああ」


 ミロの返事は短かった。


 息を吸う音。


 二人とも聞いた。


 カイが食卓を見る。


「ミロ」


「何だ」


「これ」


 食卓の上には、皿が二枚並んでいた。


 パン、魚、果物。


 湯気の立つスープ。


 向かい合わせの椅子が二脚。


 どちらも、誰かが立ち上がったばかりのように、少しだけ後ろへ引かれている。


 スープの表面が、かすかに揺れていた。


 波紋が一つ生まれ、消える。


 それでも湯気は消えない。


 白い筋が、音もなく立ちのぼり続けている。


「……偶然だろ」


 ミロの声に力はなかった。


「誰が作った」


「知らねえよ」


「人がいるなら出てこい!」


 返事の代わりに、二階で床が鳴った。


 ぎし。


 二人は天井を見上げた。


 音が止まる。


 息を潜める。


 ぎし。


 今度は、はっきり聞こえた。


 誰かが、ゆっくり歩いている。


 一歩。


 間。


 もう一歩。


「……いるじゃねえか」


 足音が階段の真上で止まった。


 二人は階段を見る。


 暗い。


 階段の上には、光の届かない黒い空間が口を開けている。


 何も降りてこない。


「出てこい!」


 ミロが叫ぶ。


 声が家の中で跳ね返り、消える。


 その直後、二階から声が返った。


『出てこい!』


 二人の身体が固まった。


 ミロ自身の声だった。


 一言一句、同じ。


 声の高さも、息の混じり方も、叫び終えたあとの震えまで同じだった。


「……何だ今の」


 カイが呟く。


 二階から、


『……何だ今の』


 今度はカイの声。


 自分の声が、暗い階上から降ってくる。


 カイは一歩、後退した。


「出るぞ」


「待て」


「出る!」


 その時、二階から笑い声がした。


 くすくす、と小さく。


 続いて、喉の奥を震わせるような、甲高い笑い。


 二人のものではない。


 子供の笑い声だった。


 カイは走った。


 ミロも続いた。


 床板が激しく鳴り、扉が視界に飛び込んでくる。


 二人は家を飛び出した。


 石畳。


 青空。


 静かな街。


 外の光が、目を刺した。


 何も変わっていない。


 振り返る。


 扉は開いたまま。


 暗い家の中に、誰もいない。


「……何なんだよ」


 ミロが息を切らす。


 白い息が出るほどではないのに、喉の奥が冷えていた。


 カイは答えなかった。


 家の中から、かすかな風が流れてくる。


 それから扉が、ゆっくり閉じた。


 蝶番が、きい、と鳴る。


 かちゃり。


 鍵の掛かる音。


 二階の窓に、一瞬だけ二人の姿が映った。


 カイとミロ。


 並んでこちらを見ている。


 実際の二人は、路上に立っていた。


 カイが瞬きをする。


 窓には青空しかなかった。


     *


 二人は港へ戻った。


 途中、一度も人間を見なかった。


 市場にも、路地にも、家にも。


 犬も猫も、虫すらいない。


 それでも生活の痕跡だけが残っていた。


 店では、挽きたてのコーヒーが湯気を立てている。


 苦い香りが、誰もいない店先から漂っていた。


 宿屋らしき建物では、ベッドが一つだけ乱れている。


 洗濯物が風にはためき、パンは焼きたてで、果物には水滴が残っている。


 噴水の水も流れている。


 水音だけが、広場に規則正しく響いていた。


 人間だけが、抜け落ちていた。


「さっきの家だけじゃない」


 カイが言った。


「何が」


「街全体だ」


 ミロは黙っている。


 風が二人の間を通り抜け、洗濯物の白い布を膨らませた。


「誰かが生活してる」


「誰もいないだろ」


「だからおかしいんだよ」


 市場の露店で、林檎が一つ、台から転がり落ちた。


 ころ。


 小さな音がした。


 ころころと石畳を進み、二人の前で止まる。


 赤い皮に、噴水の水滴が光っていた。


 誰も触れていない。


 ミロは拾わなかった。


「……行こう」


     *


 港へ戻ると、救命艇は同じ場所にあった。


 波に揺られながら、何事もなかったように浮かんでいる。


 カイはわずかに息をついた。


「まず船へ戻ろう」


「待て」


 ミロが海を見ていた。


「あれ」


 沖合に浮かぶ巨大な宇宙船。


 先ほど見つけた、異様に洗練された船だった。


「調べる気か?」


「何か分かるかもしれない」


「街でも同じこと言ってたぞ」


「じゃあ《ヘルメス》で何する?」


 カイは黙った。


「動かない。通信も届かない。ここが何なのかも分からない」


「だからって」


「あの船なら」


 ミロが指差す。


「少なくとも俺たちより進んだ技術を持ってる」


 継ぎ目がない。


 アンテナも、推進器も見当たらない。


 数百メートル級の船体が、一枚の銀色の塊のように海上へ横たわっている。


 波が船腹に触れるたび、銀色の表面に淡い光が走った。


「もし動かせれば」


「帰れるかもしれない、か」


「ああ」


 カイは街を振り返った。


 白い建物。


 青い屋根。


 誰もいない窓。


 窓の奥には、昼の光さえ届いていない。


「……行こう」


     *


 港に係留されていた小舟を使った。


 帆もエンジンもないのに、舵を沖へ向けると舟は静かに進み始めた。


 水を掻く音すら、ほとんどしない。


「どういう仕組みだ」


「もう考えるな」


 ミロが言った。


「疲れるだけだ」


 海は穏やかだった。


 波は低く、空はどこまでも青い。


 途中、何隻もの宇宙船のそばを通った。


「見ろ」


 ミロが指差す。


 錆びついた小型船。


「初期型の核融合船……」


「こんなのまだ残ってたのか」


「博物館ならな」


 船籍番号を調べる。


 データベースは《ヘルメス》からコピーしたものが使えた。


 検索。


 数秒。


「二百六十一年前」


 カイが言った。


 ミロは黙った。


 次の船は百七十九年前。


 その次は三百十二年前。


 さらに次は年代不明。


 船体の表面には、時間に削られたような傷が無数に走っていた。


 そして、例の銀色の船へ到着した。


「近くで見ると余計おかしいな」


 ミロが船体へ触れた。


 金属ではない。


 硬いのに、指を置いた場所だけが僅かに波打つ。


 水面に指を落としたように、銀色の表面がゆっくり揺れた。


「入口は?」


 二人で船体を探す。


 扉もハッチもない。


 ミロが手を置いた。


 船体に縦の線が入り、音もなく開いた。


 切れ目の向こうから、温度のない白い光が漏れる。


「……歓迎されてるみたいで嫌だな」


「同感だ」


 二人は船内へ入った。


     *


 内部はさらに理解不能だった。


 廊下らしきものはある。


 しかし壁と床の境界が曖昧だ。


 足元が壁へ溶け込み、壁が天井へ続いているように見える。


 照明装置はないのに、内部全体が柔らかく発光している。


 光源がない。


 それなのに、影だけは二人の足元に薄く落ちていた。


「これ、人間の船か?」


「分からん」


 ミロが壁へ手を触れる。


 触れた場所から淡い波紋が広がり、文字が浮かんだ。


 二人は息を止めた。


 読める。


 人類共通語だった。


「人間だ」


 カイが言った。


 文字を追い、船名、登録番号、所属を確認する。


 建造年で、カイの指が止まった。


「どうした?」


「ミロ」


「何だ」


「これ」


 表示された数字を、カイは何度も読み直した。


「壊れてるのか?」


「何が」


「この表示」


 ミロも見る。


 無言。


 船内の柔らかな光が、二人の顔を青白く照らしていた。


「今って……」


「ああ」


 二人とも知っている。


 この宇宙船は、


 現在から三百七年後に建造されていた。


 長い沈黙。


 遠くで、船体の内部がかすかに軋んだ。


 ミロが乾いた笑いを漏らした。


「そんなわけあるか」


「俺もそう思う」


「時計が狂ってる」


「船籍データも?」


「データが壊れてるんだ」


「三百年前の船もあった」


「だから何だよ」


 ミロの声が強くなる。


「ここじゃ時間がおかしいんだろ!」


 言い終えた途端、その顔から表情が消えた。


 カイは船内を見回した。


 誰もいない。


 白い廊下が、どこまでも続いている。


「乗組員を探そう」


     *


 居住区。無人。


 医療区画。無人。


 操船区画。無人。


 遺体も、血痕も、争った跡もない。


 食料庫には食料が残っている。


 服も、写真も、娯楽用品もある。


 棚の上の写真立てには、笑顔の人々が写っていた。


 人間だけがいない。


 《ヘルメス》と同じだった。


 街と同じだった。


「またか」


 ミロが呟いた。


 操船区画らしき場所に、一つだけ光る端末があった。


 暗い室内で、その光だけが脈打つように明滅している。


 航海記録。


「ログがある」


 カイが操作する。


 到着までの航路。


 異常。


 乗組員名簿。


 船内日誌。


 そして、最後の数日間。


 カイは一番古い映像を開いた。


 四十代ほどの男が映った。


 制服。


 疲れ切った顔。


 画面の向こうで、男の呼吸だけが妙に大きく聞こえた。


『航海日誌、七千四百一日目』


 声が流れる。


『我々は依然として脱出手段を発見できていない』


 カイとミロは顔を見合わせた。


『機関は正常。航法装置も正常。しかし船は移動しない。外部との通信も不可能』


 男が一度だけ背後を見る。


 何かを警戒している。


 画面の外で、かすかな音がした。


 男は聞かなかったことにした。


『街の調査は中止した』


 映像が乱れた。


『……理由については、別記録を参照』


 男は疲れている。


 それでも、次の言葉だけははっきりしていた。


『海上に十九隻の宇宙船を確認した』


 カイの手が止まる。


『最古のものは、我々の暦で約五百年前』


 ミロが小さく息を吸った。


『そして――』


 男が沈黙する。


 沈黙のあいだ、映像の中の男の目だけが動いた。


『三隻については、我々より後に建造されたものと推定される』


「……こいつらも」


 ミロが呟いた。


 未来から来た彼らが、さらに未来の船を見ていた。


『ここでは時間の順序に意味がない可能性がある』


 ノイズ。


『船内から遺体は一体も発見されていない』


 カイは画面から目を離せなくなった。


『乗組員が脱出した痕跡もない』


 さらにノイズ。


『彼らは、どこへ行った?』


 記録が切れた。


 次のログ。


 日付は三日後。


 同じ男。


 しかし、目の下には深い隈が刻まれていた。


 頬は痩せ、唇は乾いている。


『鐘が鳴った』


 カイの背中が冷える。


『街の中央からだ』


 男は何かを恐れている。


『乗組員のうち六名が船を出た』


『止められなかった』


『彼らは自分の意思で歩いていった』


 映像の外から音がした。


 ゴォーン。


 低く、重い音だった。


 音の振動が、端末のスピーカーを通して船内に残る。


 カイとミロが振り返る。


 何もない。


 映像の中でも、男が振り返っている。


『……また鳴っている』


 カイは映像を止めた。


「今の」


「聞いた」


 船の外。


 海の向こうから。


 もう一度。


 ゴォーン。


 今度は、音の底にかすかな震えがあった。


 街の鐘。


 ミロが立ち上がった。


「戻ろう」


 カイも異論はなかった。


 その時、端末が勝手に次の記録を再生した。


『もし、この記録を見つけた者がいるなら』


 二人の動きが止まった。


 さっきの男。


 今度は暗く、顔だけが浮かんでいる。


 画面の黒い縁から、顔がこちらを覗き込んでいるようだった。


『街へ行くな』


 ノイズ。


『何があっても』


 カイは老婆の言葉を思い出した。


 白い髪。


 閉じた目。


 あの家の暗がり。


『そして――』


 男の顔が画面へ近づく。


 怯えている。


 額に汗が浮かび、唇が震えている。


『あの黄金色の存在について』


 カイの心臓が強く打った。


『我々は間違っていた』


 ミロが画面を見る。


 男は泣いていた。


 声を押し殺そうとしているのに、呼吸が崩れている。


『あれは、この場所を守っていたんじゃない』


 沈黙。


 長い。


 音声だけが生きている。


 男が囁く。


『我々を――』


 ノイズ。


 映像が乱れる。


『ここへ来させまいとしていた』


 記録が途切れた。


 同時に、船内の照明が消えた。


 真っ暗になった。


 光が消えた瞬間、船の内部が巨大な空洞になったように感じられた。


 カイは息を止める。


「ミロ」


「いる」


「動くな」


「ああ」


 暗闇。


 船の外から波の音。


 遠く、近く、距離の分からない場所で水が船体を撫でている。


 そして、何かが船体を三回叩いた。


 こん。


 こん。


 こん。


 一度目の音が消えるまで、二度目は鳴らなかった。


 三度目のあと、静寂が落ちた。


 数秒後、照明が戻った。


 カイはミロを見る。


 ミロもこちらを見ている。


 二人とも何も言わなかった。


 端末に、新しい航海記録が一件追加された。


 画面の文字が、ひとつずつ浮かび上がる。


 カイは凍りついた。


 記録日時。


 現在。


「……俺たちが触ったからか?」


「知らん」


 タイトルはない。


 再生時間、十三秒。


「見るな」


 ミロが言った。


 カイもそう思った。


 だが、映像は自動的に再生された。


 画面に、二人が映っていた。


 今いる操船区画。


 今のカイ。


 今のミロ。


 背後から撮影されている。


 カイはゆっくり後ろを見る。


 首筋に、冷たい空気が触れた。


 誰もいない。


 映像の中では、二人が端末を見ている。


 その背後に、人影が立っていた。


 小柄。


 痩せた身体。


 白い服。


 長い白髪。


 老婆。


 カイは振り返る。


 誰もいない。


 もう一度画面を見る。


 老婆はいる。


 ロッキングチェアに座り、ゆっくり揺れている。


 きい。


 きい。


 椅子が軋む音まで、映像の中から聞こえてくる。


 目を閉じたまま、微笑んでいる。


 その笑みは穏やかだった。


 だからこそ、そこにいるはずのないものが、そこにいることだけがはっきり分かった。


 十三秒。


 映像が終わった。


 直後、街の鐘が鳴った。


 ゴォーン。


 低い音が船内を満たし、床の下から身体の奥へ響いてくる。


 今度は、さっきより近かった。

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