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第4章

涙は海へ落ちる前に、こちらへ向かって真っ直ぐ伸びていた。


「伏せろ!」


 何に対して伏せるのか。


 カイ自身にも分からなかった。


 警告より先に、船体の外壁が悲鳴を上げた。


 次の瞬間、《ヘルメス》が横殴りに弾かれた。


 轟音。


 いや、音ではなかった。


 船そのものが、巨大な何かの歯の間で軋んだような振動だった。


 船体が軋む。


 操舵席から身体が浮き、安全ベルトが胸へ食い込んだ。


「ぐっ……!」


 照明が一斉に赤へ変わる。


 警報。


 今度は本物だった。


『外部衝撃を検知』


『船体構造負荷、許容値を超過』


『姿勢制御不能』


「何が当たった!」


 カイが叫ぶ。


「分からん!」


 ミロが端末にしがみついていた。


「質量反応がない!」


「今のがか!?」


「何もぶつかってねえ!」


 観測窓の外を、金色の光が横切った。


 あの涙だった。


 液体ではない。


 光でもない。


 細い金色の筋が何本も宇宙空間を伸び、《ヘルメス》の周囲を取り巻いている。


 その一本が船首へ触れた。


 触れたはずなのに、窓の向こうの空間が一瞬だけ裏返った。


 星のない黒が、濡れた瞳の内側のような赤へ変わる。


 また船が揺れた。


 今度は後ろへ。


 カイは息を呑んだ。


「……押されてる?」


「何?」


 黄金の筋が船体に触れるたび、《ヘルメス》は街から遠ざかる方向へ弾かれている。


 だが次の瞬間には、


 海がさらに大きくなる。


 押し戻されている。


 なのに、


 近づいている。


 距離だけが、船の運動を嘲笑うように縮んでいく。


「〇・〇六!」


 ミロが叫んだ。


「距離〇・〇六光年!」


「さっき〇・〇八だったぞ!」


「知るか!」


 黄金の赤ん坊が泣いている。


 声はもう耳から聞こえているものではなかった。


 骨の内側。


 歯。


 眼球。


 臓器。


 身体を構成するすべての細胞が、同じ泣き声を聞いていた。


 カイは両耳を押さえた。


 意味などない。


 指の隙間からではなく、血管の中から泣き声が湧いてくる。


 赤ん坊が大きく口を開けた。


 口の奥には舌も喉もなかった。


 ただ、夜より深い穴が開いていた。


 顔を歪ませ、


 必死に、


 泣いている。


 巨大な両腕が伸びた。


「来るぞ!」


 金色の手。


 指一本だけでも《ヘルメス》より遥かに大きい。


 指先が近づくたび、周囲の空間が水面のように波打った。


 逃げ場はなかった。


 カイは反射的に目を閉じた。


 衝撃。


 ――来ない。


 目を開ける。


「……え?」


 巨大な掌が、


 観測窓の向こうにあった。


 掌の皺の一本一本が、遠い海岸線のようにうねっている。


 船を握り潰せる。


 それほどの大きさ。


 しかし触れていない。


 掌は《ヘルメス》の前方に広げられていた。


 まるで、


 道を塞ぐように。


 赤ん坊が首を振った。


 ゆっくり。


 右。


 左。


 右。


 左。


 そのたびに、掌の向こうの街が一瞬だけ消え、別の街並みが現れた。


「何してる……?」


 ミロが呟いた。


 泣き声がさらに強くなった。


 操舵室のガラスに細かな亀裂が走る。


 亀裂の一本から、黒い水が滲み出した。


 端末が一つ破裂した。


「うわっ!」


 火花。


 煙。


 だが巨大な掌は動かない。


 その向こうに、


 白い街が見える。


 青い海がある。


 陽光が降り注いでいる。


 近い。


 さっきまで宇宙の彼方だった景色が、


 もう肉眼で家々の窓を数えられるほど近い。


 窓の一つに、誰かの顔が浮かんだ。


 白い顔。


 目も鼻もない。


 次の瞬間には、窓は空っぽだった。


 黄金の赤ん坊だけが、


 その間にいる。


 カイの頭に、老人の声が蘇った。


 ――泣き声を聞いたら、もう遅い。


「後退しろ!」


「してる!」


「もっとだ!」


「最大逆推力だ!」


 エンジンは唸っている。


 《ヘルメス》は確実に後退している。


 速度表示もそう告げている。


 毎秒数千キロ。


 街から離れる方向へ。


 なのに、


 鐘楼の輪郭がはっきりしていく。


 海岸に並ぶ樹木。


 白い石段。


 港。


 赤い花。


 窓辺に干された白い布。


 布の一枚が、風もないのにこちらへ向かって膨らんだ。


「〇・〇三」


 ミロの声が震えた。


「カイ……〇・〇三だ」


 黄金の赤ん坊が、両手で《ヘルメス》を包もうとした。


 指の間から、無数の小さな瞳が覗いた。


 カイは操縦桿を握った。


「避ける!」


「どこへ!」


「分からん!」


 右へ。


 船体を捻る。


 巨大な指の隙間を抜ける。


 指先が船体を掠めた。


 触れていないのに、船内の時計が一斉に逆回転を始めた。


 赤ん坊がさらに激しく泣いた。


 その瞬間。


 カイの頭の中に、


 知らない光景が流れ込んだ。


     *


 海。


 白い家。


 誰もいない食卓。


 椅子が一脚だけ、濡れた床を引きずられている。


     *


 鐘楼。


 石畳。


 揺れている椅子。


 椅子の上には、まだ温かい人間の影が座っている。


     *


 宇宙船。


 海に浮かんでいる。


 一隻。


 二隻。


 十隻。


 百隻。


 すべての窓の内側から、誰かがこちらを見ている。


     *


 誰かが叫んでいた。


 帰りたい。


     *


 その声に、別の声が重なる。


 帰ってきた。


     *


「――イ!」


 身体を揺さぶられた。


「カイ!」


 ミロだった。


「しっかりしろ!」


「今……」


「何だ!」


 カイは額を押さえた。


 指の間から、金色の液体が一滴落ちた。


「見えた」


「何が!」


「分からない」


 航法画面。


 0.01光年。


 あり得ない。


 数字として表示できる最後の距離。


 その下で、別の警告が点滅した。


 座標系との同期を喪失。


「何だこれ」


 ミロが操作する。


 基準恒星を検出できません。


「星間測位が死んだ!」


「再起動!」


「してる!」


 窓を見る。


 星が消えていた。


 いつの間にか。


 背後にも。


 左右にも。


 上にも下にも。


 星がない。


 ただ黒い空間と、


 青い海。


 白い街。


 黄金の赤ん坊。


 それだけ。


 宇宙が、


 なくなっている。


 いや。


 なくなったのではない。


 最初から、ここには宇宙などなかったのだと、窓の外の黒が告げていた。


「カイ……」


 ミロが掠れた声を出した。


「後ろ」


 カイは振り向いた。


 後方カメラ。


 真っ黒だった。


 星が一つもない。


 その黒の中央に、巨大な白い歯だけが浮かんでいた。


 瞬きをすると消えた。


「戻る方向が……」


 ミロが言った。


 その言葉を最後まで言わせまいとするように、


 赤ん坊が叫んだ。


 今までで最も大きな泣き声。


 操舵室のガラスが白く曇る。


 曇った表面に、内側から小さな手形がいくつも押しつけられた。


 壁から海水が噴き出した。


 床を水が走る。


 カイの足首まで、一瞬で海水が満ちた。


「何だよこれ!」


 ミロが叫ぶ。


 海水はさらに増える。


 膝。


 腰。


 水面の下で、何かがカイの脚に触れた。


「排水!」


「排水装置は動いてる!」


 なのに止まらない。


 船が沈んでいる。


 宇宙船の中で。


 海の中へ。


 カイは窓を見る。


 黄金の赤ん坊が、


 両手を伸ばしていた。


 また首を振っている。


 右。


 左。


 右。


 左。


 閉じた瞼から金色の涙が溢れていた。


 涙が海面に落ちるたび、海の中から別の《ヘルメス》が浮かび上がり、すぐに沈んだ。


「……待て」


 カイは呟いた。


 何かがおかしい。


 怪物なら。


 自分たちを排除したいなら。


 なぜ、


 さっきから一度も船を潰さない。


 なぜ道を塞ぐ。


 なぜ押し戻す。


「ミロ」


「今それどころじゃ――」


「あいつ……」


 言葉が出ない。


 海水が胸まで来た。


 警報が鳴り続ける。


 距離表示。


 0.00光年。


 その瞬間。


 黄金の赤ん坊が、


 ぴたりと泣き止んだ。


 静寂。


 あまりにも突然だった。


 警報も。


 エンジン音も。


 海水の音も。


 すべて消えた。


 カイは息を止めた。


 水も消えていた。


 床は乾いている。


 照明は正常。


 操舵室に損傷はない。


 亀裂も、


 煙も、


 何もない。


 ただ、カイの濡れた靴跡だけが、床から天井へ向かって続いていた。


「……ミロ?」


「ああ」


 二人とも動けなかった。


 黄金の赤ん坊は、


 まだそこにいた。


 遠く。


 とても遠く。


 さっきまで目の前にいたはずなのに。


 黒い空の向こうで、


 小さな金色の姿になっている。


 もう泣いていない。


 こちらへ手も伸ばさない。


 ただ、


 閉じた瞼のまま、


 こちらを向いていた。


 その口元だけが、泣き止んだ形ではなく、笑いの形に歪んでいた。


「距離は」


 カイが聞いた。


 ミロが画面を見る。


「表示……ない」


「航法は」


「座標が出ない」


「現在位置」


「出ない」


「星は」


 返事はなかった。


 必要なかった。


 観測窓の外に、


 宇宙はなかった。


 青空だった。


 雲が浮かんでいる。


 太陽。


 海。


 穏やかな波。


 そして、


 白亜の街。


 《ヘルメス》は海面の上に浮かんでいた。


 反重力装置など作動していない。


 それでも落ちない。


 船体の下で、


 波が静かに揺れている。


 カイは立ち上がった。


 足が震えていた。


「……着いたのか」


 ミロが言った。


 その声音には、


 恐怖よりも安堵があった。


 カイは答えなかった。


 窓の向こうを見る。


 老人の話した通りだった。


 白い石造りの家々。


 青い屋根。


 坂道。


 鐘楼。


 小さな港。


 丘の上にはオリーブに似た木々。


 真っ青な海。


 どこまでも澄んだ空。


 完璧だった。


 美しかった。


 そして、


 人間が一人もいなかった。


 街のすべての窓が、こちらを向いていた。


     *


 《ヘルメス》は港から数百メートル離れた海面に停止していた。


 機関は正常だった。


 少なくとも診断上は。


「出力上げる」


 ミロが言った。


 推進炉。


 正常。


 エンジン点火。


 正常。


 推力発生。


 正常。


 速度。


 ゼロ。


「もう一回」


 ミロが出力を上げる。


 船体が震える。


 海面が激しく波立つ。


 速度、


 ゼロ。


「……何で動かねえ」


 逆推力。


 横方向。


 姿勢制御。


 何をしても、


 《ヘルメス》は同じ場所にいた。


 錨を下ろしたわけでもない。


 拘束されてもいない。


 ただ、


 移動という結果だけが起きなかった。


 窓の外では、港の景色だけが少しずつ近づいていた。


「救難信号」


 カイが言った。


 送信。


 正常。


 送信出力。


 正常。


 アンテナ。


 正常。


 通信結果。


 送信完了。


「行ったか?」


「待て」


 応答なし。


 一分。


 二分。


 五分。


 カイは通信ログを開いた。


 送信した救難信号の到達距離を確認する。


「……何だこれ」


「どうした」


「信号が」


 カイは画面を指差した。


 送信はされている。


 だが、


 アンテナから〇・〇〇メートル。


 そこで止まっていた。


「送信完了なのに……」


 ミロが呟く。


「出ていってない」


 二人は黙った。


 窓の外で、


 小さな波が船体へ当たる。


 ちゃぷん。


 ちゃぷん。


 遠くで鳥が鳴いた。


 カイは無意識に空を見た。


 鳥が飛んでいる。


 白い鳥。


 地球のカモメによく似ていた。


 それが、


 《ヘルメス》の上空を一周した。


 カイはなぜか目で追った。


 鳥は港へ向かった。


 白い街の上を飛ぶ。


 鐘楼を横切る。


 やがて建物の陰へ消えた。


 数秒後。


 同じ鳥が、


 反対側の空から現れた。


 カイは眉を寄せた。


 また《ヘルメス》の上空を一周。


 港へ。


 鐘楼。


 建物の陰。


 消える。


 そして、


 また反対側から現れる。


 全く同じ羽ばたき。


 同じ軌道。


 同じ鳴き声。


「ミロ」


「見てる」


 三度目。


 同じ。


 四度目。


 同じ。


「映像じゃねえよな」


「窓だ」


「分かってる」


 五度目。


 カモメは同じ場所で鳴いた。


 同じ角度で翼を傾けた。


 同じ屋根の向こうへ消えた。


 そしてまた、


 同じ場所から現れた。


 六度目だけ、鳥は鳴かなかった。


 代わりに、街のどこかでカイの声がした。


 ――誰かいるなら返事をしてくれ。


 カイは目を逸らした。


「降りるぞ」


「は?」


 ミロが振り向いた。


「船が動かない。通信も届かない」


「だからって」


「街に何かあるかもしれない」


 ミロは窓の外を見る。


 先ほどまであれほど行きたがっていた男が、


 今度は黙った。


「嫌なのか」


「……いや」


「何だ」


「さっきまでは行ってみたかった」


「今は?」


 ミロは少し考えた。


「分からない」


 カイも同じだった。


 あれほど美しい街。


 暖かな風。


 青い海。


 危険なものは何も見えない。


 黄金の赤ん坊も、もう襲ってこない。


 それなのに。


 ここへ着いてからの方が、


 怖かった。


 カイは窓の向こう、


 遥か遠くの黒い空を見る。


 黄金の赤ん坊はまだそこにいる。


 小さな金色の点。


 ただこちらを向いている。


「なあ」


 ミロが言った。


「何だ」


「あいつ、どうしてもう来ないんだろうな」


 カイは答えられなかった。


 胸の奥で、


 嫌な考えが浮かんでいた。


 追ってこないのではない。


 止めるのを、


 やめた。


 そう見えた。


     *


 二人は救命艇を降ろした。


 海は穏やかだった。


 波はある。


 だが不自然なほど一定だった。


 三秒ごとに、


 同じ高さの波が来る。


 ちゃぷん。


 三秒。


 ちゃぷん。


 三秒。


 ちゃぷん。


 救命艇が港へ近づく。


 白い石造りの岸壁。


 係留柱。


 古い木製の舟。


 網。


 籠。


 すべてがある。


 人だけがいない。


「生活してた跡はあるな」


 ミロが岸壁を見上げた。


 洗濯物。


 開いた窓。


 テーブル。


 椅子。


 果物が並んだ露店。


 焼き上がったばかりに見えるパン。


 パンの表面には、まだ誰かの指の跡が残っていた。


 カイは救命艇を岸につけた。


 二人は石段へ上がった。


 重力は地球とほとんど変わらない。


 空気も呼吸できる。


 温度も快適。


 ミロがヘルメットを外した。


「おい」


「待て」


「大気分析は正常だ」


 大きく息を吸う。


「……いい匂いだ」


 カイも仕方なくヘルメットを外した。


 潮。


 花。


 焼いたパン。


 どこかで煮込んでいる料理の匂い。


 人がいる街の匂いだった。


 なのに、


 声がない。


 匂いだけが、誰もいない路地から絶えず流れてくる。


「誰かいませんか!」


 ミロが叫んだ。


 声が街に響く。


 白い壁に反射する。


 返事はない。


「救難です!」


 返事はない。


 カイも叫んだ。


「誰かいるなら返事をしてくれ!」


 静寂。


 そして、


 どこか遠くから、


 鐘が鳴った。


 ゴォーン。


 二人は同時に振り返った。


 鐘楼。


 誰もいない。


 鐘だけが、


 ゆっくり揺れていた。


 ゴォーン。


 ミロが呟いた。


「……誰が鳴らしてるんだ」


 カイは答えなかった。


 鐘の音が止んだあとも、石畳の下から同じ振動が続いていた。


 その時だった。


 港の向こう。


 海面の彼方に、


 黒いものが見えた。


「ミロ」


「ああ」


 一隻の船。


 宇宙船だった。


 半分ほど海へ沈み、


 斜めに傾いている。


 かなり遠い。


 だが《ヘルメス》ではない。


 巨大だった。


 滑らかな船体。


 見たことのない構造。


 推進器らしきものすら見当たらない。


「あんな船……」


 ミロが目を細める。


「知ってるか?」


「いや」


 そのさらに奥。


 もう一隻。


 さらに向こうにも。


 そして、


 カイは気づいた。


 海面に点々と浮かんでいる黒い影。


 一つではない。


 十隻でもない。


 水平線の彼方まで。


 古いもの。


 新しいもの。


 小さなもの。


 都市ほど巨大なもの。


 無数の宇宙船が、


 墓標のように海へ浮かんでいた。


 その中には、


 カイが博物館でしか見たことのない、


 数百年前の船もあった。


 そしてその隣には、


 見ただけでは何をする機械なのかすら理解できないほど、


 異様に洗練された船が浮かんでいる。


 すべての船が、こちらへ船首を向けていた。


「……何だよ」


 ミロの声が震えた。


「何なんだよ、ここ」


 カイは答えなかった。


 ただ一つだけ、


 はっきり分かった。


 老人は正しかった。


 ここへ来た船は、


 帰らなかった。


 そして、


 海に浮かぶどの船にも、


 人影はなかった。


 その時。


 二人の背後で、


 誰もいないはずの家の扉が、


 ゆっくりと開いた。


 暗い室内から、焼きたてのパンの匂いが濃く流れ出した。


 そして扉の内側で、


 誰かが小さく息を吸った。

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