第3章
足音が、操舵室の扉の前で止まった。
カイは動けなかった。
扉までは五メートルもない。
厚い隔壁の向こうに、誰かが立っている。
そう思った瞬間、扉の向こうから、濡れた呼吸のような音がした。
ひゅう。
ひゅう。
船内の空気は動いていないはずだった。
ぽたり。
何かが落ちる音がした。
ぽたり。
もう一度。
水滴。
だが、音は扉の向こうではなく、すぐ足元から聞こえた。
カイは操舵席の脇にある船内通信端末へ手を伸ばした。
「ミロ」
返事はない。
「ミロ、起きてるか」
数秒後、ノイズ混じりの声が返ってきた。
『……何だよ』
眠そうだった。
その声の背後で、かすかに水の跳ねる音がした。
「今どこだ」
『機関区の仮眠室』
「そこにいろ」
『は?』
「誰か操舵室に来てるか?」
沈黙。
長すぎる沈黙だった。
『誰が?』
「分からない」
『おい、カイ。俺たち二人しか乗ってないぞ』
「分かってる」
その言葉を口にした途端、喉が乾いた。
《ヘルメス》の乗員は二人。
貨物船としては珍しくない。
航行管理の大半は自動化されている。
積荷にも人間はいない。
だから、
扉の向こうに誰かが立っているはずがない。
扉の下の暗がりが、わずかに濃くなった。
『またあの数字か?』
「……ああ」
『まだ出てんのかよ』
「それだけじゃない」
カイは声を潜めた。
「足音がした」
『足音?』
「ここまで歩いてきた」
『船体音だろ』
「違う」
『熱収縮とか配管とか――』
「濡れてた」
『何が』
「音が」
言ってから、自分でも馬鹿なことを言ったと思った。
だが、そうとしか表現できなかった。
靴底が水を踏む音。
ぺたり。
ぺたり。
足音の間隔は、扉の向こうで止まったままだった。
それなのに、濡れた音だけが少しずつ近づいている。
ミロはしばらく黙っていた。
『待ってろ』
「来るな」
『確認するだけだ』
「ミロ」
『工具持ってく。五分』
通信が切れた。
「馬鹿……」
カイは端末を置いた。
扉を見る。
何も起きない。
隔壁は閉じたまま。
扉脇の人感センサーにも反応はない。
生命反応、ゼロ。
気圧正常。
温度正常。
放射線量正常。
すべて正常。
ただ、扉の向こうから、海の底のような冷気が滲んでいた。
航法画面だけが異常だった。
2.88光年。
数字は止まっている。
カイは息を吐いた。
吐いた息が、白くほどけた。
そして、
扉の下を見た。
黒い線が見えた。
最初は影だと思った。
だが違った。
液体だった。
扉の隙間から、ごく細い水の筋が操舵室へ入り込んでいた。
水は、誰かの指のように床を探っていた。
「……嘘だろ」
椅子から立つ。
水は床の微細な溝に沿って広がった。
透明だった。
その中に、黒い粒がいくつも揺れていた。
カイは慎重に近づく。
しゃがみ込み、指先で触れる。
冷たい。
冷たすぎた。
指を鼻へ近づけた。
匂いがした。
知っている匂いだった。
しかし宇宙船の中で嗅ぐはずのない匂い。
カイは指先を見つめた。
「海……?」
潮の匂いだった。
その奥に、腐った藻と、遠い花の匂いが混じっていた。
*
扉が開いた。
「うわっ!」
カイは飛び退いた。
「おい!」
向こうにいたミロも驚いて工具を構えた。
「俺だ!」
「急に開けるな!」
「扉なんだから開くだろ!」
二人は数秒睨み合った。
ミロの靴底から、水が一滴落ちた。
ぽたり。
それから同時に床を見る。
「……何だこれ」
ミロが言った。
通路は濡れていた。
幅一メートルほど。
操舵室の前から、廊下の奥へ向かって水が続いている。
水跡の中に、細長い足跡が並んでいた。
裸足のような形だった。
「配管か?」
ミロはしゃがみ込んだ。
指で触れる。
舐めた。
「おい」
「塩水だ」
ミロの表情が変わった。
「海水?」
「海水だ」
「何で」
「俺が聞きたい」
二人は水の跡を追った。
船内照明が白い床を照らしている。
水の量は少ない。
だが確かに続いていた。
曲がり角。
生活区画。
倉庫前。
足跡は、二人の前で途切れずに続いていた。
誰もいない廊下の奥へ。
そして――
「ここ?」
ミロが足を止めた。
水跡はそこで途切れていた。
船体外壁。
ただの壁だ。
扉もない。
配管もない。
点検口すらない。
その壁から、水が滲み出していた。
カイは言葉を失った。
銀色の内壁に、一筋の水が伝っている。
一滴。
一滴。
水滴が落ちるたび、壁の奥で何かが爪を立てるような音がした。
まるで壁の向こう側に海があるように。
ミロが点検端末を壁へ接続した。
「外殻損傷なし」
指を動かす。
「断熱層正常。内圧差なし。結露条件でもない」
「じゃあ何だよ」
「分からん」
ミロは苛立ったように答えた。
「サンプル取る」
小型容器へ水を入れる。
簡易分析。
数秒。
二人は結果を見る。
塩化ナトリウム。
マグネシウム。
硫酸塩。
カルシウム。
カリウム。
その他、多数。
ミロの指が止まった。
「……組成が」
「何だ」
「地球の海水に近い」
カイは壁を見た。
壁の水滴が、ゆっくりと横へ流れた。
「近いって?」
「ほぼ同じだ」
「そんなわけあるか」
「俺に怒るな」
カイは何も言えなかった。
人類が地球を離れ、数十の恒星系へ広がった時代。
水など珍しくもない。
氷衛星から採取することもあれば、人工的に合成することもある。
だが、
地球の海水そのものが、
恒星間貨物船の壁から染み出す理由など一つもない。
その時。
壁の向こうで、何かが軽く叩いた。
こん。
二人が振り返る。
ぱん。
小さな音がした。
通路灯の一つが消えていた。
ぱん。
その隣も消える。
ぱん。
また一つ。
暗闇が、
奥からこちらへ向かってきている。
消えた灯りの向こうで、水を踏む音がした。
ぺたり。
ぺたり。
「おい」
ミロが立ち上がった。
「制御室に戻るぞ」
二人は歩き出した。
ぱん。
背後で照明が消える。
ぱん。
また一つ。
走るほどではない。
だが自然と足が速くなる。
暗闇も同じ速度でついてくる。
ぺたり。
ぺたり。
ぺたり。
「カイ」
「分かってる」
「走るぞ」
二人が駆け出した。
その瞬間だった。
船内のすべての照明が消えた。
真っ暗になった。
暗闇の中で、誰かがすぐ耳元で息を吸った。
「カイ!」
「ここだ!」
非常灯が点灯する。
赤い光。
ミロがすぐ隣にいた。
二人は息を切らしていた。
ミロの背後には、濡れた足跡が一つだけ残っていた。
警報は鳴っていない。
停電表示もない。
「どうなってる」
ミロが端末を見る。
「電力供給正常……?」
照明だけが落ちている。
「操舵室へ」
カイが言った。
二人は戻った。
*
操舵室に入る。
扉を閉じる。
ロック。
ロック音の直後、扉の外で、指先が隔壁をなぞった。
ミロが主制御端末に飛びついた。
「反応炉正常。バッテリー正常。電力系統異常なし」
「照明は」
「正常になってる」
室内灯が点灯した。
二人は顔を見合わせる。
床には水がなかった。
ただ、ミロの靴底から落ちた一滴だけが、赤い非常灯の色を映していた。
「……何だったんだ」
「知らん」
カイは航法画面へ目を向けた。
数字を探す。
なかった。
「消えた」
「何が」
「あの距離」
ミロが画面を見る。
表示は通常航法に戻っている。
「やっぱり故障じゃねえか」
「海水はどう説明する」
「それは……」
ミロが言葉に詰まった。
カイは観測窓を見る。
星々。
暗闇。
いつもの宇宙。
ただ、
何かが違った。
星の間に、黒い空白が増えている。
「ミロ」
「今度は何だ」
「星、多くないか?」
ミロが窓を見る。
「は?」
「いや……」
カイは星図と実際の星空を見比べた。
一つ。
二つ。
三つ。
船首方向に、本来存在しない光点がある。
「航法照合」
コンピューターに命令する。
星座パターン照合。
結果。
一致率 92.7%
「低いな」
通常なら99.999パーセント以上になる。
「センサー再校正」
再実行。
一致率 88.1%
下がった。
「何で……」
もう一度。
81.4%
ミロが画面を見つめる。
「星が動いてる?」
「違う」
カイは気づいた。
「増えてる」
本来何もないはずの場所に、
光が一つずつ生まれていた。
点。
また点。
また一つ。
だが恒星ではない。
明るすぎる。
そして色が違う。
「白い……?」
ミロが呟いた。
カイの喉が鳴った。
点ではない。
遠すぎて点に見えているだけだ。
いくつもの白い形。
規則的に並んでいる。
その一つが、こちらを向いたように見えた。
「倍率上げろ」
ミロが言った。
「やめよう」
「確認するだけだ」
「やめろ」
「カイ」
「見るな」
自分でも理由は分からなかった。
ただ、
見てはいけない。
そう思った。
ミロはカイを見る。
「爺さんの話にビビってんのか?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ」
「分からない」
ミロは鼻を鳴らした。
「なら確認する」
観測装置を起動した。
「ミロ!」
倍率、十倍。
白い点が少し大きくなる。
二十倍。
輪郭が出る。
五十倍。
ミロが動かなくなった。
「……何だよ、これ」
カイは見たくなかった。
それでも画面へ視線を向けた。
そこには、
白い壁があった。
窓。
青い屋根。
細い塔。
家だった。
星空の中に、
白い家が浮かんでいる。
窓の一つだけが開いていた。
暗い室内から、何か白いものがこちらを覗いていた。
「あり得ない」
ミロが呟く。
倍率をさらに上げる。
映像が乱れる。
白い建物が一瞬消える。
代わりに、
青が映った。
水面。
陽光を反射する海。
帆船。
遠くの島。
そして、
鐘楼。
カイの心臓が強く打った。
「切れ!」
「待て」
「切れ!」
「これ……」
ミロの声が震えている。
「本当にあるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、
カイは老人を思い出した。
――青い海が見えても。
――白い街が見えても。
――近づくな。
「観測切れ!」
カイが装置を強制停止した。
映像が消える。
操舵室が静かになった。
静かすぎた。
通信機の奥で、遠くから水を掻く音が一度だけ響いた。
二人とも何も言わない。
カイは航法画面を見た。
目的地。
航路。
速度。
すべて正常。
そして、
消えていたはずの距離表示が戻っていた。
0.73光年。
「……」
ミロが息を呑んだ。
「三時間前、二・八八だったよな」
「ああ」
「俺たちはそんな距離進んでない」
「ああ」
「だったら」
カイは答えなかった。
二人とも分かっていた。
近づいている。
向こうから。
*
十分後。
《ヘルメス》は緊急減速を開始した。
カイは目的地への航行を中止し、最寄りの中継基地への退避ルートを設定した。
航法コンピューターは正常に応答した。
「反転完了」
ミロが言った。
船首方向が百八十度変わる。
「最大推力」
「出すぞ」
エンジンが唸る。
船体が僅かに震える。
《ヘルメス》は来た方向へ加速した。
「距離は」
カイが聞く。
「〇・七三」
一分。
「〇・七三」
二分。
「〇・七二」
ミロが顔を上げる。
「縮んでる」
「推力上げろ」
「最大だ!」
三分。
0.69光年。
五分。
0.61光年。
「もっと出せ!」
「これ以上は炉がもたねえ!」
「いいから出せ!」
「壊れたら終わりだ!」
「もう終わりかけてるだろ!」
カイが怒鳴った。
ミロが黙る。
エンジン出力が上がった。
警告灯が点灯する。
船が軋む。
それでも、
数字は減り続けた。
0.52光年。
0.41光年。
0.30光年。
速度とは関係がない。
方向とも関係がない。
逃げれば逃げるほど、
それは近づいてきた。
船体の外壁を、何かがゆっくり撫でていた。
ざり。
ざり。
「カイ」
ミロの声がした。
「何だ」
「匂わないか」
カイは気づいた。
潮の匂い。
さっきより強い。
そして、
それだけではなかった。
風が吹いていた。
操舵室の中を、
暖かい風が。
空調ではない。
湿っている。
柔らかい。
どこか懐かしい。
カイの前髪が微かに揺れた。
「空調止めろ」
「止まってる」
風は続く。
潮の香り。
花の匂い。
どこかで、
鳥が鳴いた。
二人は凍りついた。
「今の……」
「聞いた」
もう一度。
遠くで、
海鳥の声。
その声は、船内のどこかから返ってきた。
カイは観測窓へ目を向けた。
星空の向こう。
黒い宇宙の一角が、
青くなっていた。
ほんの僅か。
針の先ほどの青。
それがゆっくり、
大きくなっている。
「見るな」
カイが言った。
ミロは答えない。
「ミロ」
「……綺麗だな」
「見るな!」
ミロの目は窓に釘付けになっていた。
青が広がる。
海。
まだ遠い。
しかし確かに海だった。
黒い宇宙の中に、
水平線が現れている。
「あり得ねえ……」
ミロは笑っていた。
恐怖ではなかった。
感動している。
「本当にあったんだ」
「ミロ」
「爺さんの話、本当だった」
「席に戻れ」
「カイ、見ろよ」
「見てる!」
「違う。ちゃんと見ろよ」
ミロが窓へ近づいていく。
その足元に、濡れた足跡が一つずつ現れた。
「白い街だ」
カイにも見えた。
海岸。
斜面。
白い家。
青い屋根。
細い鐘楼。
遠くに山。
陽光。
宇宙の闇の中に、
昼間の地中海が浮かんでいる。
美しかった。
恐ろしいほどに。
そして、
航法画面。
0.08光年。
「ミロ!」
カイは友人の肩を掴んだ。
「目を離せ!」
「何で」
「何でじゃない!」
「行ってみようぜ」
カイの手が止まった。
「……何?」
ミロが振り返る。
笑っている。
「ここまで来たんだ」
「来たんじゃない」
「同じだろ」
「違う!」
「ちょっと見るだけだ」
「老人が何て言った!」
「老人?」
ミロが首を傾げた。
「誰だよ、それ」
カイの背筋が冷えた。
「《オルフェウス》の」
「何言ってんだ?」
「酒場にいただろ!」
「知らねえよ」
ミロは本気で分からない顔をしていた。
その顔の奥で、瞳孔だけがゆっくり広がった。
「お前……」
その時。
船内通信機からノイズが流れた。
ざああああ。
二人が振り向く。
音が変わる。
ざああああ。
規則的。
寄せて、
返す。
寄せて、
返す。
波の音だった。
そしてその向こうから、
小さく、
鐘の音がした。
カーン。
カーン。
カーン。
ミロが笑った。
「呼んでる」
「違う」
「聞こえるだろ」
「違う!」
カイは通信機を叩いた。
電源を切る。
音は止まらない。
船内スピーカー。
警報装置。
端末。
壁。
床。
船体そのもの。
あらゆる場所から、
波の音が聞こえる。
カーン。
鐘。
そして、
その奥で、
もう一つ。
小さな声。
最初は分からなかった。
高い。
細い。
震えている。
カイの顔から血の気が引いた。
「……嘘だ」
老人の言葉。
――泣き声を聞いたら、もう遅い。
声は大きくなった。
赤ん坊が、
泣いていた。
宇宙で。
真空のはずの宇宙で。
《ヘルメス》の外から。
いや。
もっと遠くから。
星々の向こうから。
空間そのものが泣いているような声だった。
ミロの笑顔が消えた。
「カイ……」
「ああ」
「これ」
「ああ」
「まずいんじゃないか」
カイは答えなかった。
観測窓の向こう。
青い海の上。
それまで何もなかった空に、
金色の点が一つ浮かんでいた。
ゆっくり、
大きくなる。
泣き声も、
大きくなっていく。
カイはその形を見てしまった。
膝を抱え、
胎児のように身体を丸め、
海と街を抱きかかえるように、
虚空に浮かんでいる。
巨大な、
黄金の赤ん坊。
その閉じた瞼から、
金色の涙が流れていた。
涙は海へ落ちる前に、こちらへ向かって真っ直ぐ伸びていた。




