第2章
《オルフェウス》での滞在は、結局二日になった。
荷役管理システムの不具合で出港許可が遅れたのだ。
その間、カイたちは酒を飲み、人工重力区画の浴場へ行き、安い映画を観て、船内では滅多に食べられない本物の肉を食べた。
あの夜の話は、いつの間にか話題に上らなくなっていた。
ミロなど翌朝には、
「俺、何の話してたっけ」
と笑っていた。
カイも、それでいいと思った。
所詮は船乗りの怪談だ。
長距離航路には、似たような話がいくらでもある。
無人船から聞こえる歌声。
存在しない救難信号。
三十年前に沈んだ船とすれ違ったという話。
星図にない惑星。
宇宙を仕事場にする人間は、何もない暗闇に意味を与えたがる。
そういうものだ。
だから、あの座標についても忘れることにした。
*
出港予定時刻の四十分前。
カイは《ヘルメス》へ戻るため、ドックへ向かっていた。
ステーションの長い連絡通路。
巨大な観測窓の向こうには、係留された貨物船や作業艇が並んでいる。
その先は宇宙だった。
黒。
何度見ても、黒かった。
「次は三週間だぞ」
隣を歩くミロが言った。
「何が?」
「まともな飯」
「ああ」
「昨日もう一回ステーキ食っとけばよかった」
「二枚食ってただろ」
「あれは前菜だ」
そんなくだらない話をしながら歩いていた時だった。
カイが足を止めた。
少し先。
搭乗ゲートの脇に、誰かが立っている。
あの老人だった。
左目の義眼。
擦り切れたジャケット。
酒場で見た時と同じ格好だった。
老人もカイに気づいた。
いや。
最初から待っていたように見えた。
「知り合い?」
ミロが聞いた。
「この前の老人だよ」
「ああ」
二人が近づく。
老人は挨拶もしなかった。
「どこへ行く」
唐突だった。
カイは眉をひそめる。
「仕事だよ」
「航路は」
「会社に聞いてくれ」
「カイ」
名前を呼ばれた。
カイは黙った。
自分は、この老人に名前を教えただろうか。
記憶を辿った。
酒場では名乗っていない。
少なくとも覚えてはいない。
「俺の名前……」
「行くな」
老人が遮った。
声が低かった。
「何の話だ」
「あそこだ」
ミロが小さく息を吐いた。
「またその話か」
老人はミロを見もしなかった。
カイだけを見ている。
「忘れろ」
「忘れてるよ」
「嘘をつけ」
老人の声が強くなった。
通路を歩いていた何人かが振り返った。
「座標を見たんだろ」
カイの表情が止まった。
「……何で知ってる?」
老人が一歩近づいた。
「探そうと思うな」
酒臭さはなかった。
昨夜とは違う。
右手が、僅かに震えていた。
「興味を持つな。調べるな。航路を外れるな」
「だから、行かないって」
「そうじゃない」
老人は首を振った。
「行かないだけじゃ足りん」
カイには意味が分からなかった。
「忘れろ」
老人は繰り返した。
「街のことも。海のことも。座標も。全部だ」
ミロが苦笑する。
「爺さん、俺たちは貨物船乗りだ。探検家じゃない。わざわざ仕事を放り出して――」
「そういう奴ほど行く」
老人が初めてミロを見た。
「最初から行こうと思ってる奴なんか、ほとんどいない」
ミロの表情から笑いが消えた。
老人は続ける。
「航路が少しずれる。機関に異常が出る。航法装置が変な座標を示す。救難信号を拾う。理由はいくらでもある」
「偶然だろ」
「偶然ならいい」
「じゃあ何だっていうんだ」
老人は答えなかった。
観測窓の外を見る。
遠くで一隻の貨物船がステーションから離れていく。
老人はそれをしばらく眺めていた。
「昔、一人いた」
ぽつりと言った。
「知り合い?」
「ああ」
「行ったのか」
老人は頷いた。
「三十四年前だ」
カイは黙って続きを待った。
「本人は信じちゃいなかった。俺と同じだ。馬鹿話だって笑ってた」
「それで?」
「ある日、航路を外れた」
「どうして」
「本人にも分からなかった」
老人の義眼が小さく駆動音を立てる。
「最後の通信でそう言っていた」
カイの背中に、薄い寒気が走った。
「船は?」
「消えた」
「残骸は」
「ない」
「救難信号は?」
「ない」
老人はカイを見る。
「ただ、最後に一つだけ言った」
「何を?」
老人の口が僅かに動いた。
「近づいてくる、と」
カイは眉を寄せた。
「……何が?」
「分からん」
「何が近づいてくるんだよ」
「本人にも分からなかった」
老人の声が掠れた。
「ただ、何度計算しても同じだったそうだ」
「何が」
「逃げているのに、距離が縮んでいた」
ミロが鼻で笑おうとして、
やめた。
「意味が分からない」
カイが言った。
「俺にも分からん」
老人は静かに答えた。
「最後には、あいつも分からなくなっていた」
数秒の沈黙。
「そして、その次の通信で言った」
「何を?」
老人が答える。
「聞こえる、と」
カイにはもう、問い返す必要がなかった。
「……赤ん坊か」
老人が頷いた。
「泣き声を聞いたら、もう遅い」
その言葉だけは、酒場で聞いた怪談とは違って聞こえた。
老人は怖がっていた。
本当に。
「いいか」
老人はカイの腕を掴んだ。
指が食い込んだ。
「何が見えても近づくな」
「分かったよ」
「青い海が見えてもだ」
カイの呼吸が、一瞬止まった。
「白い街が見えても」
掴む力がさらに強くなる。
「誰かが呼んでいても」
「痛いって」
「泣いていてもだ」
老人は離さない。
「助けようとするな」
カイはその手を振りほどいた。
「分かった!」
通路に声が響いた。
老人が一歩よろめく。
カイは腕を擦った。
「俺たちは行かない。いいな?」
老人は何も言わなかった。
ただカイを見ていた。
「行くぞ」
カイはミロに言った。
二人は搭乗ゲートへ向かう。
十歩ほど歩いたところで、背後から声がした。
「カイ」
振り返る。
老人は同じ場所に立っていた。
「何だよ」
老人の顔から、それまでの険しさが消えていた。
代わりに、どうしようもなく疲れた表情をしていた。
「決して――」
一度、言葉を切った。
「行ってみようなんて思うな」
カイは答えなかった。
老人は続けた。
「人間はな、行くなと言われると、向こうに何があるのか知りたくなる」
「……」
「だから俺は、お前に何があるか教えない」
そして最後に言った。
「ただ覚えておけ」
義眼の青い光が消える。
「あそこへ行った奴は、誰一人として帰ってきていない」
*
三十分後。
《ヘルメス》は《オルフェウス》を離れた。
ステーションが徐々に小さくなる。
カイは操舵席から、その光を眺めていた。
「変な爺さんだったな」
ミロが言った。
「ああ」
「三十四年前の話、本当だと思う?」
「知らん」
「調べてみるか?」
カイは少し考えた。
「やめとけ」
「珍しいな」
「何が」
「こういうの好きそうなのに」
「仕事しろ」
ミロは笑いながら機関区へ戻っていった。
一人になった操舵室。
カイは航法画面を見る。
予定航路は維持されている。
目的地まで十一日と七時間。
警告表示はない。
進路も推力も、予定値から一桁の誤差すらない。
カイは椅子へ深く身体を沈めた。
馬鹿馬鹿しい。
そう思った。
老人の警告も。
青い海も。
白い街も。
赤ん坊の泣き声も。
全部、船乗りの怪談だ。
画面上で《オルフェウス》の光点が小さくなっていく。
やがて視界から消えた。
カイは念のため航法ログを開いた。
異常なし。
船体状況、問題なし。
慣性航法、稼働中。
星間測位、正常。
異常は一件もなかった。
そこで、ふと思い出した。
酒場で見た座標。
削除したはずだった。
馬鹿らしいと思いながら、カイは航法コンピューターに履歴検索をかけた。
検索結果はゼロ。
やはり残っていない。
「……そりゃそうだ」
独り言を言い、画面を閉じようとした。
その時。
航法画面の隅に、小さな数字が表示された。
ほんの一瞬だった。
カイは手を止めた。
何だった。
もう一度ログを開く。
該当データはない。
見間違いか。
数秒待つ。
また表示された。
今度は読めた。
距離表示だった。
4.31光年。
「……何の距離だ?」
項目名がない。
目的地までの距離ではない。
最寄りの航路標識でもない。
カイは表示を選択した。
消えた。
それだけだった。
しばらく待ったが、もう出ない。
カイは眉間を揉んだ。
「疲れてんな……」
*
六時間後。
交代前の航法確認で、同じ数字を見つけた。
今度はログに残っていた。
項目名なし。
座標なし。
発信源なし。
ただ距離だけ。
4.27光年。
カイは画面を見つめた。
六時間で〇・〇四光年。
そんな距離を《ヘルメス》は移動していない。
そもそも現在の航路とは無関係だ。
コンピューターの誤作動だろう。
ログを削除した。
*
翌日。
4.11光年。
二日目。
3.82光年。
三日目。
3.39光年。
《ヘルメス》の航路に異常はない。
予定航路からの逸脱、〇・〇〇〇二パーセント。
航法システムは稼働している。
エンジンも問題ない。
星間測位も機能している。
目的地との距離も、計算通りに縮んでいる。
それなのに、
正体不明の何かとの距離も縮んでいた。
カイは三日分の航跡を三次元星図に重ねた。
《ヘルメス》は一直線に目的地へ進んでいる。
その事実に間違いはない。
そこで、正体不明の距離情報から逆算して、その対象の位置を推定させた。
演算に数秒。
結果が出た。
カイは画面を見た。
理解できなかった。
「……嘘だろ」
対象地点は、
毎回違っていた。
初日は船尾側。
二日目は右舷方向。
三日目には進行方向から二十七度。
固定された天体ではあり得ない。
何かが高速で移動しているとしても説明できない。
距離だけが、
確実に、
縮んでいる。
カイは老人の言葉を思い出した。
――逃げているのに、距離が縮んでいた。
背中に汗が流れた。
すぐにミロを呼ぼうとして、
やめた。
まだ機械の不具合かもしれない。
まず再起動。
航法システムを予備系へ切り替える。
星図データベースも外部キャッシュから再取得した。
表示は消えた。
カイは長く息を吐いた。
「……ほらな」
故障だ。
ただの故障。
それから一時間、
変化はなかった。
二時間。
画面は沈黙した。
三時間。
カイはようやく気を抜いた。
その時、操舵室の照明が一度だけ瞬いた。
航法画面が暗転する。
すぐに復帰した。
そこには、
見覚えのない星図が表示されていた。
黒い宇宙。
恒星なし。
惑星なし。
衛星なし。
空白だけが広がっている。
酒場で見た、あの場所だった。
中央に文字が浮かぶ。
2.91光年。
カイは椅子から立ち上がった。
「ふざけるな……」
画面を消す。
再び表示される。
電源を切る。
予備モニターに表示される。
カイは凍りついた。
数字が変わった。
2.90光年。
その瞬間、あることに気づいた。
自分たちは、
そこへ向かっていない。
間違いなく。
《ヘルメス》は目的地へ向かっている。
なら、
この数字が本当なら。
近づいているのは、
こちらではない。
カイはゆっくり観測窓を見た。
もちろん、
何も見えなかった。
星と、
闇。
それだけだ。
だが、その夜からカイは、
宇宙の暗闇を見るたびに、
向こう側から何かが近づいてきているような気がしてならなくなった。
そして、次の交代時刻が近づいた頃、航法画面の隅で、また数字が変わった。
2.89光年。
カイは息を止めた。
表示が変わったのは、船が進んだからではない。
エンジンは停止していた。
《ヘルメス》は、完全に静止していた。
それでも距離は縮まっていた。
観測窓の向こうには、相変わらず星と闇しかない。
だが、闇のどこかで、何かがこちらを見つけた。
そう思った瞬間、操舵室の外から、かすかな音が聞こえた。
遠く、船体の向こう側から。
ひとつ。
またひとつ。
ゆっくりと近づいてくる、濡れた足音。
カイは振り返った。
誰もいない。
足音だけが、船内の暗い通路を進んでくる。
航法画面の数字が、また変わった。
2.88光年。
そして、足音が操舵室の扉の前で止まった。




