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第1章

宇宙は、思っていたほど静かではない。


 少なくとも、貨物船乗りにとっては。


 推進炉の低い振動。循環ポンプの唸り。空調ダクトを抜ける風。どこか遠くで周期的に鳴るリレーの作動音。


 それらを全部取り除いてしまえば、たぶん人間は三日ともたない。


 窓の外には星しかない。


 星と、闇。


 それだけだ。


 カイは操舵席の背もたれに体重を預け、欠伸を噛み殺した。


 輸送船《ヘルメス》は予定航路を外れることなく、外縁航路第七十三号を惰性航行している。


 目的地まで、あと十九時間。


 積荷は工業用触媒六百トン、培養肉用の基材、医療用ポリマー、それから植民都市向けの安酒が四十ケース。


 人類が恒星間航行を始めた頃、宇宙旅行は英雄の仕事だったらしい。


 今では違う。


 荷物を積み、運び、降ろす。


 遅れれば怒られ、燃料を使いすぎれば始末書を書かされる。


 宇宙は開拓地ではなくなった。


 道路になったのだ。


「カイ」


 後ろから声がした。


「起きてるか?」


「見れば分かるだろ」


「目を開けたまま寝る奴もいる」


 機関士のミロが紙コップを二つ持って操舵室へ入り、その一つを投げた。


 カイは片手で受け取った。


「コーヒー?」


「コーヒー味の何かだ」


 蓋を開ける。焦げ臭い。


「ひどいな」


「文句があるなら次の寄港地で本物を買え」


 次の寄港地、ステーション《オルフェウス》。


 外縁部の中継基地だ。


 燃料を補給し、荷物を一部降ろし、乗組員が酒を飲んで、また出発する。


 カイはそんな場所を何十も知っている。


 広告、酒場、簡易宿泊区、娯楽施設。長距離航行で頭のおかしくなりかけた船員たち。そして、噂話。


     *


 《オルフェウス》に入港したのは標準時で十八時四十分だった。


 人工重力区画へ入った瞬間、久しぶりに足の裏へ体重が戻る。


 カイは思わず膝を鳴らした。


「歳だな」


 ミロが言った。


「三十一だぞ」


「宇宙船乗りなら中年だ」


「じゃあ四十七のお前は何なんだ」


「古代遺跡」


 二人は笑った。


 荷役作業の終了を確認すると、そのまま居住区へ向かった。


 酒場はドックから歩いて十分ほどのところにある。


 《青い羊》。


 看板には、宇宙服を着た羊が酒瓶を持っていた。


「誰が考えたんだ、これ」


「酔っ払いだろ」


 店内は混んでいた。


 鉱山船の作業員、客船の機関士、民間警備会社の連中、何日も風呂に入っていなさそうな探査船乗り。


 様々な人間の声と音楽とグラスの音が混ざり合っている。


 カイとミロはカウンターの隅に座った。


 三杯目を飲み終えた頃だった。


「――まだ、あそこへ行こうって馬鹿がいるのか」


 隣の席から声が聞こえた。


 カイが横を見ると、老人がいた。


 七十を越えているように見える。左目は義眼だった。


 向かいには若い船員が三人いる。


「本当にあるんですか?」


 一人が聞いた。


「街が?」


 老人は答えず、酒を一口飲んだ。


「何の話だ?」


 ミロが小声で聞いた。


「知らない」


「聞いてみようぜ」


「やめとけよ」


 だがミロはすでに身体を向けていた。


「街って?」


 老人がゆっくりこちらを見る。


 義眼の奥で、小さな青い光が動いた。


「知らん方がいい」


「そう言われると知りたくなる」


「そうやって何人も消えた」


 ミロが笑った。


「海賊?」


 老人は笑わなかった。


「海賊ならまだいい」


 カイはグラスを置いた。


 酒場の喧騒の中、その一角だけが切り取られたように静まった。


「宇宙のポイント・ネモって知ってるか」


 老人が言った。


 カイは首を振った。


「地球の海に、昔そう呼ばれた場所があった。陸地から最も遠い海域だ」


「それの宇宙版?」


「そういうことだ」


 老人がテーブルの端末を操作すると、星図が浮かび上がった。


 人類圏の外縁。交易航路からも探査区域からも大きく外れた場所。


「この辺りだ」


 ミロが星図を覗き込む。


「何もないじゃないか」


「だからそう呼ばれてる」


 恒星なし。惑星なし。衛星なし。資源価値のある小惑星群すらない。


 ただの空白。誰も行く必要のない場所。


「で、そこに街がある?」


 カイが言った。


 老人がこちらを見る。


「見えるらしい」


「何が」


「海だ」


 カイは思わず笑った。


「宇宙に?」


「青い海。白い街。石造りの家。丘。港。古い地球の地中海沿岸に似ているそうだ」


 ミロが吹き出した。


「随分具体的な幻覚だな」


「そうだな」


 老人は酒を飲んだ。


「見た奴が一人ならな」


 ミロの笑いが止まった。


「記録は古い。人類がこの宙域まで出るようになってから、何度も同じ話が出ている。航路も船種も年代も違う。なのに、話はほとんど同じだ」


 青い海。白い街。鐘楼。港。丘に並ぶ家々。


「で、行った奴は?」


 カイが聞いた。


「帰ってこない」


 老人は残った酒を飲み干した。


「通信途絶。船体未発見。救難信号なし」


「事故だろ」


「そうかもしれん」


 老人は立ち上がり、勘定を端末へ送った。


 去り際、カイの肩越しに言った。


「ただな」


 カイは振り返った。


 老人は義眼ではない方の目で、じっと彼を見ていた。


「あそこには、もう一つ噂がある」


「何だよ」


 老人はしばらく黙った。


「泣き声だ」


「泣き声?」


「ああ。近づいた船は、みんな聞くらしい」


 ミロが笑いながら聞いた。


「誰の?」


 老人は足を止めた。だが振り返らなかった。


「赤ん坊だよ」


 自動扉が開き、老人の姿が通路の向こうへ消える。


 数秒後、酒場の喧騒が戻った。


 ミロが鼻で笑った。


「古典的だな」


 カイは返事をしなかった。


 テーブルに残された星図を見ていた。老人が消し忘れたらしい。


 恒星も惑星もない黒い宙域。その中心に、小さな座標表示が浮かんでいる。


 カイは何気なく端末へ保存しようとした。


 表示が一瞬乱れ、警告が出た。


 指定された座標は存在しません。


「……何だ?」


 もう一度入力する。


 同じ表示。


 指定された座標は存在しません。


 カイは眉をひそめた。


「ミロ」


「ん?」


「さっきの老人――」


 言いかけて入口を見る。


 当然、もういない。


 カイは座標を手入力した。


 今度は通った。


 星図が移動する。


 何もない。


 ただ一つ、妙なことがあった。


 そこだけ、航法データの背景が欠けている。


 未観測域ではない。測量不能域でもない。


 まるで地図から、その場所だけが意図的に切り抜かれているような空白だった。


「気味悪いな」


 ミロが言った。


「消せよ」


「ああ」


 カイは画面へ指を伸ばした。


 その時、酒場のスピーカーからほんの一瞬だけ雑音が走った。


 ざ、と。


 その奥で、赤ん坊の泣き声が聞こえた。


 カイは顔を上げた。


「今の、聞いたか?」


「何が?」


 ミロは普通に酒を飲んでいる。


 店内の誰も反応していない。


 音楽、笑い声、食器の音。すべていつも通りだった。


 カイはもう一度星図を見る。


 座標は消えていた。


 だが画面の黒い部分に、一瞬だけ青いものが映った。


 海だった。


 そう思った時には、もう何もなかった。

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