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第18話 一年若くなる前に証拠を残すらしい

 アカネの初回医学検査から、一週間後の日曜日の朝。

 啓介は、三崎の勤務する健診センターの一室にいた。この一週間も普通に会社へ通い、その傍らで《アカネ健康観察ログ》を続けている。

 アカネに体調異常はなく、食べ物を口にした翌日には、ごく少量ながら念願の排泄物も一度だけ確認できた。三崎へ『排泄確認』と報告すると、『写真はいらん』と即答された。

 当然、今日アカネはマンションで留守番だ。前回使ったキャリーケースの横で『自分も行く』という顔をしていたが、「今日は俺の検査だから留守番」と告げると、「あぎゃあ!」と露骨に不満を表明していた。


 診察室に入ると、三崎はすでにデスクの上に分厚いファイルを広げ、真剣な顔でパソコンのキーボードを叩いていた。

 画面には、今日の検証手順が細かくリストアップされていた。


 《一年若く・自己使用第一例 事前検査プロトコル》


 啓介は、その物々しいタイトルを見て少し顔を引きつらせた。

「……なんか、いつも以上に大げさじゃないか?」

「大げさなものか」三崎は画面から目を離さずに答えた。「お前は今から、人類史上たぶん初めて、『加齢の進行方向を逆へ動かす』んだぞ。これくらいやって当然だ」

「まあ、たった一歳だけだけどな」

「その『一歳だから』難しいんだよ」


 三崎は手を止め、真っ直ぐに啓介を見た。

「いいか。今回の最大の壁はここだ。……今のお前は三十六歳。今日、魔法を使って三十五歳になったとする。三十六歳の健康な男と、三十五歳の健康な男を横に並べて、医学のデータだけで『絶対にこっちが若い』と見分けられると思うか?」


 啓介は数秒考えて、首を横に振った。

「……無理だな」

「そういうことだ。だから、徹底的に証拠を残す」


 今回の実験対象である啓介は、ある意味で「最悪の被験者」だった。

 数週間前に《健全なる肉体》を使用し、蓄積していた脂肪肝、肩こり、腰の鈍痛、胃炎など、年齢相応の「軽微な不調や損傷」はすでに完全にリセットされているのだ。

 現在の啓介は、『三十六歳として、ほぼ完璧に健康な身体』になっている。


 三崎が頭を抱える。

「正直、この状態で若返りのテストをするのは、実験としては最悪の条件なんだよ」

「なんでだよ」

「お前の身体はすでに健康だから、若返った時に『劇的に改善する余地』がほとんどないんだよ。もしお前が七十歳で、関節軟骨がすり減って痛いとか、筋力が目に見えて低下しているとか、老眼や動脈硬化が進んでるとかであれば、一歳分の変化でもエコーや数値で拾いやすい。だが、健康な三十六歳を健康な三十五歳にしたところで、データ上は『で?』ってなる可能性が極めて高い」


 啓介も納得した。

「……でも、それでも測るんだな」

「当たり前だ。測らなければ、『使ったけど見た目は何も変わらなかった(プラセボだった)』で終わる。測った上で何も変わらなければ、『今回の検査機器では、一歳分の若年化の差を検出できなかった』という明確なデータになる」

「似てるけど、全然意味が違うな」

「医学ってのはそういうもんだ。分からないという結果も、立派な証拠だ」


 実は前日の土曜日、啓介はすでに《危険判定》を使用し、今日の安全性を確認済みだった。

「明日、三崎の管理下で《一年若く》を自分自身へ一度だけ使用し、医学的検査を行う。重大な損害を生じさせず、魔法の存在が露見せずに帰宅できるか」

 結果は『否定』。

 致命的な危険がないとわかっているからこそ、今日の日次更新でフルチャージされた6マナを心置きなく使える。


 《一年若く》の必要マナは、生命3、知識1、境界1。

 合計5マナ。

 啓介は頭の中で本日のマナ配分を組み立てた。

 《生命樹の苗床》から生命1。《名もなき雑木地》から生命1。《借宿》の任意マナを生命へ変換して1。これで生命3。

 《思索の計数盤》から知識1。《五彩の魔石》の任意マナを境界へ変換して1。

 見事に、ピッタリと支払える。

 残るのは《小さな工房箱》の物資1のみ。


 三崎が釘を刺す。

「今日は、これ以外の魔法は絶対に使うなよ」

「言われなくても使わない。異常が出た時に、原因の切り分けができなくなるからだろ?」

 三崎は満足そうに頷いた。


 事前の記録(証拠作り)が始まった。

 まずは一番単純なもの、全身と顔の「写真」だ。


 しかし、適当にスマートフォンで撮るわけではない。

 診察室の同じ壁を背景にし、同じ照明の下、同じデジタルカメラの同じレンズを使い、三脚で固定した同じ距離、同じ高さから撮影する。

 表情は完全に無表情。正面、左右45度、真横の4アングル。髪の分け目もピンで固定し、服も検査着に統一した。


「変化がなかったことを後で正確に比較するためにも、条件は完全に合わせる」

 三崎は、さらにマクロレンズを使い、目尻、額のシワ、ほうれい線、毛穴の開き、肌の色調、シミ、髭の濃さ、髪の生え際、白髪の有無まで、部分的に拡大した写真を何枚も撮影した。


「……これ、三十六歳の男の顔でやる意味あるのか? もう少しジジイになってからの方が……」

「黙れ。まだお前を七十五歳にするわけにはいかない」


 続いて、身体計測と機能検査。

 身長、体重、BMI、腹囲、体脂肪率、筋肉量。

 握力、背筋力、長座体前屈による柔軟性、閉眼での片脚立ちテスト。歩行の様子を動画で記録し、軽い運動負荷をかけてからの心拍の回復時間も計測した。

 《健全なる肉体》の後ということもあり、すべての数値は三十代半ばとして非常に良好だった。


 視力と聴力。

 裸眼視力、矯正視力、近距離のピント調節力、遠距離。聴力検査室での周波数別の聴力。

「まあ、三十六歳が三十五歳になったからって、いきなり視力が劇的に回復するとは思えんがな」

 三崎も大きな期待はしていなかったが、すべて記録に残した。


 皮膚の状態。

 美容皮膚科で使われるような機器を使い、頬や腕の水分量、弾力、色調の測定。小さな古傷やニキビ跡の状態、爪の伸び具合や毛髪の太さまでチェックする。

「一歳若返るってことは、肌がゆで卵みたいにツルツルになったりしないの?」

「テレビの怪しいサプリの広告じゃないんだから、そんな急激な変化は起きないだろ」


 最後に、大量の採血。

 今回は啓介自身が対象なので、普通に針を刺して血を抜くことができる。後日の比較用として、通常の人間ドックよりはるかに多い本数のスピッツ(採血管)に血が溜められていく。

 血球成分、肝機能、腎機能、血糖、脂質、炎症反応。男性ホルモン値、そして老化に関連すると言われている各種の生化学的指標。一部の検体は、冷凍保存して後日の詳細な比較に回す。


 三崎が血を抜きながら言った。

「あらかじめ言っておくが。この血液の数字から、お前が今『三十五歳』なのか『三十六歳』なのかを、俺がピタリと当てることはできないからな」

「最近よくネットの記事で見る、血液とか遺伝子から『身体年齢』を測るテストみたいなのはどうなんだ? 『あなたの血管年齢は○歳です』みたいなやつ」

「あれはあくまで、統計的な平均集団のデータと比べた場合の『目安』だ。お前の血管が34歳相当の柔軟性を持っていたとしても、それが『お前の戸籍年齢が34歳だ』という証明にはならない。検査のアルゴリズムによって数字も数歳は簡単にブレる」


 つまり、三十五歳と三十六歳というたった一歳の差を、一個人のデータの中で確実に判定できるような「絶対的な体内時計のメーター」は、現代医学には存在しないのだ。


 骨密度と関節のレントゲン、超音波検査も行った。

 膝も腰も肩も、問題なし。

「お前の場合、ここが一番困るんだよな」

「健康だから?」

「そう。健康だから」


 血圧、安静時心拍、簡易心電図、呼吸機能。

 すべてのデータを揃え終わるまでに、数時間が経過していた。


「よし……。これで取れるデータは全部取った」

 三崎が記録を保存し、向き直った。

 啓介は、《創世札典》を空中に呼び出し、《一年若く》のカードを開いた。


 三崎が、最終確認を行う。

「まず確認。これは『一年前のお前そのもの』へ時間を巻き戻す魔法じゃないんだな?」


 啓介がシステムへ質問する。『肯定』

『対象の【現在の身体状態】を基準として、生物学的な加齢の進行状態のみを、一歳分だけ若年側へ調整する処理です』

 三崎はさらに聞いた。「その『一歳』って何だ? 平均的な三十五歳の身体へ近づけるのか、それとも今の門倉啓介本人から、一年分の加齢変化だけを差し引くのか?」


『後者です。対象個体の現在の身体構造、遺伝的素因、体質、獲得形質その他の個体差を基準とし、加齢によって累積した変化のみを、当該個体における一暦年分に相当する量だけ若年側へ調整します』

『統計的な平均年齢個体への置換ではありません』


 三崎が頷いた。「なるほど。平均的な三十五歳に作り替えるんじゃない。今のお前本人から、一年分の老化だけを引くのか」

「元々身体が弱い人なら、若返ってもその人なりの身体のまま?」

『肯定。加齢以外に由来する個体差を、若年化のみを理由として変更することはありません』


「じゃあ、一年前の髪型や体重に戻るわけでも、昨日食べた物が消えるわけでも、アカネと過ごした記憶が消えるわけでもない」

『肯定。時間遡行ではありません』


 三崎がさらに踏み込む。「風邪、交通事故の怪我、それから老化で摩耗した関節は?」

『加齢と無関係な急性感染症や外傷・欠損は原則として維持されます。加齢の進行に直接由来する生理的な組織の摩耗や変化として評価される範囲は、若年化の対象となり得ます』


「例えば十年前から壊れてる膝を一歳若返らせても?」

「九年分壊れてる膝になるだけ、ってことか」「概ねそういう理解でいいんだろうな」

 《古傷の修復》が損傷そのものを治すカードで、《一年若く》は加齢によって積み上がった分だけを差し引くカード。その役割の違いも、ここではっきりした。


「よし。俺からの質問は以上だ」

 三崎は立ち上がり、啓介の前に立った。

「門倉啓介。三十六歳。……一歳分の生物学的若年化の魔法的処理を、自分の自由な意思で受けることに同意するか?」


 啓介は、まっすぐに三崎を見て頷いた。

「同意する」


 システム表示が流れる。

『対象本人からの明確な同意を確認しました』


 冗談でも比喩でもない、正式な人体実験の開始だ。


 啓介は、マナを引き出した。

 生命3。知識1。境界1。

 五つの光の球が、啓介の周囲に浮かび上がる。生命の濃い緑、知識の青白、境界の薄紫。


「《一年若く》」


 啓介が宣言した瞬間、五つの光が一つに融合し、啓介の身体全体を優しく包み込んだ。

 《健全なる肉体》を使った時のように、悪い部分が強制的にスキャンされて消えていくような明確な感覚はなかった。

 熱くもない。痛くもない。

 ただ、身体の芯の奥底が、一瞬だけ『キュッ』と軽くゼンマイを巻き直されたような、奇妙で微かな感覚があっただけだ。


 数秒後、光が完全に霧散した。


『《一年若く》の適用を完了しました』

『対象の生物学的加齢状態を、一暦年分若年側へ調整しました』

『記憶、人格、技能、および暦年齢への変更はありません』

『加齢状態の調整は、術式終了時点で完了しています。現在の身体状態:安定』


 三崎がすぐ確認した。「ここから数日かけて若返るんじゃなくて、もう処理は終わってるんだな?」

『肯定』

「よし。なら、今から取るのは術後ゼロ時間のデータだ」


「一歳差を今すぐ証明できるとは思ってない。まず急性の異常が出ていないか、それと術後直後の基準値を残す」

 三崎が緊張した声で尋ねる。「……で、何か変わったか?」


 啓介は、首を回し、肩を動かし、膝を曲げ、顔の皮膚を触り、深呼吸をした。

「…………分からん」


 三崎が手鏡を差し出した。

 啓介は、鏡に映った自分の顔をジッと見た。

 三崎も横から顔を覗き込んでくる。


「……俺だな」

「お前だな」

「一歳、若くなったか?」

「分からん」

「俺も全く分からん」


 三十六歳が三十五歳になったところで、鏡を見ただけで「うわっ若返った!」と気づける人間などいないのだ。


 すぐに、使用直後の写真撮影が始まった。

 直前と全く同じ照明、同じカメラ、同じ角度。

 三崎は、パソコンのモニター上に、二枚の画像を横並びにして表示した。


 拡大。目尻。肌のキメ。輪郭。額の生え際。

「……」

「……」


 さらに、画像編集ソフトで二つの顔を半透明にして重ね合わせる。

 ほぼ、完全に一致していた。

 ミリ単位の微妙な陰影の差や、肌のトーンの違いはある。

 しかし、それは「表情筋のわずかな緩み」「呼吸による姿勢の変化」「光の反射角」「カメラのピントの数ミリの誤差」で、すべて論理的に説明できてしまう範囲だった。


「……分からないな」

「ああ、全く分からない」


 体重を再測定する。

 使用前とほぼ同じ。数十グラムのわずかな差はあるが、呼気による水分の蒸発や、トイレに行けば簡単に変わる程度の測定誤差だ。

 身長、同じ。腹囲、同じ。体脂肪率も、機械の測定誤差の範囲内でピタリと同じだった。


 握力計を握る。

「もし若返ったなら、筋力もピークに戻って少し強くなってるんじゃないか?」

 啓介が力一杯握る。

 数値は、使用前とほぼ同じ。

 もう一度握る。むしろ、今度は使用前より少しだけ数値が高かった。

「おおっ、若返りの効果か!?」

「二回目でコツを掴んで力を入れやすくなっただけだろ」と三崎がバッサリ切り捨てる。

 三回目。今度は使用前より少し数値が落ちた。

「疲れたな」

「一歳分の若返りの検証に、握力測定はアナログすぎて使えんな」


 視力と聴力の再検査。

 変化なし。あるいは、検査のたびに生じる微小なブレの範囲。

「三十五歳と三十六歳で、一日のうちに視力や聴力が劇的に変わると思う方がおかしい」


 皮膚の状態。

 肌の水分量、弾力。細部写真の比較。

 これも、わずかな変動はあるものの、エアコンの効いた室内での測定誤差の範囲内だった。

 啓介が自分の頬をペチペチと触りながら言う。

「……なんか、少し肌が若返ってツルツルになった気がしないでもない……」

「それは今、お前が『俺は若返りの魔法を使った』と知っているから、そう思い込みたいだけのプラセボ効果(偽薬効果)だ。数値は変わってない」


 再度、採血を行う。

 同じ項目を検査機にかける。

 しかし、三崎は結果が出る前から釘を刺した。

「いいか。血液の数値が少し動いていたとしても、それだけで『一歳若返った証明』にはならないからな。食事、睡眠、水分の摂取量、採血した時刻、日内変動。そんなものでホルモン値や血球の数値はいくらでも変わる」


 すべての即時検査が終わり、三崎が結果をまとめた。


 システム判定:成功(一歳若年化完了)。

 啓介の自覚症状:変化不明(プラセボの可能性あり)。

 外見の比較:変化不明。

 当日の医学検査:一歳分の若年化を、客観的に独立して識別できる明確な変化なし。


「つまり、現時点での結論はこうだ」

 三崎がペンを置いた。

「魔法のシステムは、『お前は一歳若くなった』と明確に言っている。でも、俺たち現代医学の検査手法では、その一歳分の差を、たった一人の個人の比較データから明確に証明することはできなかった」


 啓介が少し肩を落とした。

「じゃあ、この実験は失敗ってことか?」


「違う」三崎は即座に否定した。

「『一歳分の変化は、現在の検査方法では、この一人の健康な個体から明確に検出・証明できなかった』という、非常に重要な事実データが出た。これ自体が、立派な成功だ」


 なぜ変化が分からなかったのか。理由は三つあると三崎は言う。

 第一に、一歳という差が小さすぎること。三十五歳と三十六歳の健康な成人では、元々の身体の構造的な差が極めて小さい。

 第二に、血液や体重、筋力といった数値の「日々の個人内変動」の方が、一歳分の老化による変化よりもはるかに大きいこと。

 第三に、啓介が事前に《健全なる肉体》を使って、「三十六歳として極めて良好な状態」になっていたこと。悪い部分が少ないため、若返りによって劇的に改善するマイナス要素が残っていなかったのだ。


 数日後。

 その間も啓介は月曜日から普通に会社へ出勤した。佐伯も課長も、誰一人として啓介の変化に気づかない。本人も毎朝鏡を見たが、やはり何も分からなかった。

 帰宅後はアカネの健康ログをつけ、山の監視映像も確認した。《自由気ままな猫》が一度カメラを横切った以外、特に事件もない。世界でたぶん初めて一歳若返った男の一週間は、驚くほど普通に過ぎていった。


 その途中、三崎から追加検査結果の暗号化メールも届いた。評価は当日と変わらない。

 大きな異常なし。若年側へ動いたように見える数値も、変わらないものも、逆方向へ微小に動いたものもあった。

 そのすべてが、通常の生活に伴う個人内変動として説明可能な範囲に収まっていた。

 医学的には、一歳分の若年化を独立して証明できない。

 ただし、重大な副作用を示す異常も見つからなかった。


 術後一週間。

 啓介は再び三崎の診察を受け、体調異常なし、体重、血圧、血液データ、生活状況すべて問題なしと確認された。

「少なくとも一週間で、明らかな急性副作用は出ていない」

 一ヶ月後と三ヶ月後にも、同じ項目を中心とした追跡検査を実施することが決まった。


 ここで、啓介はふと自分の「年齢」の扱いについて整理した。

 戸籍上は、36歳。

 会社の書類上も、36歳。

 運転免許証も、保険証も、36歳。

 誕生日が変わったわけでも、過去の時間が消えたわけでもない。


 だが、この身体だけは、システム上『術前より一暦年分だけ累積加齢が少ない状態』になっている。

「……すげえややこしいな」

「便宜上は三十五歳相当って言えるが、平均的な三十五歳の身体になったわけじゃないからな」

 現状は、それくらい微細で、誰にも気づかれない変化だった。


 一週間後の検査が終わった後の、雑談でのことだった。


「……多分さ」啓介が言った。

「なんだ」

「これ、一歳だから検査に出なくて分からないんじゃないか?」

「まあ、そうだろうな」

「例えば、この《一年若く》を毎日一回連続で使って、五年分くらい年齢を戻せば、さすがに顔とか血液検査の数値でも、違いがはっきり分かるんじゃないか?」


 今の啓介は、術前より一歳分だけ加齢が少ない。便宜上は三十五歳相当と呼べる。

 さらに五回、同じ効果が安全に累積すると仮定すれば、術前より六歳分若い――おおよそ三十歳相当の加齢状態になる。

 三崎は、啓介の顔をじっと見て、少し考え込んだ。

「うーん……」

「何だよ」

「三十五歳のお前が三十歳になっても、正直、ぱっと見じゃ他人には分からない気がするぞ」


 二人とも三十代半ばだからこそ、実感がある。

 五年前の自分の写真を思い浮かべてみる。

 髪型が少し違う。体重が少し違う。着ている服が違う。生活習慣が違う。

 加齢そのものよりも、そうした後天的な生活の違いによる見た目の変化の方が、圧倒的に大きい。

「健康な三十歳と三十五歳なんて、年齢の差より個人差の方がはるかに大きいからな」

「確かに……俺も五年前と今で、劇的に顔が老けたかと言われると、そんなことはない気がするな」


 啓介がさらに提案する。

「じゃあ、十歳分戻したらどうだ?」

 三崎が呆れた顔をした。

「お前、今は便宜上三十五歳相当だろ」

「うん」

「そこからさらに十歳分戻したら、見た目も身体も二十五歳前後まで若い加齢状態になる可能性があるぞ」


 一拍置いて。

「……さすがに、二十五歳なら周りも気づくか?」

「十年前の写真とお前を並べれば、顔の張りとか全体の雰囲気で、気づかれる可能性は極めて高いな」


 しかし、それは「証明」の話とは全く別の問題を引き起こす。

 三崎が深刻な顔で指摘した。

「というか、お前が急に二十五歳の顔になったら、日常生活をどうやって誤魔化すんだ?」

「……だよなー」


 三十六歳の中堅社員である啓介が、短期間のうちに二十五歳の若々しい顔と身体になる。

 会社の同僚は絶対に不審に思う。友人や家族も驚く。運転免許証の写真と顔が一致しなくなり、身分証明のたびにトラブルになるかもしれない。

 若返るということは、それ自体が社会的なリスクなのだ。


「しかも、十歳戻すってことは、あの魔法を十日間連続で使うことになるんだぞ」

 現在の啓介の1日6マナの基盤では、《一年若く》は「一日一回」使うのがほぼ限界だ。

(生命3、知識1、境界1。残るのは物資1のみ)。

 それを十日間、毎日ほぼ全マナを若返りのためだけに全ツッパし続けることになる。


「そんな馬鹿な実験、今やる気か?」

「やらないよ」

 啓介は即答した。


 連続使用の安全性は、全く未確認なのだ。

 一回使って一週間、急性異常が出なかった。ただそれだけだ。

 二回目、三回目、十回目と重ね掛けした時に、細胞にどんな負荷がかかり、何が起こるか全く分からない。

「一回目の三ヶ月追跡すら終わってないのに、二回目へ行くような真似は絶対に許さんからな」

「分かってるって」

 現在、《一年若く》の連続使用による極端な若返り実験は、無期限で凍結となった。


 啓介は自分の両手を見つめた。

 元々《健全なる肉体》によって健康を取り戻していた自分が、そこから一歳分だけ加齢を巻き戻した。

「……正直、今の俺が一年若くなっても、実生活ではあんまり意味ないな」

「今はな」と三崎が返した。

 啓介が顔を上げる。「今は?」


「お前が四十年後も、この魔法を同じように安全に使えるなら話は変わる。今日一回だけなら、七十六歳の時に七十五歳相当になるだけだ。だが毎年一回、四十年間使えたなら……」

 啓介は計算し、黙った。暦年齢だけが増え、身体の累積加齢を三十代半ば付近へ留め続けられる可能性がある。

「……今日の一回って、今じゃなくて、何十年後の人生に効いてくるカードなのか」

「安全に何十回も使えるなら、だ。今はそこを飛ばすな」

 それとは別に、高齢者なら一歳分の変化を観測しやすい可能性はある。ただし、七十歳の膝が一回で二十歳へ戻るわけではない。

 長年積み重なった損傷なら、一歳分若返っても大半は残る。《古傷の修復》とは根本的に違う。


 数年、十年単位まで安全に累積できるなら話は完全に変わる。

 しかし、それを確認するために今連続使用するという選択肢はない。


 三崎が、強い警戒心を持って啓介を睨んだ。

「言っておくが。『じゃあ手頃な老人を一人連れてきて、若返りの実験台にしよう』とか考えるなよ?」

 啓介は苦笑した。

「さすがにまだやる気はないぞ。バレたらヤバいし、商売にするにしても、もっと安定してからだろ?」

「……そうだよなぁ」と三崎が頷きかけ。

 二人とも、ピタリと黙った。


 数秒後。

 三崎が低く凄みのある声で言った。

「……待て」

「何?」

「お前、今さらっと『仮に商売にするにしても』って言ったな?」

「言葉の綾だよ、可能性の話だ」

「その可能性が、世界の経済と倫理を根底からひっくり返すレベルなんだよ!」


 一歳若返る。

 もしそれが安全に反復できるなら。毎年誕生日に一回使えば、理論上は「不老」のまま身体年齢を維持できる。

 さらに複数回使えば、二十代まで「若年化」できる可能性すらあるのだ。

「不老不死……?」

「そこまで大げさなことは言うな。まだ一回しか使ってないし、一ヶ月すら経ってないんだぞ」


 だが、可能性としては否定しきれない。


 現在の啓介のマナ基盤では、《一年若く》を一回使うだけでほぼすべてのリソースを使い切る。

 一日に治療できるのは、たった「一人」。

 しかも、境界1、知識1、生命3という重い色拘束マナが必要だ。

「商売にする以前に、お前の魔法の生産能力が一日一回じゃ、到底医療サービスとして成立しないな」

「しかも俺本人が術者として絶対に出向かなきゃいけないしな」


 しかし、もし一日一人限定で、完全に安全な若返り医療を提供できるとしたら。

「……いくら取れると思う?」

「値段を考えるな、俗物が」

「いや、市場調査としての仮説だよ」

「今するな。倫理観が壊れる」


 だが、二人とも薄々は気づいていた。数万円や数百万円の話では済まない。

 一歳、確実に、副作用なしで若返る。

 もしそれが本当だと証明されれば、世界の富豪や権力者が全財産を積んで殺到するだろう。


 そして、その事実は絶対に秘匿不可能だ。

 一人だけなら隠せる。しかし商売として継続すれば、患者、その家族、前後の検査を行う医師、動く大金、税務署、口コミ、比較写真、行政、製薬会社、そして国家。必ず誰かに異常性を気づかれる。

「十年若返った老人を何十人も作ったら、現代社会の監視網の中で隠し通せるわけがない」

「だよな」

 だから、今は金儲けのことは考えないことにした。


 そもそも、倫理的な問題が重すぎる。誰に使うのか、何回までか、金持ちだけか、社会保障や相続はどうなるのか。

 そんな話をしていて、啓介はふと気づいた。「……三崎は?」

「何が」「お前も同い年だろ。《一年若く》、自分にも使いたいと思わないのか?」

 三崎は珍しく即答しなかった。しばらく黙ってから、「……欲しくないと言えば、嘘になる」と認めた。

「でも今は絶対に使わん。第一例のお前の三ヶ月追跡すら終わってない。それに俺自身、一回使ったら『もう一回くらい』と思わない保証がない」


 啓介も黙った。三崎は医者だから欲しくないのではない。欲しいと分かっているから、自分にもブレーキをかけているのだ。

「だから、お前は反復使用禁止。俺も使用禁止。それでいい」「……ああ」

 そして『不老』という言葉そのものも、まだ机上の仮説にすぎない。

 啓介が聞く。「俺が毎年一回、自分に使い続ければ、本当に老いなくなるのか?」

「知らん。一歳若返ることと、永遠にノーリスクで使い続けられることは別問題だ」

 効果の累積、下限年齢、長期副作用、生殖能力、免疫、神経と若い身体の整合性。何十回目でも同じように効くか。全部、不明。

 今分かっているのは、一回使った術式が正常終了し、一週間の急性異常がないということだけだ。

 それ以上は、まだ何も証明されていない。


 啓介は念のため、システムにも確認した。

「《一年若く》は、翌日もう一度使えば、さらに追加で一歳分の加齢を差し引けるのか?」

『理論上、累積適用が可能です』

「理論上」三崎が嫌そうに呟いた。

『ただし、長期的または反復的な使用に関する安全実績は存在しません』

「はい、終了。二回目は禁止」

 啓介も反論しなかった。


 五年、十年若返るという話は、完全に机上だけの空論となった。

 三崎は記録の最後に、赤字で太く書き込んだ。

【反復使用禁止】


「少なくとも一回目の検証で、一ヶ月後、三ヶ月後の追跡調査が完了するまでは、絶対にな」


 一ヶ月後の検査で確認すべき項目は山ほどある。

 一般血液検査、ホルモン値、体組成、心肺機能、皮膚、毛髪、視力、聴力、身体機能、異常症状の有無。

 さらに、術式によって差し引かれた一歳分の加齢状態が、その後も維持されているかを見る。

 もし術式直後だけ若年側へ動き、短期間で元の加齢状態へ戻るなら、意味はまるで違う。


 啓介がシステムに確認した。

「若返った後は、俺の身体はどうなるんだ?」

『術式適用後の身体状態を基準として、通常の時間経過に伴う加齢(老化)が再開します』


 つまり今日、啓介は術前より一歳分だけ加齢の少ない身体になった。

 そこからは普通に時間が進むため、一年後には再び一歳分老いる。

「だから毎年一回使えれば、理論上は加齢分を相殺し続けられる、という話になるのか」

 ただし、それを実際に続けてよいという意味ではない。


 その日の夜。

 マンションの玄関を開けると、留守番していたアカネがすぐに飛んできて、啓介の肩へ着地した。

 アカネは、啓介の匂いを嗅ぎ、顔をじっと見た。

 特に変わった反応はない。


「おい、アカネ。俺、一歳若くなったんだけど。分かるか?」

「あぎゃ?」

 全く伝わっていない。


 啓介は顔を近づけた。

「三十五歳だぞ。ピチピチだぞ」

 アカネは、面倒くさそうに鼻先で啓介の頬をグイッと押し返した。それだけだった。

「……お前にも分からんか」


 あるいは、分かっていて『どうでもいい』と思っているのかもしれない。

 アカネにとって啓介は啓介だ。一歳分若かろうが、名前を呼び、家へ連れていき、一緒に暮らす相手であることに変わりはない。その日使わずに残した《小さな工房箱》由来の物資1も、原因切り分けを優先して温存したまま、午前零時の日次更新で静かに失効した。


 啓介はノートを開き、本日の記録をまとめた。


 《一年若く・自己第一例》

 対象:門倉啓介

 暦年齢:36歳

 術式適用回数:1回

 累積加齢状態:術前より一暦年分若年側(便宜上、約35歳相当。平均的35歳個体への置換を意味しない)


 システム判定:正常適用。

 自覚症状:変化なし。

 外見:明確な変化なし。

 即時医学検査:一歳分の若年化を独立して識別できず。

 急性副作用:現時点なし。

 反復使用:禁止。

 次回:一ヶ月追跡検査。


 記録を書き終え、啓介はスマートフォンの中の、使用前と使用後の自分の顔写真をもう一度横に並べてみた。

 どちらが前か、ファイル名のラベルを隠されたら自分でも絶対に見分けられない。

 試しに手で隠して、予想してみる。

 右。いや、左か。

 しばらく見比べて、答えを見る。

「……外れた。駄目じゃん」


 啓介はベッドに横になり、アカネがポスンと膝の上に乗ってきた。

 啓介はアカネの硬い鱗の頭を撫でながら、ぼんやりと考えた。


 時間を止める魔法。不治の病を治す魔法。未来を予知する魔法。

 それらの派手な奇跡と比べれば、「一歳若くなる」という効果は、文字面だけ見ればとんでもなく強力で、人類が長年求め続けてきた究極の魔法に聞こえる。

 実際、社会を崩壊させかねない恐ろしい力だ。


 しかし。

 三十六歳の健康な男から、一年分の加齢だけを差し引いたところで。

 肩は痛くないまま。腰も痛くないまま。顔もほぼ同じ。体重も同じ。

 明日会社へ行っても、佐伯も課長も、絶対に誰も気づかない。

 使った本人である啓介すら、何が変わったのか分からない。


 ノートの最後。

 《結論》

『確かに一歳分だけ若年側へ動いたらしい。ただし、一歳くらいでは現実に何も分からない』


 啓介は少し考えて、その下へ追記した。

『※五年・十年単位の連続使用なら、判別可能性は上がると思われる。

 ※ただし、現在は絶対に実施しない』


 膝の上で丸くなったアカネが、「あぎゃ……」と眠そうな声を出した。

 啓介は、一年分だけ加齢を巻き戻した身体で、三十六歳としての月曜日を迎えることになった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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