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第19話 小竜の家を守り巣にするには境界が足りないらしい

 《一年若く》の術後一週間検査を終えてから、さらに五日。金曜日の夜。

 会社から帰宅し、夕食と簡単な家事を済ませた啓介は、リビングのローテーブルにノートを広げていた。


 見出しには、『《アカネ健康観察ログ》』とある。

 先日、三崎の健診センターでアカネの初回検査を行った際に渡されたものだ。啓介はこれを、仕事の進捗管理と同じくらい真面目に記録し続けていた。


『月曜

 食事:なし

 飲水:マンションの水皿から少量

 排泄:なし

 飛行:通常

 翼・鱗:異常なし

 行動:帰宅時、玄関まで飛んできて出迎え

 睡眠:リビングの段ボール仮住居』


『火曜

 食事:食パンの白い部分をちぎったもの、ごく少量

 排泄:翌朝確認

 行動:異常なし

 睡眠:啓介の寝具(足元)』


『水曜

 食事:なし

 排泄:なし

 行動:俺の工具箱の中に勝手に侵入。ネジを持ち去ろうとしたのを一回阻止。

 睡眠:啓介の寝具(首元)』


『木曜

 睡眠:啓介の寝具(腹の上)』


『金曜

 睡眠:啓介の寝具(枕の隣)』


「……おい」

 啓介は、ノートの記録を見下ろしたまま、低い声を出した。

「お前、青梅の山に立派な自分の家があるし、この部屋にも仮の寝床があるよな?」


「あぎゃ?」

 ノートの向こう側、段ボールの家の屋根に止まっていたアカネが、不思議そうに首を傾げた。


「なんで火曜日からずっと、俺のベッドで、しかも毎日場所を移動しながら寝てんだ」

 アカネは聞こえないふりをして、短い前脚で自分の鼻先をペロペロと舐め始めた。


 啓介はため息をつきながら、火曜日の記録にある『排泄:翌朝確認』の項目に目をやった。


 先日のエコー検査で消化管の存在が確認されて以来、啓介が最も警戒していたタスクだ。

 月曜日にパンを少しだけかじった翌朝。啓介は、段ボールの仮住居の隅に、小さくコロンとした、乾いた固形物が落ちているのを発見した。

 匂いはほとんどない。鳥類のそれに近い形状だった。


 啓介は、ティッシュを何重にも重ねてそれを慎重に拾い上げ、じっと観察した。

「……あった」

 妙な達成感が湧き上がってきた。

 部屋の隅から、アカネが「あぎゃ?」と不思議そうな顔で啓介を見ていた。


「いや、お前は何も悪くない。むしろ、ちゃんと内臓が機能してるってことだ。正常で健康な証拠だ」

 啓介は、その場でスマートフォンを取り出し、三崎へ暗号化メールを送信した。


『報告。アカネ。摂食の翌朝に、二回目の排泄を確認した。形状・色調とも、前回記録したものと大きな差はなし。健康状態は良好と思われる』


 すぐに、既読がついて返信が来た。

『了解。記録しておく』

 さらに数秒後。

『写真は送ってくるなよ』


 啓介は画面に向かって苦笑した。

「……まだ送ってないだろ。信用ないな」

(ただし、今後三崎が寄生虫等の本格的な検査を行うため、正式な検体採取容器を渡してくる予定になっている。今日のところはトイレに流して廃棄した)


 啓介は、健康ログのノートを閉じ、別のノートを開いた。

 見出しは、『《アカネ単独夜間運用・安全要件》』。


 ここ数日、啓介の頭の中を占めているのは、この問題だった。

 先日の山林泊では、啓介は山林にテントを張り、アカネと一緒に夜を明かした。

 その結果、「管理者が同席した状態での夜間利用」は成功したが、「アカネを一匹だけで山に泊まらせる(単独夜間運用)」については、啓介自身の判断で『不合格』とした。


 その最大の理由は、先日三崎の検査で明確に突きつけられた、生物としての脆弱性だ。


 ・呼吸を阻害されれば、普通に窒息死する。

 ・痛覚があり、痛みを感じる。

 ・物理的、魔法的な外傷を受ける。

 ・自然治癒力はあるが、即座の自動完全再生能力はない。

 ・重傷を負えば、そのまま死亡カードデータのロストする可能性がある。

 ・バインダーへ「送還」しても、怪我は治らない。傷ついたまま戻ってくるだけだ。


 啓介には、《召喚体修繕》というアカネにも使える回復カードがある。生命1を支払えば、《創世札典》が記録している召喚体本来の身体設計を参照し、外傷による損傷を修復できる。

 だが。

「俺がマンションにいて、アカネが山の家で怪我をした場合。遠隔カメラの映像でそれに気づけたとしても、すぐに《召喚体修繕》をかけてやることはできない」


 魔法の射程外だ。現地へ車を飛ばすのに、最低でも一時間はかかる。その間に致命傷になれば、どうしようもない。

 啓介は、赤ペンでノートに強く線を引いた。


「『治せるカードがあるから大丈夫』じゃない。怪我や事故が、アカネの身体へ『到達する前』に、必ず物理的に止める仕組みが必要なんだ」


 現在、《アカネの家》のカードが持っているシステム上の防御機能を確認する。

【巣守り】による、小型の野生動物が内扉を開けられないようにする効果。

【微気候】による、通常の雨風や急激ではない温度変化の軽減。

【帰巣】による、土地内で迷わず家の方向が分かる補助機能。


「……こうして整理して見ると、魔法の力でカバーできてる範囲なんて、たかが知れてるな」


 猫やタヌキ程度の小動物が「扉を開けられない」だけで、小屋ごと体当たりされたら終わりだ。

 人間が悪意を持って侵入してくれば無力。

 通信用のルーターや監視カメラのバッテリーが切れた時の代替手段もない。

 何より、「啓介がいない時に、危険を察知して自動的に安全な場所へ緊急退避する」という機能が決定的に欠落している。


「監視カメラや魔法のバリアだけじゃ足りない。普通の、物理的な『設備』としての防御ラインが必要だ」


 啓介は、根本的な疑問にぶつかった。

 防犯の要となる魔法の結界や、空間の遮断。それらを生み出す「境界マナ」とは、一体何なのか。

 啓介はずっと、境界属性=光る魔法のバリア、空間の隔離、転移ゲート、といったファンタジーなイメージを持っていた。

 しかし、《アカネの家》は魔法の結界を張っているわけでもないのに、作成時に「境界マナを2」も消費し、実際に【巣守り】という境界的な性質を発揮している。


 啓介は《創世札典》を呼び出し、システムに質問した。


「システム。施設の『境界属性』を成立させるためには、魔法の力で作った『結界』そのものが物理的に存在している必要があるのか?」


 回答が空中に浮かぶ。

『否定』

 啓介は少し驚いた。「違うのか?」


『当システムにおける【境界】とは、二つ以上の領域、状態、権利、役割、または帰属を明確に区別し、その区別を継続して機能させる性質全般を指します』


 さらに詳細が表示される。

『物理的境界(壁、扉、柵、堀など)』

『制度的境界(法律、ルール、運用規定)』

『権利上の境界(所有権の及ぶ範囲、立入禁止区域)』

『認識上の境界(「ここは安全だ」という対象者の心理的区別)』

『魔法的境界(不可視の障壁、空間隔離)』

『これらはいずれも、システム上の境界属性を構成する正当な要素となり得ます』


 啓介のシステムエンジニアとしての思考回路が、一気に回転を始めた。

「……つまり。ただの金属の『柵』でも、境界として評価されるのか?」


『対象の用途に適合し、実際に侵入や動線を制限する境界として機能している場合は、肯定されます』


 啓介はペンを置いた。

「魔法で光る結界が張れないなら。先に俺の手で、金属と樹脂で物理的な結界(境界)を作ってやればいいんだ」


 魔法使いの発想ではない。

 土地を所有し、管理する現実の地主の発想だった。


 さっそく、保護区画の設計を開始する。

 対象となる青梅の山林は、約四十坪。

 山林の敷地全体を、強固な金属フェンスでぐるりと囲い込む案も一応検討した。


 しかし、即座に却下した。

 費用が高すぎる。素人の手作業では工事量が非現実的だ。斜面が多く、雨水の排水ルートを遮る可能性がある。野生動物の本来の動線を完全に分断してしまう。近隣から見ても、いきなり山をフェンスで囲い始めるのは異様すぎて目立つ。

 そして何より、「アカネが夜寝る時の安全を確保する」という目的に対して、四十坪全体を要塞化するのは明らかに過剰オーバーエンジニアリングだった。


「目的は絶対防御の要塞化じゃない。必要なのは、アカネの家の周辺数メートルだけに、『ここから内側は特別な管理区画だぞ』と物理的に明示して、動物や人間が無意識に踏み込んでくるのを一段階目で止めることだ」


 啓介は、《アカネの家》の周囲だけを囲む小規模な保護区画の設備リストを作成した。


 ・樹脂被覆されたメッシュフェンス(サビに強く、見た目が重すぎない)。

 ・角や鋭利な端部がないこと。アカネが飛んだ時に翼を引っかけにくい構造。

 ・高さは、人間が跨ぐには面倒だが、本気で越えようと思えば越えられる程度の「低すぎず高すぎない」サイズ。

 ・啓介が点検に入るための、簡易的な門扉(ラッチ式の鍵付き)。

 ・門扉に掛ける「私有地・立入禁止」の標準的な警告看板。

 ・監視カメラの支柱を、このフェンスの『内側』に配置し直す。

 ・電源と通信の配線を、動物に齧られないように保護管(PF管)へ収める。

 ・地面に、足を引っかけやすい危険なワイヤー(トラップ)などは絶対に張らない。捕獲用の罠や、電気柵、有刺鉄線も使用しない。


 イノシシやクマのような大型獣が本気で突進してくれば、こんなフェンスは一撃でなぎ倒されるだろう。

 悪意を持った人間相手にも、絶対の防御にはならない。


 しかし、「ここから先は管理された安全区域である」という境界を、視覚的・物理的に世界へ提示するという目的には、十分に使える。


 もう一つ、重要な動線の整理があった。

 啓介はまず、《自由気ままな猫》のカードを開いて、土地との関連づけを確認した。


『【管理地利用実績:継続中】。直近七日間における複数回の自主的利用を確認。※現在位置および詳細な移動履歴は記録・開示されません』

「そこは相変わらず追跡させてくれないか」。そこで啓介は監視映像を開き、実際に映った時刻と位置から猫の通るルートを割り出して、《アカネの家》への接近方向と照合した。


「あいつをこの山から完全に追い出すための柵じゃないからな。あくまで、アカネの寝る区域を切り分けるだけだ」

 猫は、フェンスの外側なら今まで通り通ることができる。


 これは、以前啓介が決めた「アカネの家は守るが、山全体をアカネ一匹だけの排他的な縄張りにはしない」という方針を、物理的な設備として落とし込んだものだった。


 土曜日の朝。

 天候は晴れ。風も穏やかだ。

 啓介はレンタカーに大量の荷物を積み込んだ。


 メッシュフェンスの部材。何本もの支柱。簡易門扉。先端を保護するゴムキャップ。大量の耐候性結束バンド。配線用の保護管。看板。

 《小さな工房箱》の基本工具。

 そして、今回の防犯システムの要となる、「主系統から完全に独立した非常信号機材(乾電池式)」。


 今日は宿泊はしない。日帰りの設置工事と、アカネの訓練だけだ。

 助手席のキャリーケースの中で、アカネが外の景色を見ようと背伸びをしている。


 山林へ到着し、現況記録用のカメラを回して異常がないことを確認。

 撮影を終了し、レンズカバーをつけてから、キャリーケースの扉を開けた。


「アカネ。行っていいぞ」

「あぎゃ!」


 名前への反応は、すでに完璧だった。

 アカネは真っ直ぐに飛んで《アカネの家》へ向かい、屋根に一度着地してから、内扉を開けて中へ入った。

 宝物棚のプルタブ、小石、ボタン。そして「アカネ」と書かれた白いプラスチック札。

 すべてが残っていることを確認し、満足そうに鼻先でツンと叩いた。


 その後、啓介の肩へパタパタと戻ってきた。

「まず家財の安全確認か。立派な家主だな」

「あぎゃ!」


 そこから、啓介の孤独な土木作業が始まった。

 支柱を立てる位置を決め、メジャーを伸ばす。

 シュルルルッ、と伸びるメジャーの黄色いテープに、アカネが目を輝かせて飛びついてきた。

「おい。これは引っ張って遊ぶ玩具じゃない」


 次に、フェンスを固定するための結束バンドの袋を開ける。

 アカネが、黒いバンドを一本ヒョイッと咥えて、屋根の上へ持っていこうとする。

「こら。それも宝物じゃない。返せ」

「あぎゃあ」


 《小さな工房箱》の工具箱を開けたまま作業していると、いつの間にかアカネが箱の中に頭から突っ込み、ドライバーの柄をカミカミしている。

「工具箱の中にも住むな。邪魔だ」


 まったく作業が進まない。

 啓介は一度工具を置き、アカネを両手で包み込むようにして持ち上げ、目の高さに合わせた。


 そして、自分の背後にある《アカネの家》を指差した。

「アカネ。ここ、お前の家だ」

 アカネは、家を見た。

「あぎゃ」


 次に、啓介は今まさに設置しようとしている、家の周囲を囲むフェンスの骨組みをぐるりと指差した。

「これから、このフェンスの内側を、お前の『安全な場所』にする」


 アカネが言葉の細かい意味まで理解しているかは分からない。

 だが、啓介の真剣なトーンは伝わっているようだった。


「外に遊びに出るな、って意味じゃないぞ。昼間は好きに飛べばいい。……でも、危ない時、俺がいない時に何か怖いことが起きたら、必ずこの内側へ戻ってくるんだ」


 囲い込んで自由を奪うための檻ではない。

 ここは、逃げ込むための『絶対の避難場所』なのだと教える。


 数時間の格闘の末、物理的な保護区画が完成した。

 《アカネの家》を中心にして、周囲をぐるりと囲むメッシュフェンス。

 人間が点検するために入りやすいよう、正面には開閉式の簡易門扉を取り付けた。

 フェンスの上部は完全に開放されているため、アカネは翼を使って自由に出入りできる。

 猫も、本気でジャンプしてよじ登ろうと思えば越えられる程度の高さだ。


 絶対的な防御力を持つ檻ではない。

 それでも、このフェンスがあることで、野生動物が一直線に家の入口へ突進してくることを阻害できる。

 人間に対しても、「ここから内側は意図的に管理されている区画だ」という心理的な抑止力を与えられる。

 監視カメラの支柱や、電源ケーブルもすべてこのフェンスの内側に保護され、安全性は格段に上がった。

 そして何より、アカネ自身に対して「ここから先が安全区域だ」と視覚的に教え込むことができる。


 設置が完了し、啓介が汗を拭っていると、《創世札典》のシステム表示が視界の端に浮かび上がった。


『《アカネの家》周辺に、継続的な物理的境界の成立を確認しました』

『用途:居住者の保護区域の明示、および第三者・外部生物との動線分離』

『当該施設の【境界属性実績】として追加評価します』


 啓介は小さく息を吐いた。

「……本当に、魔法の光る壁じゃなくても、ただのホームセンターの樹脂フェンスで評価されるんだな」


 ここで、魔法システムのルールがより具体的に見えてきた。

 ただ単に「物を置いた」という事実だけでは評価されない。それが啓介の意図した用途に適合し、現実に「境界として機能している」からこそ、魔法の実績として加算されたのだ。


 啓介の頭の中に、いつもの「システムの抜け道」を探す思考がよぎった。

「……じゃあ、システム。このフェンスの周りに、全く同じフェンスを二重、三重、百重に重ねて設置しまくれば、境界実績も百倍になって評価されるのか?」


 回答。

『否定』

 返答は一瞬だった。

『同一の目的を持つ過剰で冗長な境界構造は、その実効性の範囲を超えて重複して評価されることはありません』


「……だよな」

 ゲームのバグ技のように、ただアイテムを無限増殖させてポイントを稼ぐような不正は許されない。この世界のシステムは、極めて「現実の実態」に即したシビアな判定を行っている。


 物理的な設備が完成したところで、啓介は次のステップ、『非常信号の訓練』へと移った。


 今回の防犯設計で、啓介が最も重視したのがこれだ。

 現在の監視システム(カメラとスピーカー)は、「モバイル回線のルーター」「大容量蓄電池の電源」「啓介自身のスマートフォン操作」という、複数の複雑なシステムに依存している。

 もし、山に落雷があってルーターが壊れたら。ケーブルが断線して電源が落ちたら。啓介のスマホが圏外になったら。

 すべての遠隔指示が不可能になる。


 だから、啓介は魔法ではなく、極めてアナログで独立した『小型の非常用ブザー装置』を用意した。

 主電源(蓄電池)から電力を取らず、独立した乾電池で動く単機能の装置だ。


 条件設定はシンプル。

【通常時】無音・消灯。

【非常時(主電源の喪失を検知した時、または啓介が手動の非常スイッチを入れた時)】

『ピピッ、ピピッ』という短い固有の電子音を鳴らし、同時に赤い小型LEDを点滅させる。


 森の外の公道まで響き渡るような大音量の防犯ベルではない。人間に救難信号を出す目的でもない。

 アカネの耳にだけ届き、アカネだけが認識できる程度の、専用の『家へ戻れ(退避しろ)』というサインなのだ。


「複雑なシステムが連鎖的に死んだ時、最後に一番頼りになるのは、こういう一番単純で物理的な単機能装置だからな」


 いきなり本番のテストはしない。

 まずは、啓介が現地にいる状態で、条件付け(パブロフの犬)の訓練を行う。


 啓介が、手元のリモコンで非常スイッチを押す。

 ピピッ、ピピッ。

 アカネがビクッと肩を震わせた。

 啓介が、フェンスの門扉を指差して言う。

「アカネ。家」


 アカネは、フェンスを飛び越えて家の中へ入った。

 啓介は音を止め、大袈裟なくらいアカネを褒めて撫でた。


 もう一度。

 ピピッ、ピピッ。

「家」

 アカネが家へ入る。


 数回繰り返した後。

 ピピッ、ピピッ。

 今度は、アカネは家ではなく、啓介の肩へ一直線に飛んできて、作業着にしがみついた。

「あ」

 アカネにとっては、啓介自身も最大の「避難場所」なのだ。


「……まあ、気持ちは嬉しいし、お前にとって俺が安全地帯なのは正解なんだけどな」

 啓介は優しくアカネを肩から下ろした。

「でも、この音が鳴る時は、俺がここにいない時の想定なんだ。俺の肩じゃなくて、お前のシェルターに逃げ込む訓練だからな」

 啓介は、アカネを自力で家の方へ誘導した。


 訓練の難易度を上げる。指示を減らしていくのだ。

 ピピッ、ピピッ。

 数秒待つ。

 アカネは、啓介の顔を見た。啓介は何も言わず、指も差さない。

 アカネは首を傾げた。

 また音が鳴る。

 アカネは家を見て、啓介を見て、最終的にパタパタと家の中へ入った。

「よし」

 これを根気よく繰り返す。


 お昼の休憩を挟み、午後。

 アカネをフェンスの外に出し、自由に行動させる。

 家から少し離れた落ち葉の上で、地面の何かを一生懸命につついている。


 啓介は、アカネから見えない位置で、そっと非常スイッチを押した。

 ピピッ、ピピッ。


 アカネが、バッと頭を上げた。

 啓介を見る。

 今回は啓介は、声も出さず、指も差さず、目線すら家の方へ向けない。完全にノーヒントだ。


 数秒の沈黙。

 アカネが、翼を大きく広げた。

 地面を蹴って飛び上がり、フェンスを越え、《アカネの家》の屋根を飛び越え、器用に方向転換して内扉を鼻先で押し開け、一瞬で寝室の奥へと滑り込んだ。


 完全に、自発的な退避行動の成功だった。

 啓介は、思わずガッツポーズをした。

「……できた!」


 システム表示が視界に流れる。

『非常信号に対する、居住者の自発的帰巣・退避行動を確認しました』

『管理者からのリアルタイムの音声・視覚指示なしでの成功』

『通信環境に非依存の行動』

『管理者不在時を想定した【独立安全行動実績】を追加します』


 ただし、システムは厳しい。これはまだ「完全達成」ではない。

 一度成功したからといって、学習が完全に定着している保証はないからだ。表示は『部分達成』に留まった。

 啓介もそれでいいと思った。焦る必要はない。


 次に、実際の「通信断」を模擬した試験を行った。

 アカネを家の外へ出し、啓介が現地にいる状態で、監視システムの主電源を意図的にバツンと切った。


 ルーター停止。通常スピーカー停止。固定カメラの一部停止。

 主系統の電力が落ちたことを検知し、独立非常装置だけが生存して起動する。


 数秒後。

 ピピッ、ピピッ。

 アカネは、誰の指示も待たず、自分から一直線に家の中へと飛び込んでいった。

 現地での退避行動は、完璧に成功した。


 しかし、ここで啓介は重要な、そして極めて現実的な問題に直面した。


「……待て。《危険判定》があるじゃないか」

 啓介は、自分がこれまで重要な外出や実験の前に使ってきた知識1の安全確認カードを思い出した。

 次回、本当にアカネを一匹で泊める直前なら、試験時間を具体的に区切って未来を確認できる。


『その時間内に、アカネ本人の負傷、疼痛を伴う事故、呼吸障害、行方不明、第三者による捕獲・持ち去り、カードとの関連づけの喪失、死亡、または能力存在の第三者への露見が発生するか』

 そう条件を細かく指定して《危険判定》を行い、『否定』が出れば、少なくとも最初の一晩を実証試験へ進めるための安全ゲートにはできる。

 だが、啓介はすぐに首を横へ振った。毎晩それで済ませる話ではない。


 《危険判定》が教えるのは、設定した未来に危険が成立するかどうかだ。

 停電したのか、ブザーが作動したのか、アカネが自力で退避したのか、電池が切れたのか――設備の運用状態そのものを遠隔で報告してくれるわけではない。


 したがって、『通信・電源喪失時の代替手段』は依然として部分達成のまま。《危険判定》は初回単独宿泊試験の安全ゲートとして使い、恒常運用の監視・通知手段は別に必要だ。

「……よし。次の一晩を試す道筋はできた」

 啓介は安全要件へ、《危険判定》を併用した初回単独夜間試験、と追記してから主電源を復旧させた。


 作業も終盤に差し掛かった夕方。

 接近確認用カメラのスマホ通知が鳴った。


 低木の奥。例の野良猫が姿を現した。

 胸の白毛、左耳の欠け、曲がった尾。先日《自由気ままな猫》としてカード化した個体だ。


 《アカネの家》の屋根に乗っていたアカネが、猫の気配に気づいた。

 翼を少しだけ開く。

 しかし、前回のように飛びかかろうとはしなかった。


 猫は、慎重な足取りで接近してきた。

 そして、啓介が今日新しく設置したばかりのメッシュフェンスの前に立ち止まり、匂いを嗅いだ。

 門扉のあたりを見上げ、そしてフェンスの奥にある家と、屋根の上のアカネを見た。


 啓介は一切介入せず、少し離れた場所から息を潜めて観察した。

 猫は、以前なら一直線に家の入口まで近づいてきていたルートを進もうとして、フェンスに突き当たった。

 物理的には、猫のジャンプ力なら越えられる高さだ。

 しかし、猫は無理にフェンスを越えようとはしなかった。


 方向転換し、フェンスの外周に沿ってゆっくりと歩き始めたのだ。

 そのままフェンスを迂回し、以前から使っていたと思われる別の獣道へと抜けていく。


 アカネは屋根の上。猫はフェンスの外。

 距離にして数メートル。

 猫が、獣道の途中で座り込み、念入りに毛繕いを始めた。

 アカネは屋根の上から、警戒するようにジッと猫を睨みつけている。

 でも、動かない。

 しばらくして、猫が自分に危害を加えないと判断したのか、アカネも自分の翼の付け根をペロペロと舐めて毛繕いを始めた。


 啓介は、その光景を見て静かに感動していた。

「……仲良くなったわけじゃないけどな」


 システム表示が流れる。

『対象個体間における相互攻撃行動:なし』


「それで十分だ」

 無理に「友達」にする必要はない。

 《自由気ままな猫》のカードに変化はない。《アカネの友達》へ進化したりもしない。

 関係性は、あくまで「互いに存在を認識し、一定の距離を保って、同じ管理地を共有して利用できた」というドライなものだ。

 直後、『《名もなき雑木地》に【異種生物による非攻撃的同時利用実績】を追加しました。現時点でマナ生成量への変更はありません』と表示された。


 猫が立ち去った後。

 アカネが、フェンスの内側の地面をトテトテと歩き回った。

 門扉の支柱を嗅ぎ、家の周囲を回る。

 一度フェンスの外へ飛び出し、またフェンスの内側へと戻ってくる。


 啓介は呟いた。

「……あのフェンスが『自分を閉じ込める檻』じゃないってことは、ちゃんと分かったみたいだな」


 アカネは《アカネの家》の屋根へと戻り、満足そうに丸くなった。

 アカネの中で、あのフェンスで囲まれた空間が「外には出られるが、いざという時に戻るべき、自分だけの安全な区域」として認識され始めている証拠だった。


 啓介は、ここまでの実績をシステムへ再確認した。


 《アカネの家》

 夜間利用:確認。管理者立会い夜間安全:確認。固有居住者:確立。帰巣:確立。

 外部動物への物理的動線分離:確認。物理的境界の設置:確認。

 非常信号による自発的退避:確認。主系統喪失時の独立退避:確認。


 人間による侵入抑止:部分達成(フェンスと看板のみ)。

 通信断時の管理者側への状況通知:不足。

 単独夜間利用:未確認。

 危険成立時の自動検知・自動帰巣警告:未達(現状は停電検知または手動起動の非常ブザーのみ)。


 かなり、防犯と安全の要件が埋まってきた。


 そして、ついに。

 システムから、待ち望んでいた表示が流れた。


『恒久施設《小竜の家》は、固有居住者アカネとの継続的運用実績、および複数の安全要件の達成により、上位再設計条件を満たしつつあります』


 バインダーの空白ページに、淡い光を放つカードの設計候補が浮かび上がる。


 《アカネの守り巣/Akane's Sheltered Nest》


 啓介は、思わず息を呑んだ。

「……出た」


 まだ確定(カード化)はさせない。設計候補の段階だ。

 テキストを読み込む。


 遺物・施設・生命・物資・境界


【固有居住者】

 《帰る場所を得た小竜、アカネ》一体を固有居住者とする。


【守り巣】

 外部からの物理的侵入、自然環境の激変、および軽微な事故に対し、既存の施設構造と設備を最大限に利用して、居住者の安全を最優先で確保する。


【危険検知・緊急帰巣】

 施設および固有居住者の周辺で、火災、煙、構造破損、侵入、急激な環境悪化その他の明確な危険が成立した場合、施設自身がこれを認識し、アカネへ強い帰巣警告を与える。現行の非常ブザーと異なり、停電や管理者の手動操作だけを起動条件とはしない。

 ※全知の危険察知ではなく、施設および既存設備が認識可能な範囲に限られる。強制的な空間転移や意思操作ではなく、最終的に戻るかどうかの行動選択はアカネ本人に残る。


【独立保全】

 外部通信や主電源が喪失しても、施設内の基本的な保護機能(温度維持や扉のロック等)を一時的に維持する。


【巣守り・強化】

 現行の【巣守り】効果の強化。

 ※ただし、大型動物の物理的破壊、人間の悪意ある侵入、超常的な魔法攻撃に対して無敵となるわけではない。


 啓介が、設計の途中で一応「侵入者を自動で迎撃(攻撃)する機能とかつけられないか?」と試算に入力してみた。

 結果、コストが天文学的に急増した上に、システムから強烈な警告が出た。

『自動攻撃機能の付与は、配達員、測量士、消防等の正当な第三者、迷い込んだ子供、無害な野生動物を無差別に攻撃・殺傷する極めて高い危険性を伴います。強く非推奨とします』

 啓介は即座に却下した。

「家を守るためとはいえ、自分の土地を無差別殺傷の地雷原にする気は毛頭ない」


 したがって、《守り巣》の防衛の基本コンセプトは、「攻撃」ではなく、「危険の自動検知・遅延・退避警告・保護」に特化することになった。


 利用実績による割引が適用された後の、候補の必要マナ。

 生命1。物資1。境界2。

 合計4マナ。

 元々《小竜の家》という施設そのものが現実に存在し、増築フェンスも済んでいるため、一から作るよりもかなり安く上がっている。


「……境界2か」

 啓介は、現在の自分のマナ基盤を確認した。

 現在、固定で確定して出せる「境界マナ源」はゼロだ。

 出せるのは、任意マナが2点のみ。

 理論上は、《借宿》の任意1を境界へ、《五彩の魔石》の任意1を境界へ変換すれば、なんとか「境界2」を支払うことはできる。

 さらに生命1と物資1も、別の源(苗床と工房箱)から引っ張ってこられる。


 つまり、「境界マナが足りなくて絶対に作れない」わけではないのだ。

 今日、この場で作ることは物理的に可能だ。


 だが、今日作らない理由は、マナが惜しいからではなかった。

 任意マナ2を境界へ使うのは一日だけだ。生命1・物資1・境界2の四マナを一度投資して、その後に境界1/日のマナ源へ育つ可能性があるなら、投資効率だけを見ればむしろ破格に良い。

 《時間停止》には固定境界マナがさらに必要だという問題は残るが、それは《守り巣》を今日作らない理由にはならない。


 啓介は、上位再設計そのものの仕様を確認した。「システム。一度《アカネの守り巣》へ上位再設計した後、今の《小竜の家》へ無条件で戻せるか?」

『上位再設計時、現在の恒久施設カードは新設計へ置換されます』

『旧設計の履歴は保持されますが、無償でのロールバックはできません。下位設計へ再変更する場合も、新たな再設計として実績評価およびマナコストを必要とします』

「……それなら、今日は作らない」

 今の《小竜の家》は、何週間も実地で使って安全性を確認してきた安定版だ。それを、今日一度成功しただけの退避訓練と、まだ実地未経験の【危険検知・緊急帰巣】を載せた新設計へ置換し、問題が出たらまたマナを払って戻すのは筋が悪い。


 最低でも、複数日にわたる非常信号訓練、電池切れ、誤作動、雨天、猫など外部生物への影響を確認する。そして次の段階として、《危険判定》を安全ゲートにした初回の単独夜間試験を行う。その実績まで取ってから、最終仕様を一度で固定する。


 啓介がバインダーを閉じようとした、その時だった。

 《守り巣》の候補詳細の一番下に、小さく、しかし啓介が喉から手が出るほど欲しかった「新しい一文」が追記されているのに気づいた。


『上位施設として環境が安定化した場合、当該施設は恒常的な【境界維持実績】を有するマナ源候補となります』


 啓介の思考が、完全に停止した。

 二度、三度と読み直す。


「……マナ源?」


 再評価候補の欄が、展開される。

 《アカネの守り巣》

 生成可能マナ候補:境界1/日


 啓介は、大きく目を見開いた。


 今まで、啓介のマナ基盤は、任意2、生命1、知識1、物資1、そして生命または物資1のみだった。

 境界マナは、常に貴重な任意マナを変換して捻出するしかなかった。

 もし、この《アカネの守り巣》が完成し、「境界1/日」を固定で生み出すようになれば。

 日次マナの総量は、ついに「7」へと跳ね上がる。

 しかも、待望の固定境界マナだ。


 啓介は興奮を抑えきれず、計算を始めた。

 《時間停止》のコストは、知識2、境界3、不特定1。合計6マナ。


 総量が7になれば撃てるか?

 シミュレーションする。

 《思索の計数盤》:知識1。

 任意1(借宿)を知識へ変換:知識1。これで知識2。

 《守り巣》(予定):境界1。

 任意1(魔石)を境界へ変換:境界1。これで境界2。

 残るマナは、《生命樹の苗床》の生命1、《小さな工房箱》の物資1、《名もなき雑木地》の生命または物資1。


「……駄目だ。まだ境界マナが一つ足りない」

 不特定コストの1は生命や物資で払える。しかし、絶対に必要な「境界3」の色拘束に対して、マナ源をフル回転させても「境界2」までしか届かない。


 《時間停止》には、なお境界マナが1つ足りない。

 しかし、今まで完全にゼロだった固定境界マナが、確実に「1」になる。

 とてつもなく明確な、強烈な前進だった。


 啓介は興奮のあまり、思わず声を上げかけた。

「アカネ! お前の家――」

 そこで慌てて口を閉じた。山林とはいえ、能力やマナの話を大声で叫ぶ必要はない。周囲に人影がないことを確認してから、声を落とす。

「……完成したら、毎日境界マナを一個出せるようになるかもしれないぞ」「あぎゃ?」


 啓介が門扉を開ける。

 上に止まっていたアカネごと、扉が横へスーッと動く。

「あぎゃ!」

 アカネはそれが楽しかったらしく、羽ばたいて元の位置へ戻り、扉が閉まるとまた上に止まった。

「……そこ、遊具じゃないからな」

 啓介が開けると、またアカネごと動く。アカネは嬉しそうに尻尾を振った。


 マンションへ帰宅した後の夜。

 啓介は山から持ち帰ってきた「試験用の予備の非常ブザー」を机の上に置き、今日の記録をノートに書き込んでいた。

 物理的保護区画設置、成功。外部動物との動線分離、成功。非常信号の条件付け、開始。指示なしでの自発的帰巣、成功。《アカネの守り巣》上位候補出現。境界マナ源候補判明。


 未達事項。

 人間侵入への対策。通信断時の管理者への通知。雨天時の長期運用。非常信号の完全な定着。単独夜間利用。次段階:《危険判定》を安全ゲートとして、時間と失敗条件を限定した初回単独宿泊試験を実施する。

「かなり進んだ。でも、まだ今夜からアカネだけで泊めていい、ではない」

 啓介はそう結論を書き込んだ。未来を一晩だけ先に確認できても、恒常運用の設備を作らなくていい理由にはならない。


 その時だった。

 机の上で遊んでいたアカネが、啓介が置いた予備の非常ブザーに興味を持ち、咥えようとした。

「こら、アカネ。それ返せ」

 啓介が手を伸ばすと、アカネは遊びだと思って、テーブルの向こう側へとパタパタ逃げた。

 そして、咥えたままブザーをガブッと噛んだ。


 カチッ。

 スイッチが入った。


 ピピッ、ピピッ。

 小さな警告音が、リビングに響き渡った。


 その瞬間。

 アカネの身体が、ビクッ!と硬直した。


 パブロフの犬レベルで身体に染み込ませた条件反射。

 アカネは、自分が咥えているブザーから音が鳴っていることに気づかないまま、大慌てで空中に飛び上がった。

 そして、部屋の隅にある段ボールの仮住居へと一直線にダイブし、奥へスポンッと飛び込んだ。


 数秒後。

 段ボールの入口から、アカネが顔だけをヒョコッと出した。

「あぎゃ……?」

 何が起きたのか、なぜ自分がここに逃げ込んだのか、完全に混乱している顔だった。


 啓介は、沈黙した。

 そして、腹を抱えて大笑いした。


「……お前、自分で非常ベル鳴らして、自分でパニックになって避難したのかよ!」

「あぎゃあ!」

 笑われたことに気づき、アカネは非常に不満そうに抗議の声を上げた。


 啓介は笑いを堪えながらブザーを回収し、ノートの『誤作動対策』の項目に追記した。

【非常帰巣信号】

 学習:成功。自発的帰巣:成功。

 誤作動対策:早急に必要。

『※居住者本人によるスイッチの誤操作(噛みつき)を確認』


 横からアカネが「あぎゃ!」と文句を言ってくる。

「お前のことだよ、ドジ竜」


 そして、ノートの最後。


 《アカネの守り巣》

 上位再設計候補:成立。

 マナ源再評価候補:境界1/日。

 実行:本日は保留。理由:上位再設計は無償ロールバック不可。複数日実績および初回単独夜間試験の結果を反映してから最終仕様を固定する。


 境界マナは、まだ足りない。

 だが少なくとも、「どうすれば境界マナを手に入れられるのか」という道筋は、初めて明確に見えた。

 魔法の結界を、空から偶然拾う必要はない。

 自分の手で柵を立て、退避の方法を教え込み、危険と安全のエリアを分け、アカネが自発的に「帰る場所」を守る。

 その泥臭い現実の積み重ね自体が、《創世札典》のシステムにとっては立派な『境界』だったらしい。


 もっとも、その強固な境界で守られるべき本人は、非常ベルをおもちゃにして、たった今自分で鳴らして自爆したばかりだったのだが。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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