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第17話 竜を医者に診せたら生物学が足りないらしい

 アカネと山で初めて一泊してから、一週間後の日曜日の午前中。

 啓介は、三崎の勤める健診センターの一室にいた。

 休日の一般患者の診療時間外。三崎が、管理権限を使って事前に確保しておいてくれた個室の診察室だ。


 三崎は、机の上に置いていたタブレット端末を取り上げ、画面を啓介に向けた。

「今日のメインの診察に入る前に、まずは俺の膝の最終報告だ」


 画面に映し出されたのは、右膝のMRI画像だった。

 三崎は、先日《古傷の修復》で治療する前に撮っておいた古い画像と、昨日別の病院で自費撮影してきたという最新の画像を横に並べて表示した。


「前十字靱帯の連続性。半月板の形状。軟骨の厚み。関節周囲の筋肉の緊張度合い。……すべて比較した」

 三崎の指が画面をスライドしていく。

「結果から言う。……MRIの画像所見レベルでも、完全な修復を確認した」


 啓介が尋ねる。

「完全に?」

 三崎は、医者として「完全」や「絶対」という言葉を極端に嫌う。少しだけ嫌そうな顔をして、訂正した。

「……少なくとも、今の現代医学の画像診断で確認できる範囲においては、な。微小なレベルの炎症や、関節液の異常な増加もない。機能的にも全く問題がない」

「なら、《古傷の修復》については、一症例目としては大成功ってことだな」

 啓介が言うと、三崎は即座に釘を刺した。

「お前の身体と俺の膝、たった二人が治ったからといって、『どんな人間にも安全に使える』には絶対ならないからな。そこだけは絶対に勘違いするなよ」

「分かってるよ。耳にタコができるくらい聞いた」


 三崎はタブレットを置き、机の表面を指でトントンと叩いた。

「さて。俺の膝の話は終わりだ。今日のメインの患者は俺じゃない」


 三崎の視線が、啓介が足元に置いていた黒いペット用キャリーケースへと向いた。


「今日の患者は、そっちだ」


 キャリーケースの中から、「あぎゃ?」と不思議そうな鳴き声が小さく響いた。

 三崎が、頭を抱えるようにしてため息をついた。

「……こうして改めて聞くと、本当に現実感がないな」


 本日の目的は、三崎が以前から要求していたアカネの『初回医学検査』の実施だ。

 しかし、この検査には、現代医学が直面したことのない根本的かつ致命的な問題があった。

『比較対象となる正常なドラゴンが、この地球上に一匹も存在しない』ということだ。


 仮にアカネの体温を測って、38度あったとする。

 それが人間と同じように「発熱(異常)」なのか、鳥類のように「平熱(正常)」なのか、それとも変温動物のように「低い(異常)」のか。

 心拍が速くても同じ。血圧も、呼吸数も、血液循環も、鱗の厚みも。

 すべてが、人類にとって「世界初の測定値」なのだ。


 したがって本日は、アカネの「健康診断(病気を見つけること)」ではなく、

『《アカネ基礎生理データ・第一版》をゼロから作成する』という、未知の生物学の第一歩となる。


 三崎は事前に、完璧な秘匿環境を整えていた。

 診察室内部の監視カメラの電源は落とし、一般患者がいない時間帯と動線を確保。

 啓介が建物内を移動する間も、アカネは不透明なキャリーケースから絶対に出さず、廊下では決して開けない。魔法や能力に関する会話は、この個室内に完全に限定する。

 そして、当然だが、カルテを病院の公式な患者データベースには登録しない。


「『種別:ドラゴン。36歳男性の知人』なんてふざけたデータを電子カルテのサーバーに残したくないからな」

 三崎が、暗号化されたローカルのノートパソコンを立ち上げながら言った。

「俺も、そんな証拠を残したくはない」


 三崎が、ブラインドが完全に閉まり、扉がロックされていることを再度確認して頷いた。

 啓介が、キャリーケースのロックを解除する。


 扉が開き、赤銅色の小さな顔がヒョコッと覗いた。

 金色の縦に細い瞳孔が、見知らぬ診察室の白い壁と、消毒液の匂いに警戒を示す。

 アカネは、白衣を着た見知らぬ男――三崎をジッと見つめた。

 三崎は映像では何度もアカネを見ているが、アカネにとって三崎本人と対面するのは今日が初めてだった。


 しばらく警戒して様子をうかがっていたが、啓介が三崎をまったく警戒していないことを何度も確認した末、やがて啓介の肩へパタパタと飛び移り、いつものように袖をギュッと掴んで落ち着いた。


「……初対面なのに、逃げないのか?」

 三崎が少し驚いたように言った。

「たぶん、俺が警戒してないのを見て判断してる」

「お前、その『たぶん』って言葉を、今日は一つでも多く減らしていくんだよ。いいか」


 三崎は、ノートパソコンの画面に今日の診察方針を表示した。


「今日やるのは、『非侵襲ひしんしゅう検査』のみだ」

 身体を傷つけない、負担の少ない検査に限定する。

 視診、触診、体重測定、寸法測定、体温、心拍、呼吸数の確認、聴診、関節可動域のチェック、翼、爪、口腔内の確認、鱗の状態、そして腹部超音波エコーと行動観察。


「今日はやらない項目。採血、注射、細胞の生検、麻酔、CT、MRI、薬剤投与、疼痛刺激試験、限界までの運動負荷」

 三崎はきっぱりと言い切った。

「人間の薬や麻酔がどう効くかも分からない未知の生物に、いきなり針を刺したり薬を入れたりできるわけがないだろう。死んだらどうする」


 そして、三崎は啓介とアカネを交互に見て言った。

「それと、こいつが本気で嫌がったら、その時点で検査は即座に中止する」

「動物相手でもか?」

「当たり前だ。患者本人の『同意』が必要なのは、人間でも竜でも同じだ」

 それは、《古傷の修復》を使った時にも「本人の明示的な同意」を絶対条件にした、三崎らしい判断だった。


 三崎は新しい記録用紙のファイルを作成し、見出しを打ち込んだ。


 《個体名:アカネ 基礎生理データ v1.0》


 その下にある『種別』の項目で、三崎の指が止まった。

「……おい。種別って、不明でいいのか?」

「カードには『小竜』って書いてある」

「それはカードの分類名だろ。生物学的な分類じゃない。爬虫綱なのか、鳥綱なのか、それとも既存の生物分類そのものに当てはまらないのか」


 結局、三崎はこう入力した。

 種別:未分類(ドラゴン骨格・有翼)

 個体名:アカネ

 由来:生成型召喚生物ネームド


「今日の最大の壁はこれだ」

 三崎が画面を指差す。

「比較対象となるデータが、この世のどこにもない。こいつの体温が仮に四十度あったとして、それがこいつにとって発熱なのか、平熱なのか、低体温症なのか。世界中のどの最新の医学論文を探しても載っていないんだ」

「文字通りの『世界初』だな」

「だから、そんな嬉しそうな顔で言うな」


 最初の検査は、寸法の測定だった。

 啓介は、以前《アカネの家》を設計した際に苦労して測った寸法のメモを持参していた。

 全長、胴体の長さ、翼の開長、翼を畳んだ時の幅、脚の長さ、頭部のサイズ、尾の長さ。


 三崎の指示で、もう一度正確に測定し直す。

 アカネは、冷たい金属のメジャーを向けられて不満そうに「あぎゃ」と鳴いたが、啓介が「待て」と指示すると、前回よりも大人しく測定に応じた。


 数値自体は、以前啓介が素人仕事で測ったものと数ミリの誤差の範囲内でピタリと一致していた。


 重要なのは、その「誤差のなさ」だった。

 三崎が確認する。

「お前がこいつを最初に召喚してから、結構な日数が経ってるんだよな?」

「ああ」

「……体格が、ミリ単位で全く変わっていない。成長していないな」


 啓介は、システムへ確認の質問を投げた。

「システム。アカネは、時間が経てば自然に大型化(成長)するのか?」


 回答。

『現行のカード設計において、対象個体の自然な身体の大型化(成長)は定義されていません』


 つまり、肉体サイズは今の掌サイズで完全に固定されている。「赤ちゃんドラゴンだから小さい」のではなく、「このサイズで完成された生物」なのだ。


 次に、体重測定。

 診察用の小型精密体重計を用意する。

 啓介がアカネを体重計の上に乗せると、アカネは足元のデジタル数字がチカチカ変わるのが気になったのか、数字の表示部分を覗き込もうとウロウロと動き回ってしまった。

 数値が激しくブレる。


「おい、じっとしてろ」三崎が言う。

「あぎゃ?」

「アカネ、待て」

 啓介が短く命令すると、アカネはピタリと動きを止めた。


 測定成功。

 体重は、一般的な中型の鳥類や、小型の猫よりもずっと軽い。だが、外見の体積から想定される重さよりは、明らかに筋肉や骨格が詰まったような質量があった。

 これも、以前啓介が自宅でざっくり量った時と、大きな変化はない。


 体温の測定。

 普通の人間用の脇の下に挟む体温計や、額で測るタイプでは、正確な内部体温が測れるか信用できない。表面の硬い鱗と、内部の体温が違う可能性があるからだ。

 三崎は、非接触の赤外線体温計と、動物用の接触式センサーを使い分け、アカネが許容する範囲で短時間だけ口腔内の温度も測った。


 結果。

 人間よりはやや高め。だが、室温に影響されて極端に上下するようなことはなく、かなり安定していた。

「……爬虫類のような、完全な変温動物っぽくはないな」

 周囲の気温が少し変わっても、体温は一定の範囲を維持している。少なくとも、自力で体温を調整する機能は持っているらしい。

「ただ、鳥類や哺乳類みたいな完全な恒温動物だと断定するのも、まだ早いな。データが足りん」


 心音の確認。

 三崎は、小児用の小さな聴診器を取り出し、アカネに見せた。

 アカネは、銀色の丸いベル部分を不思議そうにクンクンと嗅いだ。


 次の瞬間。

 ガブッ。


「こら! 噛むな!」

 啓介が慌てて制止する。

「あぎゃ……」

 アカネは不満そうに口を離した。

「医療器具だぞ。お前の噛むおもちゃじゃない」


 三崎が、アカネの胸部のあたりにそっと聴診器を当てた。

 数秒の沈黙。

 三崎の表情が、微かに驚きに変わった。


「……ちゃんと、心臓の音がする」


 かなり速いテンポの鼓動。トクトク、というよりは、タタタタタ、というような速いリズム。

 しかし、不整脈のような乱れはなく、極めて規則正しく力強い拍動だった。


「これだけ小さい生物なら、代謝を維持するために心拍が速いこと自体は、生物学的に全く不思議じゃない。……問題は、この今の速さが、こいつにとって正常な『安静時の心拍数』なのかどうかだが」

 それが分からない以上、今日のこの数値を「アカネの基準心拍数」として記録するしかない。


 呼吸の確認。

 胸郭と腹部が、一定のリズムでわずかに上下に動いている。

 安静時の呼吸数を一分間計測する。

「……呼吸も、普通にしてるな」

 啓介が当然のように言った。

「そりゃ、生きてるんだから」

 三崎が呆れたように返す。

「お前は『水も餌も食わなくても死なない魔法の竜』を連れてきてるんだぞ。何を今さら常識ぶって、当然みたいに言ってるんだ」

 言われてみれば、確かにその通りだった。


 啓介は、システムの根本的な仕様を確認することにした。

「システム。アカネは、召喚を維持するだけのマナが供給されていれば、呼吸ができなくても生きられるのか?」


 回答。

『否定』

『呼吸器系は対象個体の生命維持に必要です』


 三崎の顔つきが、スッと真剣なものに変わった。

 つまり、魔法の生物だからといって、密閉容器に閉じ込めたり、煙を吸わせたり、水没させたり、気道を塞いだりすれば、普通に死ぬということだ。


『長時間の呼吸阻害は、組織損傷、意識消失、および死亡を引き起こす可能性があります』


 啓介は息を呑んだ。

「……普通に、窒息するのか」

『肯定』


 これは、アカネの運用において極めて重要な安全情報だった。

 移動用のキャリーケースには今後も絶対に通気性を確保しなければならないし、山林に建てた《アカネの家》の換気口も、絶対に塞いではならない。


 三崎が、静かに言った。

「今日、これを確認できただけでも、ここに来た意味はあったな」

 啓介も深く同意した。

 今まで、心のどこかで「魔法のマナで維持されている存在だから、多少の無茶をしても大丈夫かもしれない」という無意識の甘えがあった。

 しかし違う。

 アカネは、「魔法の力で存在を維持されている、生きた血肉を持った身体」であって、「物理法則から完全に自由な魔法エフェクト」ではないのだ。


 翼と関節の検査。

 三崎が「翼を広げて触ってもいいか?」と確認してくる。

 啓介が指示を出す。

「アカネ、翼」


 以前のハーネス装着の訓練で、啓介に身体を触られることにはある程度慣れていたアカネは、素直に小さな翼を少しだけ広げた。

 三崎が、医療用の手袋をした手で、そっと翼の膜や関節に触れる。


 関節の動きの滑らかさ。皮膜の弾力性。透けて見える血管のような細い筋。骨格の構造。

 左右差はなし。裂傷なし。異常な腫れもなし。

「……こんな小さい身体と翼の面積で、本当に空中を飛べる構造をしてるんだな」

「毎日、飛んでるぞ」

「知ってる。知ってるけど、医者として現物の構造を見ると、やっぱり信じられないんだよ」


 啓介が、飛行についてシステムに質問した。

「アカネが飛んでるのは、重力を無視して魔法の力で浮いてるのか? それとも、自分の翼の力で物理的に飛んでるのか?」


『通常飛行は、対象個体自身の翼の構造および身体能力によって実行されています』


 つまり普通の飛行だ。ただし身体の構成そのものが魔法的設計に依存しているため、地球上の既存の航空力学のみで完全に説明できるとは限らない。【飛行】は戦闘行動における能力定義であって、通常飛行の動力源ではない。


 爪と歯の確認。

 爪は小さいが、硬く鋭い。野良猫に立ち向かおうとしていただけのことはある。しかし、人間の皮膚を少し引っ掻いてかすり傷を作る程度で、金属を切断するような恐ろしいものではない。


 歯は、小型の肉食動物や雑食動物に近い鋭い歯だった。

 三崎がペンライトで口腔内を照らす。

「毒牙や、明確に毒液を分泌するような『毒腺』の開口部は、少なくとも非侵襲観察の範囲では見当たらないな」

「噛まれたら、普通に痛そうだな」

「さっき俺の聴診器を噛んでただろ」


 念のため、啓介はシステムに直接確認した。

「システム。アカネは、毒を持っているか?」


『現在のカード設計には、毒液、毒腺、毒針その他の能動的毒性器官は定義されていません』


 これで少なくとも、意図的に毒を注入してくる生物ではないことは確定した。

 ただし、野生動物と同じように、唾液の中に含まれる細菌などによる感染リスクまでゼロだとは限らない。

「まあ、噛まれたら普通に消毒はしろよ」と三崎が言った。


 次に、超音波エコー検査。

 三崎が機器を用意する。

 問題は、硬い鱗の上からでは、超音波の反射がうまくいかず内部が綺麗に写らないことだ。

 三崎は、ゼリー状のエコー用ジェルを少量、アカネの腹部の柔らかい部分に塗ろうとした。


「あぎゃ!?」

 突然の冷たさに驚き、アカネが翼を広げて逃げようとした。

「アカネ、待て」

 啓介がなだめる。アカネはジェルを舐め取ろうとして首を曲げる。

「舐めるな」

 啓介が頭を押さえ、少し待ってアカネが落ち着いてから、再挑戦した。

 今度は、渋々とだがプローブを当てられることを許容した。


 モニターに、アカネの体内の画像が白黒で映し出される。

 三崎が、画面を見つめて驚きの声を上げた。


 内部には、明らかに「臓器」と呼べる構造が詰まっていた。

 心臓に相当すると考えられる、リズミカルに拍動する構造。

 肺に相当すると考えられる、空気を含んだ構造。

 消化管。肝臓らしい実質臓器。腎臓らしき左右の構造。膀胱、またはそれに相当する構造。


 ただし、三崎は決して「これは人間の肝臓と同じだ」とは言わなかった。

「……形や位置が似てるからって、同じ機能とは限らないからな」

 正式な記録用紙にも、あくまで「肝臓様構造」「腎臓様構造」と慎重に記載する。未知の生物に対する、医者としての徹底した態度だった。


 心臓の構造についても同様だ。

 超音波で拍動は確認できるし、血流も一部見える。しかし、身体が小さすぎるため、人間用の機器で詳細な心腔構造まで確定するのは難しかった。

「四腔なのか、三腔なのか、あるいはそれ以外なのか、今日は断定しない」

「そこまで違う可能性があるのか?」

「竜だからな」


 食事と排泄についての確認。

 ここからシステムへの質問タイムが始まった。

 三崎が言う。「食事についてだが。お前、こいつは何も食わなくても平気だって言ってたよな?」

「ああ」

 啓介は、改めてシステムに正式に確認した。


『対象個体は、カードとの関連づけが維持されている限り、生命維持に必要な基礎エネルギーを外部食物のみへ依存することはありません』

 つまり、餌を食べなくても餓死しない。

 しかし、続く。

『摂食機能および味覚は正常に存在します』

 食べることはできるのだ。


 三崎が腕を組んだ。

「必要ないのに、なんで食うんだ?」

 回答。

『感覚刺激、嗜好、学習および社会行動として摂食することが可能です』

 啓介が納得して頷く。

「おやつみたいなもんか」


 生きるためではなく、「食べることそのもの」を楽しめるらしい。


 三崎が、当然の疑問を口にする。

「じゃあ、食べた物はどうなる? 消えるのか?」

『通常の消化管処理を受けます』

 栄養として吸収もされる。ただし生命維持に必須ではない。

 そして、残ったものは。

『排泄されます』


 沈黙。

 三崎が、ジト目で啓介を見た。

「……お前、こいつの糞を見たことあるか?」

 啓介は、目を逸らした。

「……ない」

「あぎゃ?」


「同居してて、排泄を見たことがないのか?」

「量が少ないんじゃないか? 俺がいない間に山で済ませてるとか、段ボールの家の見えないところで……」

「今すぐ帰って調べろ」


 啓介のタスク管理ノートに、『《アカネ排泄記録》』という新しい項目が追加された。

 ただし、無理に食べさせて排泄を促したり、トイレの場所を強制したりはしない。まずは観察から始める。


 水についても同じだった。

 生命維持用の水分はマナで補われるため、通常環境では脱水しない。

 しかし、「水を飲む」「舌や口の中を潤す」「水遊びをする」ことはできる。

「じゃあ山の水皿は?」

「生命維持に不要だけど、本人が飲みたければ飲める」

「なら置いておいていい。選択肢だからな」と三崎。


 痛みについて。

 三崎が一番重要な質問を投げた。

「痛覚は?」

『存在します』

 即答だった。

『組織損傷、熱傷、過度の圧迫その他の有害刺激に対し、疼痛反応を示します』


 啓介の表情が真剣になる。

 アカネは、痛いものを痛いと感じる。

 だから、「召喚生物だから多少傷ついても大丈夫」は完全に間違いだ。


「怪我をしたら、どうなるんだ?」

『肯定。通常の治癒能力は有します』

 しかし、システムは残酷な事実を提示した。

『現在のカードは、負傷を即時に完全修復する恒常的再生能力を持ちません』


 つまり。

 切れば傷になる。骨折もあり得る。火傷もする。

 治るまでには時間がかかるし、重傷なら死ぬ可能性もある。


「……本当に生き物なんだな……」

「だから俺は最初からそう言ってる」


 以前確認した仕様の再確認も行った。

「怪我したアカネを送還して、また召喚すれば治る?」

『否定』

【継続記憶】だけでなく、身体的な状態も固有個体として継続される。負傷したまま送還すれば、再召喚しても負傷状態のままだ。リセットはできない。


 啓介が考える。

「じゃあ、俺の持っている《健全なる肉体》はアカネに使えるか?」

『現在のカードは【自己限定】です』

 そもそも啓介以外には使えない。


 では、三崎の治療用に設計した《古傷の修復》は?

『人間を基準として設計されています。対象種の生理構造が未定義のため、現時点での使用を推奨しません』

 三崎が念を押す。

「絶対使うなよ」

「使わないよ」


 そこで啓介は、以前ならそのまま保留にしていたところで、一つ別の方向から考え直した。


「待て。人間を治すなら医学的に『正常』を定義する必要がある。でもアカネの身体は、そもそも《創世札典》自身が設計して生成したものだよな。だったら治療じゃなくて、壊れた召喚体を設計どおりに修繕するだけなら?」

 啓介はその場で試作を要求した。すると、今度は拒否ではなく、あっさりとカード案が成立した。

 《召喚体修繕/Mend Summoned Form》

 術式・生命 必要マナ:生命1

【召喚体限定】使用者の《創世札典》によって生成され、現在もカードと一対一で関連づけられている召喚生物一体のみを対象とする。【原型参照】対象カードに記録された現在の正常な身体設計を参照し、外傷によって損傷した身体構造を修復する。

【非蘇生】死亡した対象、またはカードとの関連づけを喪失した対象は復元できない。【非治病】感染症、寄生、毒物、加齢、生理的疾患、疲労、高負荷活動可能時間の消費そのものは除去しない。それらによって生じた身体損傷のみを修復対象とする。


 三崎が眉をひそめた。「……生命1? 人間の治療に比べて、ずいぶん軽くないか?」

『対象個体の未知の生理機構を推測して治療する処理ではありません。使用者自身が生成した召喚体を、当該召喚カードに保持されている身体設計へ復元する処理です』

「要するに、治療というより修理に近いのか」

『概ね肯定』


 啓介は念のため聞いた。「じゃあ、山の《自由気ままな猫》にも使える?」

『否定。既存個体型生物カードは対象外です』

 猫も人間も、《創世札典》が身体そのものを生成した存在ではない。召喚生物であることの利点が、ここではっきりと分かれた。


 病原体についての確認。

「アカネは、地球上の細菌やウイルスに感染するか?」

『一律には判定できません』

 三崎が頷いた。アカネの生体構造と適合する病原体なら感染の可能性を完全には否定できず、逆に地球の病原体すべてが感染するとも言えない。

「アカネから人間に感染する病気――人獣共通感染症は?」


『現在確認されていません』。啓介が少し安心しかけたところで、『存在しないことを意味しません』と続いた。

「そういうところだけ、医学的に正しい回答するんじゃない」と三崎。一ヶ月以上の同居で啓介に発熱や皮膚症状、呼吸器症状はないが、一人・一ヶ月では安全証明にならない。

 三崎がジロリと睨んだ。「……それでお前、先週こいつと同じ寝袋で寝たんだよな?」

「一ヶ月以上マンションで肩に乗せてるし、今さら……」「今さらだから調べなくていい、にはならん」

「それに、お前が自分で先週の特記事項に『首元で一緒に就寝』って書いてきたんだろうが」。今後は食器共有なし、口や傷口を舐めさせない、排泄物は素手で触らない、手洗い徹底を最低限のルールとした。


 寄生虫の確認。

 鱗の表面、翼膜、爪の周囲、口腔内。目視範囲では、ダニ、ノミ、寄生虫、異常な発疹などは見当たらない。ただし内部寄生虫については、排泄物検査が必要になる。またタスクが増えた。


 血液の確認。

 三崎が尋ねる。「超音波で血流らしいものは確認した。でも血液そのものは?」

『循環液を有します。人間の血液と完全に同一であるとは定義されていません』

 三崎の目が怪しく光った。

「血、採りたい」

「今日は駄目」

「分かってる」

 次段階だ。体格が小さいため、何mLなら安全に採血できるかも未知。まず今日の体重と循環情報を基に、採血計画を組む必要がある。


 遺伝子(DNA)の確認。

「DNAは?」

『現行カードの使用者向け定義には、分子生物学的な配列情報は含まれていません』

「じゃあ、システム表示だけでは分からない?」

『実検体の解析によって確認可能です』

 三崎が少し嬉しそうになった。

「つまり、そこから先は普通に研究しろってことか」

 今後、抜け落ちた鱗、自然脱落した細胞、唾液など、侵襲なしで採取可能な検体から調べることになった。


 年齢と成長についての確認。

 三崎が一番首を捻っていた問題だ。

「年齢」

 アカネは召喚された日が、この身体が現実に存在し始めた日。しかし、生物学的に幼体なのか成体なのか分からない。

『現在の身体設計は、成長段階を伴う幼体として定義されていません』

 つまり、「赤ちゃんドラゴンだから小さい」のではない。自然成長して大型ドラゴンになるわけではない。

「じゃあ、このまま?」

『現在のカード設計が維持される限り、基本体格は維持されます』


 では、老化は?

「じゃあ、歳は取るのか?」

 ここはシステムが断定しなかった。

『長期的な加齢変化について、十分な経過観察実績が存在しません』

 啓介が聞き返す。「分からない?」

『肯定』

 成長しないイコール、不老ではない。老化するかもしれないし、ネームドカード独自の経過があるかもしれない。今は一ヶ月しか観察していない。

「十年後にまた聞け」と三崎が結論づけた。


 生殖能力について。

 三崎が記録項目を眺め、少し間を空けてから聞いた。

「……性別は?」

「知らん」

「お前、本当に何も知らんな」

「あぎゃ?」

 外見からは判定不能。システムへ聞く。

『現在のカード設計では、生殖を目的とした機能は明示的に定義されていません』

 性別そのものも、『現時点で確定する必要性のある設計項目ではありません』。

「じゃあ不明で」

 記録用紙には『性別:未判定』と書き込まれた。無理に決める必要はない。


 知能検査。

 人間用のIQテストはできない。簡単な行動観察を行う。

 名前への反応。「待て」「家」「来い」などの指示の理解。指差しへの反応。物の選択。隠した物の探索。啓介と三崎の識別。


 アカネは、啓介の指示をかなり正確に理解した。

 しかし、三崎の命令には従いにくかった。

 三崎が「アカネ。待て」と言っても無視するが、啓介が同じトーンで「アカネ、待て」と言うと止まる。


「言葉そのものだけじゃないな」

 関係性、声、学習、相手。全部込みで判断している。先日ネームド化したことで蓄積した、啓介との個別関係の深さが見える。


 感情についての確認。

「感情はあるか?」

「あるだろ。喜ぶし、嫌がるし、拗ねるし、警戒するし、所有物を気にするし、帰宅した俺を待つ」

 実績は多数。システムも『情動反応および個体固有の嗜好形成を確認』と回答した。


 三崎が静かに言った。

「なら、こいつは検査対象である前に『患者』だな」

 単なる魔法の標本ではない、生きた個体としての扱いだ。


 ここまで、安静状態での検査が続いた。

 三崎が提案した。

「最後に、一分だけ普通に飛んでもらおう」


 限界試験ではない。広さのある閉鎖された検査スペースへ移動し、安全な短距離往復を行う。

 目的は、運動後に心拍・呼吸・体温がどう変化するかを見ること。最大十六分の高負荷活動可能時間を消費する量は、必要最小限に留める。


 啓介が指示を出す。

 アカネが、啓介の肩から指定台、そしてまた啓介の肩へと数回往復して飛ぶ。全力ではない。一分で終了。

 すぐ測定。

 心拍上昇。呼吸増加。体温わずかに変動。

 数分の安静で、それらの数値が下降していく。


「少なくとも、運動すると循環も呼吸も普通に反応するな」

 魔法で作られた映像のホログラムではない。ちゃんと生理反応がある。


 《創世札典》上の高負荷活動可能時間も少し減少していた。休ませると徐々に回復する。

 三崎が疑問を投げた。

「このカードの『十六分』って高負荷活動可能時間は、心肺能力の限界そのものなのか?」

『一致しません』

 高負荷活動可能時間は、肉体への過剰負担を避けるためカード側が設けている「安全運用限界」でもある。

 つまり、十六分を超えた瞬間に心停止するわけではない。カードが安全側にリミッターをかけているのだ。

「リミッターか」

『概ね肯定』

 さらに確認すると、『対象個体の体格、翼面積、循環機能、筋力、魔力的維持能力および設計時の安全余裕を基に算出された現在の推奨上限です』と表示された。妙に半端な十六分だった理由も、これでようやく分かった。


 すべての検査が一通り終わった。

 三崎は、記録を眺めている。

「で、どうだ?」啓介が聞いた。「健康か?」


 三崎が黙る。そして、

「……分からん」

「え?」

「異常所見は見当たらない。だが、『異常がない』ことと『健康である』ことは違う」


 なぜなら、健康なドラゴンの正常値を知らないからだ。


 三崎の今日の結論。

『アカネ初回非侵襲検査結果。

 意識・反応:良好。食欲/嗜好行動:あり。活動性:良好。呼吸:規則的。循環:規則的。運動後回復:良好。体温:安定。翼・関節:左右差なし。鱗・皮膚:明確な病変なし。口腔:明確な病変なし。外部寄生虫:確認されず。超音波:明確な異常構造確認されず。行動・認知:継続的学習を確認。急性疾患を示唆する所見:なし』


 しかし、「ドラゴンとして正常」かは判定不能。


 三崎が新しいファイルを作った。

 《アカネ基礎生理データ v1.0》

「今日の数値を、基準値ではなく『初回値』として登録する。今後、一ヶ月、三ヶ月、半年、一年で測る。数値が安定していれば、アカネ本人の『正常範囲』が分かってくる」

「世界初の竜医学か」

「だから嬉しそうに言うな」


 三崎はさらに、啓介へ新しい記録項目を渡した。

 《アカネ健康観察ログ》

 毎日全部ではなく、異常時と定期的に記録する。

 食べた物、飲水、排泄、睡眠場所、活動量、飛行、食欲、鱗、翼、歩行、行動変化、嘔吐、咳、外傷、猫など他生物との接触。

「項目増えたな……」

「生き物飼ってるんだから当然だ」


 さらに、万が一怪我をした時に何をするか決めておく『アカネ専用救急プロトコル』も作成した。出血時は圧迫、骨折疑いは固定、意識障害時は三崎へ連絡。外傷なら《召喚体修繕》を使用候補とするが、不明な薬剤や人間用治療魔法は適合確認なしに使わない。

 同時に啓介は、山の《アカネ単独夜間運用》も再評価した。アカネは実際に痛みを感じ、重傷なら死ぬ。《召喚体修繕》は事故後の対処手段であり、使用者不在時には即座に発動できない。だから《アカネの守り巣》が完成するまでは、単独宿泊は引き続き不合格とする。


 検査終了後の雑談。

 啓介が思い出したように言った。

「そういえば、山の猫もカードにした」

 三崎が手を止めた。「は?」

 《自由気ままな猫》。所有不可、命令不可、自由意思維持。

「……お前、ほんと一週間ごとに妙なカード増やすな」


 三崎の顔色が不意にサッと変わった。

「待て。猫みたいな現実の生き物までカードにできるなら……」

 嫌な顔。

「人間もできるのか?」


 啓介は嘘をつかず答えた。

「できる」

 三崎は無言になった。

「……やったのか?」

「やってない」即答。

「絶対やるなよ」

「俺もそう判断した」


 啓介は、先日頭の中に一瞬だけ浮かんだ《口うるさい主治医、三崎修司》という仮想カード案については、墓場まで持っていくと固く心に誓った。蹴られたら普通に痛い。


 帰り際。

 三崎が言った。

「で。次は、お前だ」

 《一年若く》。以前カードの存在を明かしてから、ずっと保留になっている大技。

「アカネの検査が終わったんだ。お前の若返り試験の事前データを取る」

 啓介はテンションが上がった。

「ついにか」

「喜ぶのはまだ早い。まず検査だ」


 三崎が指摘する。

 若返りは健康化より難しい。《健全なる肉体》は「異常から健康へ」なので比較しやすかった。しかし《一年若く》は「36歳が35歳相当になる」だけ。何をもって成功とするのかが難しい。

 次回は、顔写真、肌、毛髪、視力、聴力、筋力、血液、ホルモン、骨、体組成、その他老化指標を事前記録する。

「一歳若くなったことを証明する方法から考えるぞ」


 マンションへ帰宅。

 アカネをキャリーから出す。一日診察されて疲れたのか、アカネはすぐ啓介の肩へ乗り、自分の仮寝床へ潜り込んだ。啓介は三崎の「帰ったら調べろ」を思い出し、段ボールの仮住居、敷いてあるタオル、キャリーケース、普段アカネが潜り込む家具の隙間まで確認したが、明確な排泄物は一つも見つからなかった。


「……本当にどこでしてるんだ?」。普段ほとんど食べていないため排泄量自体が極端に少ない可能性もある。啓介は吸水シートを置き、食べた日と排泄の有無だけを記録することにした。

 机には、三崎から渡された《アカネ基礎生理データ v1.0》が置かれている。

 世界中のどんな医学書にも載っていない。比較対象もない。今日測った数字が正しいのかさえ、これから時間をかけて確かめる必要がある。


 アカネが眠る。一定の間隔で小さな胸が上下する。

 啓介は今日まで、それを意識して見たことがなかった。

 心臓が動いている。呼吸している。痛いものは痛い。怪我をすれば傷つく。食べなくても生きられるという一点を除けば、思っていた以上に、生き物だった。


 啓介がノートへ最後に書く。

 《今日分かったこと》

 ・アカネは健康そうである。・呼吸が必要で、窒息する。・痛みを感じ、怪我をする。・送還しても傷は消えない。・ただし外傷なら《召喚体修繕》生命1で、召喚カードに記録された正常な身体設計へ戻せる。


 さらに、山林管理のページも開いた。

 《アカネ単独夜間運用》:引き続き不合格。

 《召喚体修繕》は事故が起きた後の手段であり、事故そのものを防ぐものではない。啓介がその場にいなければ即時発動もできない。《アカネの守り巣》完成までは、アカネだけを山に泊めない。


 その下に、もう一つ見出しを書く。


 《まだ分からないこと》

 啓介はペンを止めた。項目が多すぎる。一行消して、書き直す。


『ほぼ全部。』

 寝床から、「あぎゃ……」と眠そうな声が聞こえた。啓介は苦笑する。

 三崎に竜を診てもらった結果、病気は見つからなかった。代わりに、竜医学という、まだ存在しない学問が一つ増えた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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