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20/22

19話 おかえりなさい

長いです

その日の夕方。


 侯爵家の屋敷には、まだ緊張した空気が残っていた。


 エレノアは窓辺に立ったまま、何度目か分からないため息をついた。


 王都の騒ぎは、少しずつ収まりつつあるらしい。


 中央神殿で襲撃があった。


 けれど、王国騎士団がすぐに鎮圧した。


 そういう情報は入ってきていた。


 ただ。


 ジュリアンがどうなったのか。


 それだけが、まだ分からない。


「……無事よね」


 そう呟いた、そのとき。


 玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。


 そして。


「お嬢様、殿下がいらっしゃいました!」


 エレノアは急いで応接室へ向かった。


「エレノア!」


「……!」


 聞き慣れた声。


 開いた扉の向こうに、ジュリアンが立っている。


「ジュリアン……!」


 いつもの明るい茶色の髪。


 柔らかな目元に金色の瞳。


 見慣れた姿。


 けれど。


 服には少し埃がついていて、頬には小さな擦り傷がある。


「……怪我」


「これ?」


 ジュリアンは頬に触れた。


「大したことないよ」


「本当に?」


「本当」


 エレノアはジュリアンの姿を上から下まで確認する。


「他には?」


「ないよ」


「本当に?」


「本当に」


「……そう」


 エレノアは、ようやく息を吐いた。


「よかった……」


 小さく漏れた声。


 ジュリアンが目を瞬く。


「心配してくれた?」


「当たり前でしょう」


「そっか」


 ジュリアンが笑う。


「嬉しいな」


「……もう」


 エレノアは少しだけ眉を寄せた。


「こんなときまで、からかわないでください」


「ごめん」


 そう言いながら、ジュリアンは嬉しそうだった。


「でも、ちゃんと帰ってきたよ」


「……はい」


 エレノアは頷いた。


 そして。


 ふと、ジュリアンの金色の瞳を見る。


「……ジュリアン」


「ん?」


「聞きたいことがあります」


「何?」


「今日のことです」


「うん」


「いったい、何があったんですか?」


 ジュリアンは少しだけ黙った。


 それから、エレノアを見る。


「全部、話すよ」


「……本当に?」


「ああ」


 ジュリアンは頷いた。


「もう隠す必要がないからね」


 エレノアは静かに椅子へ腰を下ろした。


 ジュリアンも、その向かいに座る。


「俺はずっと、セリーナのいる敵の組織に潜入してた」


「……やっぱり」


「気づいてたよね」


「何となく……」


 エレノアは苦笑した。


「でも、まさか本当に潜入捜査だったとは思いませんでした」


「悪かったな。何も話せなくて」


「……仕方ないですよ」


 エレノアは少しだけ視線を落とした。


「私がなんとなく知ってしまったことも、言ってはいけないのだと思ってました」


「うん」


「ずっと、何をしているのか気になっていました」


「ごめん」


「……でも」


 エレノアは顔を上げる。


「無事に帰ってきてくれたなら、それでいいです」


 ジュリアンは少しだけ目を見開いた。


 そして、優しく笑った。


「ありがとう」


 少しの沈黙。


 けれど、エレノアにはまだ聞きたいことがあった。


「……聞きたいこと、いっぱいあるだろ?」


「あります」


「だよな」


 ジュリアンは苦笑した。


「何でも聞いていいよ。もう隠す必要もないし」


「……では」


 エレノアは少しだけ迷ってから、顔を上げた。


「ジュリアンは……いつから、こういうことをしていたんですか?」


「ああ」


 ジュリアンは少し考えるように視線を逸らした。


「実は、最初から諜報をやってたわけじゃない」


「え?」


「俺は普通に騎士団員だったんだ」


 エレノアが目を瞬く。


「じゃあ、どうして……」


「セリーナだよ」


「……」


「もともと、俺の見た目に近づいてくる女は多かったんだ」


「……そうですね」


 エレノアが妙に納得した顔をする。


「だから最初は、セリーナが近づいてきたときも、特に珍しいことだとは思わなかった」


「……」


「でも、話しているうちに妙なことに気づいた」


 ジュリアンの表情が少し変わる。


「ただ俺を誘惑したいだけじゃない。王弟である俺を利用しようとしてる」


「それで……」


「これを利用できるんじゃないかって、俺から志願した」


「自分から?」


「ああ」


 ジュリアンは頷いた。


「兄上には反対されたけどな」


「……でしょうね」


「それでも、それが一番効率がいいし、俺ならできると思ったんだ」


 エレノアは黙って聞いていた。


 ジュリアンは、少しだけ声のトーンを落とした。


「子供の頃、俺は他の兄上たちとはあまり上手くいってなかったんだ」


「……」


「母の身分が低いから、って。父上の側妃たちにも、よく半分って厭味を言われた」


「そんな……」


「でも、そのたびに助けてくれたのが、現王の兄上だった」


 ジュリアンは、少しだけ笑った。


「だから、今度は俺の番だと思ったんだ」


 エレノアは、その言葉を静かに受け止めた。


「それからは、セリーナには俺がどんどん夢中になっているように見せた。向こうが俺を籠絡しようとするなら、そのふりをしてやればいい」


「……だから」


 エレノアは小さく呟いた。


「最初から、あんなに……」


「ん?」


「女遊びが激しい人だと思われていたんですね」


「まあ、それも都合がよかったからね」


 ジュリアンは苦笑する。


「女好きで、王位にも興味がなくて、何も考えてなさそうな王弟」


「……」


「そういう男なら、利用する側も警戒しないだろ?」


「確かに……」


 エレノアは納得したように頷いた。


 けれど。


 ふと、以前のジュリアンを思い出す。


 いつも軽く笑っていて。


 何を言っても、こちらをからかって。


 女遊びの噂が絶えなくて。


 ずっと、そういう人なのだと思っていた。


「……全部、演技だったんですか?」


「全部ってわけじゃないよ」


「え?」


「女の子と話すのが嫌いなわけじゃないし、軽く見えるのも俺の性格だから」


「……」


「ただ、あえてそう見えるようにしてた部分はある」


 ジュリアンは少し笑った。


「特に、敵の目が俺に向いてからはね」


「……そうだったんですね」


「ああ」


 エレノアは、ふと眉を寄せる。


「では……セリーナと二人で会っていたのも」


「情報を集めるため」


「お酒を飲んだり、街を歩いたりしたのも?」


「それも」


「……」


 エレノアが黙る。


 ジュリアンは少しだけ笑った。


「何?」


「いえ……」


「気になる?」


「……少し」


「そっか」


 ジュリアンは嬉しそうに笑った。


 エレノアは小さく咳払いをして、話を戻す。


「それで、今日の襲撃は……」


「ああ」


 ジュリアンの表情が変わる。


「敵の狙いは、中央神殿だった」


「……やっぱり、あの煙は……」


「礼拝の日に襲撃して、王家への不満を煽る。そのために、俺を敵側の象徴として神殿の前に立たせるつもりだったんだ」


「……ジュリアンを?」


「金眼の王弟が、自分たちの側にいる。それだけで意味があると思ったんだろうな」


 ジュリアンは自分の瞳を指差して、苦笑した。


「だから、言われた通りに立ってたよ。騎士団が動くまではね」


「……」


「渡していた情報も、半分は偽物だった。敵が逃げ道だと思っていた場所には、最初から騎士を置いてた」


「……すごい」


 思わず、エレノアの口から言葉が漏れた。


「そんなところに、一人で……」


「一人じゃないよ」


 ジュリアンは安心させるように笑った。


「騎士団は決められた場所に配置されてたし、火薬の大半は事前に押さえてあった。爆発で怪我をした人は何人かいたけど、死者は出てない」


「……よかった」


 エレノアは胸を撫で下ろした。


「……怖くなかったんですか?」


「怖かったよ」


「え?」


 ジュリアンは少し意外そうに笑った。


「俺だって人間だからね。正体がばれたら、本当に敵の真ん中だ」


 そう言ってから。


 ジュリアンは、いつもの調子に戻る。


「まあ、エレノアと結婚する前に死ぬわけにはいかないし」


「……!」


 エレノアの頬が赤くなる。


「そんなことを、さらっと言わないでください」


「本当のことだろ?」


「……そうですけど」


 ジュリアンは笑った。


「だから、絶対に帰ってくるって決めてた」


「……」


 エレノアは少しだけ目を伏せた。


「……帰ってきてくれて、よかったです」


「ああ」


 ジュリアンも静かに答えた。


「俺も」


 少しの沈黙。


 けれど。


 エレノアには、まだ一つだけ聞きたいことがあった。


「……あの」


「ん?」


「もう一つ、いいですか?」


「もちろん」


 エレノアは少し迷ってから口を開いた。


「セリーナのことなんですが」


「うん」


 エレノアはジュリアンを見る。


「本当に、そういう関係だったわけではないんですか?」


「ないよ」


 あまりにも即答だった。


 エレノアは少しだけ目を瞬く。


「……本当に?」


「本当に。お前が思ってたような関係じゃない」


「でも……、キスマークがありましたよね?」


「ああ」


 ジュリアンは少し気まずそうに笑った。


「キスはした、かな?」


「…………」


 エレノアの顔が固まった。


「……したんですか?」


「うん」


「……」


「でも、本当にそれだけだよ」


「……そうですか」


 エレノアは目を伏せた。


 なぜだか、胸の奥が少しだけざわつく。


「潜入捜査だから、仕方なかったんだ」


「……」


「信用してもらうために必要だった」


「……必要だったんですか?」


「必要だった」


「……」


 エレノアは黙り込んだ。


 ジュリアンが首を傾げる。


「エレノア?」


「……私とは、してないのに」


「え?」


「……何でもありません」


「いや、今なんて言った?」


「何も言ってません」


「言っただろ」


「言ってません!」


 エレノアの頬が一気に赤くなる。


 ジュリアンは、しばらく彼女を見つめていた。


 そして。


 ゆっくりと笑った。


「……もしかして」


「何です?」


「俺とキスしたかった?」


「違います!」


「でも、『私とはしてない』って」


「それは……!」


 エレノアは言葉に詰まった。


 自分でも、どうしてそんなことを口にしたのか分からない。


 ただ、ジュリアンがセリーナとキスをしたと聞いたとき。


 嫌だった。


「……だって」


 小さな声が漏れる。


「私たち、婚約者なのに……」


 ジュリアンが黙った。


「……」


 エレノアはますます顔を赤くする。


「……何か言ってください」


「いや」


 ジュリアンは困ったように笑った。


「嬉しくて」


「……え?」


「お前がそんなこと言うとは思わなかったから」


「……忘れてください」


「無理」


「忘れてください!」


「絶対忘れない」


 ジュリアンは楽しそうに笑った。


 そして、少しだけエレノアとの距離を縮める。


「じゃあ、今からしてもいい?」


 エレノアは目を見開いた。


「……!」


「嫌ならやめるけど」


「…………」


 しばらく迷ったあと。


 エレノアは、小さく頷いた。


 ジュリアンは、ふっと笑った。


 そして。


 今度は誰かを騙すためではなく。


 誰かを利用するためでもなく。


 ただ、目の前にいる婚約者に触れるために。


 ジュリアンは、そっとエレノアに顔を近づけた。


 触れるだけの、短いキス。


 ほんの一瞬だった。


 けれど。


 離れたあとも、二人とも何も言えなかった。


「……」


「……」


 先に顔を伏せたのはエレノアだった。


「……恥ずかしいです」


「俺も」


「嘘でしょう」


「本当だよ」


 ジュリアンは笑った。


「セリーナとのときより、ずっと緊張した」


「……比較しないでください」


「ごめん」


 エレノアは少しだけ笑った。


 ジュリアンは、ふと笑みを収めた。


「エレノア」


「はい」


「ずっと、お前が自分で言ってくれるのを待つつもりだった」


「……!」


 エレノアは顔を上げた。


 ジュリアンの金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。


「でも、もう隠すことは何もないから、言わせて」


「……」


「好きだよ」


 静かな声だった。


「ずっと。子供の頃から、ずっと特別だった」


「……子供の頃から?」


「お前は覚えてないかもしれないけど」


 ジュリアンは少し照れたように笑う。


「俺は、覚えてる」


 エレノアの胸が、大きく鳴った。


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


 いや。


 理解できてしまったから、言葉が出てこなかった。


 ずっと。


 あの軽薄な笑顔の裏で、この人は。


「……ジュリアン」


「うん」


「私も……」


 声が震える。


 エレノアは、膝の上で手を握りしめた。


 誕生日の夜に気づいた気持ち。


 言えないと思っていた言葉。


「……私も、好きです」


 ジュリアンが、目を見開いた。


「……もう一回」


「い、言いません」


「聞こえなかった」


「嘘です」


「本当に」


「絶対聞こえてました!」


 エレノアの顔が真っ赤になる。


 ジュリアンは、たまらないというように笑った。


 そして、そっとエレノアの手を取る。


「ありがとう」


「……」


「ずっと、それが聞きたかった」


 エレノアは、握られた手を見つめて、小さく笑った。


「……おかえりなさい」


 ジュリアンは、一瞬だけ目を見開いた。


 それから。


「ただいま」


 いつもの軽い笑顔ではなく。


 心から嬉しそうに笑った。


 長かった潜入捜査も。


 セリーナとの偽りの関係も。


 王家の金眼を利用した敵の計画も。


 すべて終わった。


 ようやく。


 ジュリアンは、何も隠さずにエレノアの前に戻ってくることができた。

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