1話 婚約者の噂
あの夜から、一週間が経った。
王立学園では、相変わらずジュリアン王弟殿下の噂が飛び交っていた。
「また娼館に行かれたんですって」
「今度は三日続けてですってよ」
「まあ……婚約者がいるのに?」
「王位継承権を外させるために、無理矢理婚約させられたって話もあるみたいよ」
聞きたくなくても、嫌でも耳に入ってくる。
エレノアは机の上に広げた教科書へ視線を落としたまま、何も聞こえていないふりをした。
もう慣れている。
ジュリアンが女遊びをしているという噂も、婚約者である自分を放って他の女性と遊び歩いているという噂も。
政略結婚なのだから、そんなものだ。
自分だって、婚約が決まったときに特別な感情があったわけではない。
幼い頃に一度会った相手と婚約することになり、両親にそう告げられて、
『今日あった男の子と婚約の話が出ているんだけど、どう?』
と聞かれた。
『いいよ』
それだけだった。
ジュリアンも嫌がらなかったらしい。
それで婚約が決まった。
だから、ジュリアンがこの婚約をどう思っているかなんて、今さら気にすることでもない。
「また噂になってるわね」
隣から友人のクラリスが声をかけてきた。
クラリスは王太子オスカーの婚約者で、王太子妃となることが決まっている公爵令嬢だが、二人でいるときは身分を意識することもなく、気軽に話せる友人だった。
「……そうね」
エレノアは顔を上げずに答える。
「気にならないの?」
「まあ、いつものことだから」
「……あら」
クラリスが少し意外そうな声を出す。
「怒ってないのね。珍しい」
「もう慣れたわ」
エレノアは淡々と答えた。
以前なら、ジュリアンの女遊びの噂を聞くだけで腹が立っていた。
婚約者がいるというのに、どうしてそんな噂ばかり立つのか。
少しくらい自重すればいいのに、と。
けれど今は、違った。
――あの夜を見てしまったから。
「まあ、エレノアが怒らなくなったなら、いいことなのかもしれないわね」
「……そうね」
クラリスはそれ以上、何も言わなかった。
エレノアも、教科書へ視線を戻す。
もう慣れた。
そう言った。
けれど。
(……本当に、そうなのかしら)
あの夜のことが、どうしても頭から離れなかった。
セリーナに向けていた、あの甘い笑顔。
耳元で囁く声。
女性を扱い慣れているような、あまりにも自然な仕草。
そして、彼女が立ち去った瞬間。
まるで別人のように消えた笑顔。
冷たく変わった金色の瞳。
『なかなか、尻尾を出さないな』
あの声が、今も耳に残っている。
(……ただの浮気ではないわ)
それだけは、なぜか確信していた。
では、一体何なのか。
考えても分からない。
本人に聞くこともできない。
そもそも、
『あの夜、セリーナさんと何をしていたのですか?』
などと聞けば、まるで自分が気にしているようではないか。
そんなことは、絶対に嫌だった。
結局、エレノアは何も聞けないまま、一週間を過ごした。
◇ ◇ ◇
そして週末。
侯爵家の屋敷に、いつもの来客が訪れた。
「エレノア様、ジュリアン殿下がお見えです」
「……分かったわ」
エレノアは立ち上がった。
いつもの週末。
いつものように、婚約者が会いに来る。
それだけのことだ。
そう思いながら応接室へ向かった。
扉を開ける。
「やあ、エレノア」
そこには、いつものジュリアンがいた。
明るい茶色の髪をふわりと揺らし、柔らかな目元に金色の瞳を細めて笑っている。
「……遅かったですね」
「そう? ちゃんと約束の時間には間に合ってるだろ」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、何?」
「……別に」
エレノアがそっぽを向くと、ジュリアンは楽しそうに笑った。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「会って早々、俺に文句を言うところ」
「あなたが余計なことを言うからでしょう」
「はいはい」
いつも通り。
本当に、いつも通りだ。
軽薄そうな笑顔も。
人をからかうような口調も。
何も変わっていない。
なのに。
エレノアの脳裏には、あの夜の冷たい横顔が浮かんでいた。
目の前にいる男と、あの夜の男。
本当に、同じ人なのだろうか。
「……何?」
「え?」
気づけば、ジュリアンがこちらを覗き込んでいた。
「さっきから、俺の顔をじっと見てるけど」
「見ていません!」
「いや、見てたよ」
「……じっとではなく、少し!見ていただけです」
「へえ?」
ジュリアンが面白そうに笑う。
「珍しいな。惚れ直した?」
「そんなわけないでしょう!」
思わず即答すると、ジュリアンは声を上げて笑った。
「そこまで全力で否定する?」
「当然です!」
「……まあ、そうだよな」
ジュリアンは小さく笑った。
エレノアはそんな彼を見ながら、心の中で小さく息を吐く。
(……やっぱり、分からない)
この人は、一体何を考えているのだろう。




