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プロローグ

夜会の熱気から逃れるように、エレノアは離宮の裏庭へと足を向けていた。


 婚約者であるジュリアン王弟殿下の姿が、しばらく前から広間から消えていた。


 誰かに呼び出されたのか、それとも――また、あの噂の女のところへ。


「別に、気になんてしていないんだから」


 誰にともなく呟いて、エレノアは生垣の角を曲がったところで足が止まった。


 月明かりの下、噴水のそばに人影が二つ。


 一人はジュリアン。


 もう一人は、ワインレッドの豊かな巻き毛を夜風になびかせた、噂の女――セリーナだ。


 エレノアは反射的に生垣の陰に身を隠した。


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。


(見なければよかった)


 そう思う一方で、目が離せなかった。


 聞こえてきた会話は、案の定というべきか、甘いものだった。


 セリーナがジュリアンの胸元に指先を這わせながら、艶やかに微笑んでいる。


「殿下は、本当にお人が悪い。……こんな風に女を惑わせて、楽しいの?」


 距離を詰めるように爪先立ちになり、セリーナの吐息がジュリアンの耳元にかかる。


 ジュリアンはそれを拒むでもなく、少し目を細めて、蕩けるような声で応じた。


「惑わされているのは、俺の方かもしれないな」


 夜会でエレノアに向けるのと同じ、気だるい笑み。

 

 セリーナの手を取り、その指先に唇を寄せる仕草も、堂に入ったものだった。


(本当に、噂通りなんだ)


 胸の奥が、ちりっと焦げるような感覚がした。

 それが悔しさなのか、悲しさなのか、エレノアにはよく分からなかった。


 分かりたくもなかった。


「また、来てくださる?」


 セリーナが、確かめるように、あるいは試すように尋ねる。


 ジュリアンは彼女の腰にそっと手を添え、耳元で囁くように答えた。


「ああ、もちろん。君に会えない夜は退屈で仕方がない」


 セリーナは満足げに微笑むと、優雅に一礼して闇の中へと消えていった。


 ――その気配が完全に遠ざかった、次の瞬間だった。


 ジュリアンの顔から、笑みが消えた。


 まるで舞台の幕が下りるように、あの甘く蕩けた表情がすっと引いて、そこに残ったのは見たこともないほど冷ややかな横顔だった。


「――なかなか、尻尾を出さないな」


 独り言のように落とされたその声は、低く、静かで、どこまでも冷えていた。


 先ほどまでの甘さは、まるで最初から存在しなかったかのようだ。


 エレノアは、息をするのも忘れていた。


 浮気を疑っていたはずだった。

 

 目の前で証明されて、腹を立てるはずだった。


 それなのに今、胸を占めているのはそのどちらでもない。


(今の人は、誰なの)


 自分の知っているジュリアンでも、噂に聞くジュリアンでもない、まったく別の誰かが、そこに立っているようだった。


 やがてジュリアンは、何事もなかったかのようにいつもの笑みを顔に貼り付け、夜会の明かりの方へと歩き去っていく。


 エレノアはしばらく、生垣の陰から動けなかった。


(今の……何だったの)


 問いは、その夜、答えを得ることはなかった。

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