16話 襲撃の日
そして、襲撃の日がやってきた。
朝から、侯爵家の屋敷はどこか落ち着かなかった。
いつもなら使用人たちが行き交う廊下も、今日は妙に静かだ。
門の前には、普段より多くの護衛が立っている。
父は、夜明け前に王宮へ向かった。
エレノアは窓の外を眺めながら、小さく息を吐いた。
昨日の夜、ジュリアンが突然やってきた。
『明日は、絶対に屋敷から出るな』
『どうしてですか?』
『ちょっと王都が騒がしくなるかもしれないから』
『……何かあるんですか?』
そう尋ねても、ジュリアンは答えなかった。
ただ、少し困ったように笑って。
『何も心配しなくていい、明日終わる』
そう言った。
出がけの父にも、同じことを言われた。
『今日は外へ出るな。友人との約束も断りなさい』
『そんなにですか?』
『念のためだ』
父は、それ以上何も教えてくれなかった。
「……念のため、ね」
エレノアは呟いた。
念のため、というだけで、宰相が夜明け前に登城するはずがない。
本当は何が起きようとしているのか。
エレノアには、分かっていた。
あの路地で聞いた、切れ切れの言葉。
武器。
セリーナ。
中央神殿。
今日が、その日なのかもしれない。
父は、きっと知っている。
ジュリアンも、自分が知ってしまったことを、知られたくなかったはずだ。
だから、聞かなかった。
誰にも、言わなかった。
行ったところで、自分には何もできない。
足手まといになるだけだ。
だから、待つ。
彼が、そう言ったから。
エレノアは、胸元のネックレスに触れた。
水色の石が、指先で小さく揺れる。
(ジュリアン……)
昨日のジュリアンは、いつもと少し違っていた。
いつもより長く、こちらの顔を見ていた。
そして、肩に手を置いて、
『また来る』
そう言った。
まるで、何かを言い聞かせるように。
あれは、私に言ったのかしら。
それとも、彼自身に言い聞かせていたのかしら。
「……変なの」
エレノアは窓から離れて、椅子に腰を下ろした。
しばらくして、侍女が紅茶を運んできた。
「エレノア様、少しでも召し上がってください」
「ありがとう」
カップを手に取る。
けれど、口をつける気になれなかった。
湯気が、ゆっくりと細くなっていく。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて、紅茶はすっかり冷めてしまった。
それでも、エレノアはカップを置けずにいた。
窓の外は、腹が立つほどよく晴れている。
遠くの空に、鳥が一羽、ゆっくりと横切っていく。
こんなに穏やかな朝に、あの人は、どこにいるのだろう。
何をしているのだろう。
危ないことをしていないだろうか。
考え始めると、同じところをぐるぐると回ってしまう。
エレノアは、小さく首を振った。
そのとき。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
――ゴーン。
いつもの、礼拝の始まりを告げる鐘だ。
エレノアは、はっとして顔を上げた。
中央神殿。
そういえば、今日は礼拝の日だった。
今、あの神殿には、大勢の人が集まってい
る。
(……まさか)
鼓動が、ゆっくりと速くなる。
立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
空は、変わらず晴れていた。
何も、起きていない。
鐘の余韻が消えていく。
訪れた静けさが、かえって怖かった。
エレノアは、ネックレスを握りしめた。
水色の石が、掌に冷たい。
(お願い)
誰にともなく、祈る。
(無事でいて)
帰ってきたら、何て言おう。
言いたいことは、たくさんある。
けれど、まず言うことは、決まっていた。
おかえりなさい。
それだけは、絶対に。
そのときだった。
――ドォン。
遠くで、腹に響くような音がした。
窓ガラスが、かすかに震える。
「……!」
屋敷の中で、使用人たちがざわめき始めた。
続けて、鐘が鳴る。
礼拝の鐘とは違う。
短く、何度も、叩きつけるように鳴らされる、警鐘。
窓へ駆け寄る。
遠くに見える王都の街。
そこから、黒い煙が上がっていた。
「……!」
エレノアの胸が、大きく跳ねた。
中央神殿のある方向。
その瞬間。
昨日のジュリアンの言葉が、頭の中に蘇った。
『明日は、絶対に屋敷から出るな』
「……ジュリアン?」
膝から、力が抜けそうになる。
嫌な予感がした。
けれど、エレノアには何もできない。
父に止められている。
ジュリアンにも、絶対に出るなと言われた。
それでも。
窓の向こうに広がる煙を見ていると、じっとしていられなくなる。
気づけば、扉の方へ、足が向いていた。
「……っ」
エレノアは、その場で足を止めた。
行っても、何もできない。
あの人が、自分にだけ「待っていろ」と言った意味を、壊してはいけない。
エレノアは、窓辺へ戻った。
両手を、強く握りしめる。
爪が、掌に食い込んだ。
「……待つわ」
小さな声で、そう言った。
「あなたが、帰ってくるまで」
黒い煙は、青い空に、ゆっくりと溶けていく。
エレノアは、それから長い間、窓辺から動かなかった。




