12話 キスマーク
誕生日から、数日が経った。
週末になり、ジュリアンが侯爵家を訪れた。
「やあ、エレノア」
「こんにちは、ジュリアン」
いつものように挨拶を交わす。
けれど、エレノアは少しだけ緊張していた。
誕生日に会えなかったことを、まだ少し寂しく思っている。
そんな自分を、ジュリアンに悟られたくなかった。
「この前は、ごめん」
「……何がです?」
「誕生日」
ジュリアンは申し訳なさそうに笑った。
「せっかく約束してたのに、行けなくなって」
「仕事だったのでしょう?」
「うん」
「なら、仕方ありません」
「でも、本当にごめん」
「もういいです」
エレノアはそう言って、紅茶に口をつけた。
「それに、プレゼントは嬉しかったです」
「本当?」
「ええ、ありがとうございます」
「よかった」
ジュリアンがほっとしたように笑う。
エレノアは、その顔を見て少しだけ胸が温かくなった。
――やっぱり、この人が好きなのだ。
そう思うと、以前とは少し違って見える。
いつもの笑顔も。
声も。
自分を見る金色の瞳も。
全部、少しだけ特別に感じた。
ふと、ジュリアンが首元に視線を向けた。
「つけてくれてるんだ」
「え?」
「ネックレス」
「あ……」
エレノアは首元に手をやる。
誕生日にもらった金の鎖と水色の石。
今日もつけていた。
「気に入った?」
「……はい」
「そっか」
ジュリアンは嬉しそうに笑った。
「似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
エレノアは少しだけ顔を伏せた。
そのときだった。
「そういえば――」
何気なく顔を上げたエレノアの目に、ジュリアンの首元が入った。
「……」
そこに、赤い跡があった。
襟元から、ほんの少しだけ覗いている。
一瞬、何なのか分からなかった。
けれど、エレノアの表情が固まる。
「……どうした?」
ジュリアンが尋ねる。
「いえ……」
エレノアは視線を逸らした。
見なかったことにしよう。
そう思った。
けれど、一度気づいてしまうと、どうしても気になる。
あれは。
――キスマーク。
そう、分かってしまった。
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
以前なら、腹が立った。
呆れた。またか、と嫌味の一つでも言っただろう。
けれど今は、ただ苦しい。
自分は、この人が好きだから、こんなものを見たくなかった。
「エレノア?」
「……何でもありません」
「本当に?」
「ええ」
エレノアは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……」
ジュリアンが、じっとこちらを見ている。
「どうした?」
「何がです?」
「いや……」
ジュリアンは少し首を傾げた。
エレノアは紅茶に視線を落とした。
「……ジュリアンは、忙しいのでしょう?」
「まあ、それなりに」
「そうですか」
「それが?」
「いえ」
言えるわけがない。
その首の跡は何ですか、なんて。
誰につけられたんですか、なんて。
まして――。
嫌です、なんて。
「……」
エレノアはカップを置いた。
指先が、少し震えていた。
ジュリアンはそれを見逃さなかった。
「エレノア」
「はい」
「今日、なんか変じゃない?」
「……そうですか?」
「うん」
「気のせいです」
「またそれ?」
いつものやり取り。
なのに今日は、笑えなかった。
ジュリアンはしばらくエレノアを見ていた。
そして、ふと自分の首元に触れた。
「……これ?」
「!」
エレノアの肩が小さく揺れた。
ジュリアンは、それだけで察した。
「気づいた?」
「……何のことです?」
「この跡」
エレノアは黙り込んだ。
「……」
「見えてたんだな」
「……」
ジュリアンは少し困ったように笑った。
「悪かった」
「どうして謝るんです?」
「いや……」
ジュリアンは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「見たくないものだったかなって」
「……」
エレノアは答えられなかった。
その沈黙が、答えだった。
ジュリアンは小さく息を吐いた。
「仕事でついたものだよ」
「……仕事?」
「ああ、悪いけど詳しくは言えないんだ」
任務の内容を話すことはできない。
エレノアはそれを知っている。
けれど――。
「……そうですか」
それだけしか言えなかった。
「信じてくれる?」
エレノアは顔を上げた。
ジュリアンの金色の瞳と目が合う。
「信じます」
それは嘘ではなかった。
ジュリアンが何かを隠していることも。
セリーナとの関係に別の事情があることも。
エレノアは知っている。
だから、信じることはできる。
「ありがとう」
「……でも信じることと、嫌じゃないことは別です」
ジュリアンが目を見開いた。
エレノア自身も、言ってから驚いた。
「……すみません」
「いや」
ジュリアンはゆっくり首を振った。
「謝らなくていい」
「でも……」
「そりゃ、嫌だよな」
少し寂しそうに笑う。
「俺だって、自分の婚約者にこんなの見せたいわけじゃない」
「……」
「でも、やらなきゃいけないことだから」
「分かっています」
エレノアは俯いた。
「分かっているんです」
だから余計に苦しい。
理屈では分かっている。
ジュリアンが悪いわけではない。
それでも、感情は別だった。
「……」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ジュリアンが立ち上がった。
「今日は、もう帰るよ」
「え?」
「なんとなく、今日は俺がいるとお前が辛そうだから」
「そんなこと……」
「無理しなくていい」
ジュリアンは優しく笑った。
「また来るから」
「……はい」
ジュリアンが部屋を出ていく。
扉が閉まったあと。
エレノアは一人、胸元のネックレスを握った。
水色の石が、指の間で冷たく光っている。
「……好きになんて、ならなければよかった」
小さく呟く。
けれど。
本当にそう思っているわけではなかった。
好きになったことを後悔しているのではない。
ただ――。
好きだからこそ、こんなにも苦しいのだと。
エレノアは初めて知った。
◇ ◇ ◇
侯爵家を出たジュリアンは、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
ようやく一人になったところで、ジュリアンは大きく息を吐いた。
「……やっちゃったな」
自分の首元に手をやる。
あの跡のことだ。
もちろん、気づいていた。
任務が終わったのは、エレノアのところへ向かう直前だった。
着替える時間もほとんどなく、身なりを整えるだけで精一杯だった。
首に跡が残っていることも分かっていた。
だから、本来なら出る前に確認するべきだった。
襟で隠れているか。
見えていないか。
それを確認してからエレノアのところへ行くべきだった。
けれど。
今日は、どうしても顔を見たかった。
誕生日に会えなかったことも気になっていた。
早くエレノアに会って、直接謝りたかった。
そのことばかり考えていて――。
「……完全に失敗した」
ジュリアンは苦笑した。
案の定、エレノアには見られた。
しかもあんな顔をさせてしまった。
ジュリアンは目を伏せる。
エレノアが自分のことを好きなのかもしれない。
そのことは、正直嬉しい。
けれど、それ以上に、彼女を傷つけたことが、気になっていた。
「……悪かったな」
誰もいない馬車の中で呟く。
あの顔を、もう見たくない。
自分のせいでエレノアが苦しむところなんて。
それなら――。
ジュリアンは窓の外へ視線を向けた。
「早く終わらせないとな」
今までだって、任務を終わらせたいとは思っていた。
自分が1番適任だし、兄のためにも引き受けた仕事だ。
途中で投げ出すつもりなど、もちろんない。
けれど、今まではどこかで、この生活がいつまでも続くような気がしていた。
自分には、自分の役割がある。
ハニートラップに引っかかったフリをして、情報を集め、偽の情報を流す。
それが自分の仕事なのだと。
けれど、今は違う。
エレノアと結婚する。
その日が、もう遠くない。
卒業すれば、二人は夫婦になる。
「……少なくとも、それまでには終わらせないと」
ジュリアンは静かに呟いた。
エレノアを、この件に巻き込みたくない。
結婚してからも、自分がいつ戻ってくるか分からないような生活を続けるなんて、考えたくなかった。
朝送り出した夫が、どこで何をしているのかも知らされない。
そんな生活を、エレノアにさせたくない。
「……もう少しだ」
敵組織の動きは、だいぶ見えてきている。
あと少し。
もう少しで、尻尾を掴める。
そうなれば、一気に潰せる。
ジュリアンは拳を握った。
今までなら、焦る必要はないと思っていた。
慎重に進めればいい。
時間をかけても、確実に。
そう考えていた。
けれど今は――。
「早く終わらせたいな」
初めて、心からそう思った。
任務を終えて。
何も隠さずに、エレノアに会いたい。
彼女の前で、セリーナと会う必要もなく。
ただのジュリアンとして。
エレノアの婚約者として。
彼女の隣にいたい。
そう思った。
そして、そのためにも。
今まで以上に慎重に、けれど確実に任務を進めなければならない。
ジュリアンは窓の外を見ながら、小さく笑った。
「……結婚までには、絶対に終わらせる」
それは兄への恩返しのためだけではなくなっていた。
自分自身のために。
そして――。
エレノアのために。
そう決めた。




