表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下恋歌  作者: 梨千子
第四章「南風、吹く」
28/36

第六話「雪解」

 葬儀は、しめやかに行われた。

 

 この国では、死者は白で送られるらしい。

 その身を包む装束。几帳の布。御簾の紐。見送る人々の衣まで。すべて白い。

 この世ではない色――。


 永遠の眠りの中にあってなお、その人は美しく整えられていた。

 生前の、曼殊沙華のような空気はどこにもなかった。今は、雪と呼ばれるあの小さな花のような優美さだけがある。

 それを包みこむ淡い煙。焚かれた香木から立ち上る、鷹宮の香り。

 香炉の近くに、短剣が置かれていた。死の間際まで彼が握っていたもの。紅の鞘。その上に描かれる螺鈿の意匠――咲きかけの白椿。時親が静かに整えたもの。


 彼のそばに、真っ白な綾子がややうつむいて座っていた。

 髪は艶やかに背に流され、化粧を施された顔は美しい。けれど、泣きはらした瞳がある。その細い手の爪が、割れている。


 竹で編まれた鳥籠が脇にあった。

 読経の終わり、その鳥が――鳴いた。

 美しい鳴き声だった。


 綾子の顔が上がった。

 唇がわななき、片方の目から、涙がひとつ頬を伝う。

 ぬぐうこともせず、必死に息を吐く。綾子は竹籠に手を伸ばした。


 開かれた籠から、鶯が飛び立った。

 礼を言うように、もう一度鳴いてみせる。どこまでも澄み渡り、遠くまで通る声。


 その声を聞き届けて、綾子がすうと息を吸った。


「問はれしを――」


 かすれた声が、空気に溶ける。


「忘れぬままに、春は来て……」


 綾子の手が、夫の手を求めて伸ばされる。もう届かない。


「鳴く鳥のこゑ、君を呼びたり――」


 咲夜はそれを、黙って聞いていた。

 彼女の喪失。痛み。万感の思いが積み重なった――それは、綾子のものだった。

 簡単に声をかけて、咲夜のものにしてはならない。そんな気がした。


 あの日、竹流が告げた言葉の意味が、今はよくわかる。

 

 ――これは、おまえの物語だ。だから、おまえが決めて、選ぶんだ。


 鷹宮は、自ら物語の終着点を作りにいった人だったのかもしれない。それが彼の選択だったのか。咲夜には、わからない。


 綾子の物語はどうだろう。彼女はこれから、どう生きることを選ぶのだろう。

 時親は?


 ……自分は――。


 

 ***


 

「出家しようと思うのです」


 葬儀の翌日。


 幸い、鎮火が早かったので、宮中は半分以上残っていた。

 以前の通りとはいかなかったが、居を移し、少しずつ暮らしを取り戻せると思っていたところへ、綾子が咲夜に言った。


「出家……?」


 出家という言葉の意味するところを、咲夜は知らない。

 けれど、綾子の眼差しは強く、それが生半可な決心ではないというのは伝わる。


「世俗を捨て、仏門に入ることですわ」

 

 綾子は、そんな咲夜のことをお見通しだというふうに笑う。


「わたくしは、貴族の娘として生まれ、政略結婚で皇太子妃となりました。わたくしと鷹宮様の間に子はおりません。側室たちの子は幼く、後を継げる立場におりません」


 腹を一度そっと撫で、綾子は、一刻も早く強い皇太子が必要ですから、と付け足すように言った。


「それでもわたくしの身は政治的な価値がある。きっと、わたくしはどなたかに望まれる。わたくしはそれを望みません」


 たおやかな手が、自らの胸を押さえる。


「わたくしは、もう選びました。後の生は、あの方の近くで、静かにありたい」


 最初の頃は、儚げで今にも消えてしまいそうだったのに。

 強い眼差し。美しい。


「そう――」


 咲夜は笑った。

 にっこり満面の笑み――とはいかなかった。

 出家というものを、はっきりと理解したわけではない。ただ、綾子はきっとここから去るのだろう。

 ふっと胸の内に風が通り抜ける感覚に、少しだけ眉が下がる。


 ああ、けれど。

 今の綾子は前よりもっと綺麗で、ずっと好きだなあ、と思うのだ。


 綾子を見送ると、咲夜は一人になった。

 

 臨時の新しい居は、本来は帝の妃に与えられる殿らしい。以前は時親の母親が住んでいたが、すでに主がいなくなって久しいと言っていた。

 中庭の白梅だけが、残されている。

 白梅は満開だった。

 香りが、宮に満ちている。

 時親も幼い頃は、ここで過ごしたのだろうか。

 十二年。戻らぬ間に、女主人はいなくなった。

 

 風に乗って、かすかに喧騒が聞こえる。

 火事の影響で、都は多くの死者を出し、建物は大きな被害を受けた。紗乃と重孝は無事だった。けれど、時親の従者が一人、亡くなった。


 時親は、現状、帝に次いで身分がある。立て直しの指揮を執る人物が必要で、実務に引きずり出されている。おそらく、皇籍に戻って皇太子になるだろう、と重孝が言っていた。


「白湯を入れ直しましょうか」


 紗乃が、顔を覗かせて言った。

 咲夜は答えずに、その顔をじっと見つめた。


「咲夜様?」

「……ううん、なんでもない。白湯はいらないかな。出かけるから」

「どちらへ?」

 

 立ち上がる。

 ひら、と白梅の花びらが一枚、風に舞った。咲夜の方に飛んでくる。

 掌で受け止め、握りこんだ。


「時親のところよ。どこにいるか知ってる?」

「さあ。存じ上げません」

 

 紗乃はそう返事をしたが、もう半年以上一緒にいるのだ。その顔は、知っている顔だ。

 妻が夫の職場を訪ねるというのはよくない、ということなのだろうが。


「来てって言ったのに、全然来ないんだもの。私が行くしかないじゃない?」


 この数日で、時親に会ったのは葬儀の時だけだった。

 理屈はわかる。都も宮中も混乱中で、時親がいなければ成り立たないのだということは。

 しかし、紗乃に言伝を頼んだり、慣れない筆で文まで書いたりしたのに、彼は無視している。返事くらい、してくれてもいいのではないか。


 綾子はこの数日で、自分の道を決めた。

 それを見届けたから、充分、咲夜は待ったと思うのだ。


 紗乃は、それでもしばらく口を結んでいた。

 にらみ合いを続ける。

 人が集まっているところに行って、聞いて回るしかないか、と思ったとき。

 やっと紗乃が息をついた。


「……今のお時間でしたら、左近衛府かと。午後からも合議らしく、そう遠くなく戻られると思いますわ」

「ありがとう紗乃!」

 

 咲夜の顔が輝いた。


 屋敷を飛び出す。

 紗乃の声が追いかけてきたが、聞いていないふりをした。


 春の日差しの中を、走る。

 重い(うちぎ)が邪魔で、途中で脱いでしまった。


 渡殿を抜けると、途端にたくさんの人がいる。疾走する咲夜の姿に、ぎょっと驚いて道を開けていく。

 左近衛府は東のはずだ。まず、この内側を抜けて、そこから東へ折れて……。


「遠い……!」

 

 火事の時も思ったが、この履き物は走りにくくていけない。もう足が痛い。

 履き物を脱いだ。

 

 何も、地上の道順で走らなくても、と思い直した。

 咲夜が龍を呼び火を消し止めたことは、都どころか、遠い地にも知れ渡っているのだ。

 いまさらだ。


 履き物を叩く。黄金の光が走る。もう一度、履き直す。

 それで地面を蹴る。ふわりと体が浮き上がる。階を上るように、空を走る。

 本来は門をくぐらなければたどり着けない場所にも、これならまっすぐにたどり着ける。

 

 見えた。左近衛府!

 

 ちょうど、建物から人影が現れる。

 深縹(こきはなだ)の直衣。裾に沿う太刀。その歩き方――何より、半歩後ろに控える大男。


 咲夜は、一直線に下りた。

 

「何奴!」

 

 近衛たちが色めき立つ。

 太刀に手が伸びる。空気が張り詰めた。


 時親が、手を上げた。


「……咲夜。なぜ、ここに」


 低い声で、名を呼ばれる。

 咲夜は、むっと唇を曲げた。歓迎されていないらしい。ひどい。

 問いは無視して近づいた。その直衣をつかみ、


「重孝。ちょっと時親を借りるから」


 と、後ろの男に宣言した。


 重孝は一瞬、目を見開いた。

 すぐに無表情に戻って、うなずく。


「わかりました」

「な――重孝!」

「こちらで予定を調整しておきます」

「ありがとう。じゃあ借りていくね!」

 

 時親が何かを言いかける。

 咲夜は無視して、その体を空へ引き上げる。

 空を蹴る。すぐに地上と距離が開いた。

 

 ひとつ、息をつく音が聞こえた。


「……どこに、行くつもりだ」

「決めてない」


 話ができればそれでよかった。

 

 彼はもう一度息をつくと、宮中の一角を指さした。

 

 大きな建物。見覚えがある。自分の棟から、いつも見えていた。

 屋根の上に、下りた。


 地面に下ろしたら、逃げていきそうな気がした。

 屋根の傾斜は急だ。けれど、時親なら落ちることはないはずだ。


 風だけが、そよいでいた。

 

 時親は、地面に目を落としていた。

 少し逡巡して、やがて諦めたように顔を上げる。

 咲夜に向き直る。


 咲夜は、きゅっと目を細めて、問うた。


「色々話したいことはあるけど。まずは理由を聞きましょうか。なんで私を避けるのか」

「……避けているつもりはないが」

「嘘つき」


 時親は黙る。

 ひどい。肯定しているようなものだ。


 ぐっと手を握りしめる。

 

 恩を着せるつもりはない。龍を呼んだのは、咲夜が勝手にしたことだ。会いたかったから。

 結果として、都の火事は消し止められたけれど、感謝してほしいわけじゃない。


 ただ少しだけ、話をする機会をくれてもよかったのではないか。


 超常的な力を持つ女が怖くなったというなら、それでもいい。

 もうそばにいてほしくないなら、それでいいのだ。


 咲夜だってばかじゃない。

 嫌いだと言われたら、身を引くくらいの分別はあるのに。


 それなのに避けられ続けた。文の返事は来ない。

 今も、すぐに戻りたいと顔に書いてある。ひどい男だ。


 けれど、顔色が悪い。

 目元に浮かぶ疲れ。

 咲夜は、さらに顔を険しくした。


「あなた、ちゃんと寝てるの?」

「……休息は、取っている」


 ああ。

 咲夜は目をつむった。

 

 ()()だ。

 またこの男は、こうやって人を遠ざけようとする。平気なふりをして、覆い隠す。

 それがどんなに咲夜を苛つかせるかなんて、知らないだろう。

 

「ほんと、時親ってずっとそう」


 言葉が堰を切る。

 どうしてこの男は、ここまで来ても気づかないのか。

 鷹宮が身をもって教えていたじゃないか。


「なんで全部一人でやろうとするの? なんで何も言わないの? あなたの周りには、重孝や紗乃がいるのに」


 咲夜だっているのに。

 

「……一体、何の話」

「あー、もういい! 動かないで。今から殴るから!」


 は、と時親の口が開いた。

 咲夜は拳を固めると、その顔へと振り抜く。

 

「いっ――」


 殴ったらすっきりするかと思っていたのに、痛みが、手に跳ね返ってきた。

 思わず、その場にうずくまる。

 

「……慣れていないのに殴れば、そうなる」


 時親の冷静な言葉が、頭上から降ってくる。

 じわりと、涙があふれてくる。かっこわるい。


 ふわりと、匂いが近づいた。

 衣擦れの音がして、咲夜の手に指が触れた。

 顔を上げると、時親がしゃがんで、咲夜の手を取っていた。


「大丈夫だ。骨は折れていない」

「……痛くないの」

「痛いが、こういうことは、そなたよりも慣れている」


 時親は、切れて血のにじむ唇に触れて言った。


「だが、女にこれほど容赦なく殴られたのは、初めてだ」

「……いい気味、だわ」

 

 咲夜の赤くなった手に、触れる手がやさしい。

 たまらなくなって、涙がこぼれた。


「ばかだ、本当にばか。時親のばか」

 

 ああ、――あふれる。


「なんで一人で苦しむの。なんで一人で抱えたまま行っちゃうの。そんなに力不足? 私って、そんなに役立たずなの?」

 

 涙があふれて、止まらない。


「否定しないで。みんな時親のことが好きで、そばにいたいのに。拒絶しないで。勝手に人の幸せを決めつけないで!」

 

 どん、と胸を叩く。

 

「お、兄さんのことで、時親が苦しんでる、なんて。そんなの、わかってる。じゃあ、そのしんどさ、共有させてよ! いっしょに……」


 もう一度、叩く。

 せめて。

 

「一緒に、いさせてよぉ……」


 もうあとは、言葉にならない。

 ただ、泣いた。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。

 

 時親は、じっと黙って聞いていた。


 やがて、ひとつ、大きな息が上へ抜けた。

 両手が咲夜の頬に触れる。顔を、上げさせる。

 

「――初めて会った日。そなたは私のことを激しく拒絶した」


 噛み締めるように、時親は言う。

 親指で、咲夜の涙をぬぐう。


「今は、私のために怒って、殴って、泣いてくれるのだな」


 瞬くたびに涙が溢れて、時親の指先を濡らしていく。

 

「あ、当たり前、でしょ? もうとっくに、私は……」


 見上げた瞳は――湖の底。昏く、静かで。

 ああ、でも、もはや。

 凪いでは、いない。


「……あなたの、ことが……」


 言いかけて、やめる。

 ぐっと唇を押しつぶす。


 言ってはだめだ。これだけは。

 この先を言ってしまったら、時親を縛りつけてしまう。

 

 咲夜は帰る。彼を置いて。

 この人は、何もかも抱え込んでしまうから。

 これだけは、言ってはいけない。

 

 この気持ちは、咲夜が月まで連れていくしかない。

 

「……」


 ぐす、と鼻をすする。

 何度か浅く息をして、少しずつ、呼吸を整える。


「咲夜」

 

 頬に触れる指先に、わずかに力がこもった。

 

「咲夜」

 

 もう一度、名を呼ばれる。

 なに、と返す前に。

 

「妻になってくれ」


 簡潔で、強い言葉だった。

 息が止まる。

 

 ――妻。でも、もう、とっくに。

 

「仮初の妻ではなく」

 

 息を呑む。

 真剣な目に、射抜かれる。

 

「私の妻に。どうか、そばに」


 止まったはずの涙が、またあふれた。


「……わ、たし」

 

 かすれた声が出る。

 脈打つ心臓の音が、聞こえるくらい。

 頭が真っ白になる。


 夢かもしれない。だって咲夜は――

 

「……わたし。月に、帰るのよ」


 あなたを置いていってしまう。

 

 時親は笑った。ふっと。

 春の日差しのような笑み。


「それでも」


 ぐっと噛みしめるように。

 もう一度、強く告げられる。

 

「――それでも」


 咲夜は目を閉じた。唇が歪む。

 泣いてるのか笑ってるのか、もうよくわからない。

 思いがあふれて、ただ返した。

 

「そっか」


 頬を包む時親の手の上に、両手を重ねた。

 そっと、触れるだけの口づけをした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ