第六話「雪解」
葬儀は、しめやかに行われた。
この国では、死者は白で送られるらしい。
その身を包む装束。几帳の布。御簾の紐。見送る人々の衣まで。すべて白い。
この世ではない色――。
永遠の眠りの中にあってなお、その人は美しく整えられていた。
生前の、曼殊沙華のような空気はどこにもなかった。今は、雪と呼ばれるあの小さな花のような優美さだけがある。
それを包みこむ淡い煙。焚かれた香木から立ち上る、鷹宮の香り。
香炉の近くに、短剣が置かれていた。死の間際まで彼が握っていたもの。紅の鞘。その上に描かれる螺鈿の意匠――咲きかけの白椿。時親が静かに整えたもの。
彼のそばに、真っ白な綾子がややうつむいて座っていた。
髪は艶やかに背に流され、化粧を施された顔は美しい。けれど、泣きはらした瞳がある。その細い手の爪が、割れている。
竹で編まれた鳥籠が脇にあった。
読経の終わり、その鳥が――鳴いた。
美しい鳴き声だった。
綾子の顔が上がった。
唇がわななき、片方の目から、涙がひとつ頬を伝う。
ぬぐうこともせず、必死に息を吐く。綾子は竹籠に手を伸ばした。
開かれた籠から、鶯が飛び立った。
礼を言うように、もう一度鳴いてみせる。どこまでも澄み渡り、遠くまで通る声。
その声を聞き届けて、綾子がすうと息を吸った。
「問はれしを――」
かすれた声が、空気に溶ける。
「忘れぬままに、春は来て……」
綾子の手が、夫の手を求めて伸ばされる。もう届かない。
「鳴く鳥のこゑ、君を呼びたり――」
咲夜はそれを、黙って聞いていた。
彼女の喪失。痛み。万感の思いが積み重なった――それは、綾子のものだった。
簡単に声をかけて、咲夜のものにしてはならない。そんな気がした。
あの日、竹流が告げた言葉の意味が、今はよくわかる。
――これは、おまえの物語だ。だから、おまえが決めて、選ぶんだ。
鷹宮は、自ら物語の終着点を作りにいった人だったのかもしれない。それが彼の選択だったのか。咲夜には、わからない。
綾子の物語はどうだろう。彼女はこれから、どう生きることを選ぶのだろう。
時親は?
……自分は――。
***
「出家しようと思うのです」
葬儀の翌日。
幸い、鎮火が早かったので、宮中は半分以上残っていた。
以前の通りとはいかなかったが、居を移し、少しずつ暮らしを取り戻せると思っていたところへ、綾子が咲夜に言った。
「出家……?」
出家という言葉の意味するところを、咲夜は知らない。
けれど、綾子の眼差しは強く、それが生半可な決心ではないというのは伝わる。
「世俗を捨て、仏門に入ることですわ」
綾子は、そんな咲夜のことをお見通しだというふうに笑う。
「わたくしは、貴族の娘として生まれ、政略結婚で皇太子妃となりました。わたくしと鷹宮様の間に子はおりません。側室たちの子は幼く、後を継げる立場におりません」
腹を一度そっと撫で、綾子は、一刻も早く強い皇太子が必要ですから、と付け足すように言った。
「それでもわたくしの身は政治的な価値がある。きっと、わたくしはどなたかに望まれる。わたくしはそれを望みません」
たおやかな手が、自らの胸を押さえる。
「わたくしは、もう選びました。後の生は、あの方の近くで、静かにありたい」
最初の頃は、儚げで今にも消えてしまいそうだったのに。
強い眼差し。美しい。
「そう――」
咲夜は笑った。
にっこり満面の笑み――とはいかなかった。
出家というものを、はっきりと理解したわけではない。ただ、綾子はきっとここから去るのだろう。
ふっと胸の内に風が通り抜ける感覚に、少しだけ眉が下がる。
ああ、けれど。
今の綾子は前よりもっと綺麗で、ずっと好きだなあ、と思うのだ。
綾子を見送ると、咲夜は一人になった。
臨時の新しい居は、本来は帝の妃に与えられる殿らしい。以前は時親の母親が住んでいたが、すでに主がいなくなって久しいと言っていた。
中庭の白梅だけが、残されている。
白梅は満開だった。
香りが、宮に満ちている。
時親も幼い頃は、ここで過ごしたのだろうか。
十二年。戻らぬ間に、女主人はいなくなった。
風に乗って、かすかに喧騒が聞こえる。
火事の影響で、都は多くの死者を出し、建物は大きな被害を受けた。紗乃と重孝は無事だった。けれど、時親の従者が一人、亡くなった。
時親は、現状、帝に次いで身分がある。立て直しの指揮を執る人物が必要で、実務に引きずり出されている。おそらく、皇籍に戻って皇太子になるだろう、と重孝が言っていた。
「白湯を入れ直しましょうか」
紗乃が、顔を覗かせて言った。
咲夜は答えずに、その顔をじっと見つめた。
「咲夜様?」
「……ううん、なんでもない。白湯はいらないかな。出かけるから」
「どちらへ?」
立ち上がる。
ひら、と白梅の花びらが一枚、風に舞った。咲夜の方に飛んでくる。
掌で受け止め、握りこんだ。
「時親のところよ。どこにいるか知ってる?」
「さあ。存じ上げません」
紗乃はそう返事をしたが、もう半年以上一緒にいるのだ。その顔は、知っている顔だ。
妻が夫の職場を訪ねるというのはよくない、ということなのだろうが。
「来てって言ったのに、全然来ないんだもの。私が行くしかないじゃない?」
この数日で、時親に会ったのは葬儀の時だけだった。
理屈はわかる。都も宮中も混乱中で、時親がいなければ成り立たないのだということは。
しかし、紗乃に言伝を頼んだり、慣れない筆で文まで書いたりしたのに、彼は無視している。返事くらい、してくれてもいいのではないか。
綾子はこの数日で、自分の道を決めた。
それを見届けたから、充分、咲夜は待ったと思うのだ。
紗乃は、それでもしばらく口を結んでいた。
にらみ合いを続ける。
人が集まっているところに行って、聞いて回るしかないか、と思ったとき。
やっと紗乃が息をついた。
「……今のお時間でしたら、左近衛府かと。午後からも合議らしく、そう遠くなく戻られると思いますわ」
「ありがとう紗乃!」
咲夜の顔が輝いた。
屋敷を飛び出す。
紗乃の声が追いかけてきたが、聞いていないふりをした。
春の日差しの中を、走る。
重い袿が邪魔で、途中で脱いでしまった。
渡殿を抜けると、途端にたくさんの人がいる。疾走する咲夜の姿に、ぎょっと驚いて道を開けていく。
左近衛府は東のはずだ。まず、この内側を抜けて、そこから東へ折れて……。
「遠い……!」
火事の時も思ったが、この履き物は走りにくくていけない。もう足が痛い。
履き物を脱いだ。
何も、地上の道順で走らなくても、と思い直した。
咲夜が龍を呼び火を消し止めたことは、都どころか、遠い地にも知れ渡っているのだ。
いまさらだ。
履き物を叩く。黄金の光が走る。もう一度、履き直す。
それで地面を蹴る。ふわりと体が浮き上がる。階を上るように、空を走る。
本来は門をくぐらなければたどり着けない場所にも、これならまっすぐにたどり着ける。
見えた。左近衛府!
ちょうど、建物から人影が現れる。
深縹の直衣。裾に沿う太刀。その歩き方――何より、半歩後ろに控える大男。
咲夜は、一直線に下りた。
「何奴!」
近衛たちが色めき立つ。
太刀に手が伸びる。空気が張り詰めた。
時親が、手を上げた。
「……咲夜。なぜ、ここに」
低い声で、名を呼ばれる。
咲夜は、むっと唇を曲げた。歓迎されていないらしい。ひどい。
問いは無視して近づいた。その直衣をつかみ、
「重孝。ちょっと時親を借りるから」
と、後ろの男に宣言した。
重孝は一瞬、目を見開いた。
すぐに無表情に戻って、うなずく。
「わかりました」
「な――重孝!」
「こちらで予定を調整しておきます」
「ありがとう。じゃあ借りていくね!」
時親が何かを言いかける。
咲夜は無視して、その体を空へ引き上げる。
空を蹴る。すぐに地上と距離が開いた。
ひとつ、息をつく音が聞こえた。
「……どこに、行くつもりだ」
「決めてない」
話ができればそれでよかった。
彼はもう一度息をつくと、宮中の一角を指さした。
大きな建物。見覚えがある。自分の棟から、いつも見えていた。
屋根の上に、下りた。
地面に下ろしたら、逃げていきそうな気がした。
屋根の傾斜は急だ。けれど、時親なら落ちることはないはずだ。
風だけが、そよいでいた。
時親は、地面に目を落としていた。
少し逡巡して、やがて諦めたように顔を上げる。
咲夜に向き直る。
咲夜は、きゅっと目を細めて、問うた。
「色々話したいことはあるけど。まずは理由を聞きましょうか。なんで私を避けるのか」
「……避けているつもりはないが」
「嘘つき」
時親は黙る。
ひどい。肯定しているようなものだ。
ぐっと手を握りしめる。
恩を着せるつもりはない。龍を呼んだのは、咲夜が勝手にしたことだ。会いたかったから。
結果として、都の火事は消し止められたけれど、感謝してほしいわけじゃない。
ただ少しだけ、話をする機会をくれてもよかったのではないか。
超常的な力を持つ女が怖くなったというなら、それでもいい。
もうそばにいてほしくないなら、それでいいのだ。
咲夜だってばかじゃない。
嫌いだと言われたら、身を引くくらいの分別はあるのに。
それなのに避けられ続けた。文の返事は来ない。
今も、すぐに戻りたいと顔に書いてある。ひどい男だ。
けれど、顔色が悪い。
目元に浮かぶ疲れ。
咲夜は、さらに顔を険しくした。
「あなた、ちゃんと寝てるの?」
「……休息は、取っている」
ああ。
咲夜は目をつむった。
まただ。
またこの男は、こうやって人を遠ざけようとする。平気なふりをして、覆い隠す。
それがどんなに咲夜を苛つかせるかなんて、知らないだろう。
「ほんと、時親ってずっとそう」
言葉が堰を切る。
どうしてこの男は、ここまで来ても気づかないのか。
鷹宮が身をもって教えていたじゃないか。
「なんで全部一人でやろうとするの? なんで何も言わないの? あなたの周りには、重孝や紗乃がいるのに」
咲夜だっているのに。
「……一体、何の話」
「あー、もういい! 動かないで。今から殴るから!」
は、と時親の口が開いた。
咲夜は拳を固めると、その顔へと振り抜く。
「いっ――」
殴ったらすっきりするかと思っていたのに、痛みが、手に跳ね返ってきた。
思わず、その場にうずくまる。
「……慣れていないのに殴れば、そうなる」
時親の冷静な言葉が、頭上から降ってくる。
じわりと、涙があふれてくる。かっこわるい。
ふわりと、匂いが近づいた。
衣擦れの音がして、咲夜の手に指が触れた。
顔を上げると、時親がしゃがんで、咲夜の手を取っていた。
「大丈夫だ。骨は折れていない」
「……痛くないの」
「痛いが、こういうことは、そなたよりも慣れている」
時親は、切れて血のにじむ唇に触れて言った。
「だが、女にこれほど容赦なく殴られたのは、初めてだ」
「……いい気味、だわ」
咲夜の赤くなった手に、触れる手がやさしい。
たまらなくなって、涙がこぼれた。
「ばかだ、本当にばか。時親のばか」
ああ、――あふれる。
「なんで一人で苦しむの。なんで一人で抱えたまま行っちゃうの。そんなに力不足? 私って、そんなに役立たずなの?」
涙があふれて、止まらない。
「否定しないで。みんな時親のことが好きで、そばにいたいのに。拒絶しないで。勝手に人の幸せを決めつけないで!」
どん、と胸を叩く。
「お、兄さんのことで、時親が苦しんでる、なんて。そんなの、わかってる。じゃあ、そのしんどさ、共有させてよ! いっしょに……」
もう一度、叩く。
せめて。
「一緒に、いさせてよぉ……」
もうあとは、言葉にならない。
ただ、泣いた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる。
時親は、じっと黙って聞いていた。
やがて、ひとつ、大きな息が上へ抜けた。
両手が咲夜の頬に触れる。顔を、上げさせる。
「――初めて会った日。そなたは私のことを激しく拒絶した」
噛み締めるように、時親は言う。
親指で、咲夜の涙をぬぐう。
「今は、私のために怒って、殴って、泣いてくれるのだな」
瞬くたびに涙が溢れて、時親の指先を濡らしていく。
「あ、当たり前、でしょ? もうとっくに、私は……」
見上げた瞳は――湖の底。昏く、静かで。
ああ、でも、もはや。
凪いでは、いない。
「……あなたの、ことが……」
言いかけて、やめる。
ぐっと唇を押しつぶす。
言ってはだめだ。これだけは。
この先を言ってしまったら、時親を縛りつけてしまう。
咲夜は帰る。彼を置いて。
この人は、何もかも抱え込んでしまうから。
これだけは、言ってはいけない。
この気持ちは、咲夜が月まで連れていくしかない。
「……」
ぐす、と鼻をすする。
何度か浅く息をして、少しずつ、呼吸を整える。
「咲夜」
頬に触れる指先に、わずかに力がこもった。
「咲夜」
もう一度、名を呼ばれる。
なに、と返す前に。
「妻になってくれ」
簡潔で、強い言葉だった。
息が止まる。
――妻。でも、もう、とっくに。
「仮初の妻ではなく」
息を呑む。
真剣な目に、射抜かれる。
「私の妻に。どうか、そばに」
止まったはずの涙が、またあふれた。
「……わ、たし」
かすれた声が出る。
脈打つ心臓の音が、聞こえるくらい。
頭が真っ白になる。
夢かもしれない。だって咲夜は――
「……わたし。月に、帰るのよ」
あなたを置いていってしまう。
時親は笑った。ふっと。
春の日差しのような笑み。
「それでも」
ぐっと噛みしめるように。
もう一度、強く告げられる。
「――それでも」
咲夜は目を閉じた。唇が歪む。
泣いてるのか笑ってるのか、もうよくわからない。
思いがあふれて、ただ返した。
「そっか」
頬を包む時親の手の上に、両手を重ねた。
そっと、触れるだけの口づけをした。




