第五話「終局」
玲瓏と光り輝く体。その鱗は、黄金の光が弾けている。
黒い空で身をくねらせるたび、篠突く雨が視界を煙らせ、雷轟がとどろく。
火は蒸発し、白く霞んでいく。
咲夜は、崩れた建物の、かろうじて燃え残っていた梁に向かった。
斜めになった梁を駆け上がり、その先で手を伸ばす。
龍の顔が、天から覗き込むように降りてくる。揺れる長い髭が、脈動するように明滅している。
指先が、龍の鼻に触れた。
大きな顎が開いて、咲夜に息を吹きかける。
「ああ、我を呼ぶ声が地上からしたと思うたら、まさか、おひいさまだったとは」
「翁。来てくれてありがとう」
人の声ではなかった。
頭に直接語りかけるように、何重にもこだまして聞こえる。
「おひいさま。今日はいったい、何の遊びだい? 地上を凍らせるのか、押し流すのか? それとも雷で焼き尽くすのか?」
綾子が震えている。咲夜は首を振った。
「いいえ。壊さないで。大丈夫、一番の問題は、翁が来てくれたことで解決したから」
「ふむ――なるほど」
龍は顔を上げると、ぐるりと周囲を見渡した。
きっと彼の目には、焼けた都の姿が映っているだろう。一瞬、置いてきた重孝のことがよぎる――しかし今は、前だけを見る。
「翁。私たちを乗せてくれる?」
「ああ、いいとも。雲の上でも、海の向こうへでも、おひいさまの好きなところへ連れてゆこう」
「そんな遠くじゃないの。探してる人がいる。その人を、見つけたいの」
「探している? だれを?」
咲夜は笑った。
「……不器用な人。私が隣に立ってあげないと、いつかきっと、壊れてしまうわ」
龍は、目を瞬かせる。髭が大きく揺れた。
「ああ、おひいさま。きみは、大人になったのだなあ――」
龍は顎を震わせた。笑っている。
その喉が、地面についた。
咲夜は綾子の元へ戻ると、その手を取った。
「綾子、行こう。あなたの大事な人が、待ってる」
目を合わせる。
綾子の震えがおさまった。
涙は乾いていない。
けれど、彼女は強くうなずく。
「はい……!」
足をそろえて、龍の頭へ駆けのぼった。
龍が空を翔けた。
身を切る風は強く、今にも吹き飛ばされそうだ。目を強くつむる綾子を、咲夜はそっと引き寄せた。
空気の膜をまとわせれば、綾子は咲夜を見て微笑む。
咲夜は前を向いた。
ふうっと、天へ向かって、龍が長い息を吐く。
集まっていた黒い雲が、瞬く間に晴れていった。
陽の光が帳のように差し込み、都を照らし出す。
高い空から見る都は、宮中の南の門を中心に、黒い穴が空いていた。
しかし、大部分は無事だ。
火は消えて、今はきらきらと水面が波打っている。
ぐるりと龍が、空を回る。
ああ。
そこに、視線が吸い込まれるようだった。
宮中の庭。
白い砂が池を描き出している場所。
そこに佇む男の姿を見て、まなじりが熱くなる。
よかった、生きている。
間に合った。
もう二度と、あんなふうに離れたりするものか。
「――時親!」
声の限り、叫んだ。
今度は届けたいと願って。
***
時親は、額に張り付いた前髪を払った。
向かい合う鷹宮もまた、ずぶ濡れだ。水を吸った狩衣が、彼の動きを重くしていた。
抜き身の短剣の切っ先から、水滴が落ちる。
いつの間にか空が晴れて、光が差し込んでいた。
今の雨で、消えるまではいかずとも、確実に火勢は弱まったはずだった。天の恩寵だ。
突発的な稲妻も、雨も、鷹宮の心を微塵も動かさなかったようだった。
その瞳は、まっすぐ静かだ。奥底にあった種火は消え、ただ灰だけが残る。
彼は、とっくに決めている。
どこまでも、鷹宮らしくあろうとしている。
彼は、時親を「ふさわしい」と言うが――先に行ってしまうのは、いつだって、鷹宮の方だった。
時親を飛び越えて、置いていく。その先で、追いつくのを待っている。
今日、この時、ここに至っても。
時親は視線を落とした。
右手に持つ刀を、体の前へ掲げる。左手に持ち替える。
けれど、その柄を握るには――。
手がわずかに震える。
そのとき。
ふ、と空が陰った。
刹那、つむじ風が舞い上がる。体ごと吹き飛ばされそうになって、姿勢を低くした。
思わず目を閉じる。
「――時親!」
声が届いた。透き通る。
時親は天を仰いだ。
うねる白いものが見えた。陽の光を遮る何か。
きっとこの世のものではない。
大きくうごめくそれから、黄金の光がひとつ零れ出た。まっすぐ落ちてくる。
逆光の中、燃えるように輝き広がる。
陽に透けて、毛先だけが赤みを帯びる――黄金。
――時親様は、咲夜様がおとなしく逃げられたと、そう思っていらっしゃる?
――咲夜様はおります。都に。ここに。来られます。
綾子の言葉が浮かんで、消えた。
ただ、真っ白になる。
落ちてくる少女。
なんて美しい生き物だろう。
どれだけ時親が蓋をして抑えようとしても、決して消えなかった黄金の残滓。
浸蝕し、根を張り、とうとうそこを棲み処にしてしまった。
少女の腕が伸びる。自分に向かって。
その夜空を詰め込んだ瞳が、峻烈に射抜く。
この手を取りなさいと。
――もう拒絶できなかった。
手を伸ばす。
落ちてくる華奢な体を、受け止めた。
また強い風が吹いた。
着物が翻る。金の髪がさらわれる。
宙に浮いていきそうな体を、胸の中に引き込む。
「ではな、おひいさま。また、月で会おう」
こだまにも、人のものにも聞こえる不思議な声が、風に紛れて響く。
そして、静かになった。
目を開ければ、綾子がぽつりと立っていた。
美しかった顔は黒々と汚れ、髪は乱れ切っている。
着物の裾は一部千切れ、履物は片方がない。
彼女は物言わず、まっすぐに見ていた。
――鷹宮を。
赤と白、どちらが綾子に似合うかを、寒さに身を震わせながら悩んでいた兄。
時間を気にして、簡単に選んでしまった弟。
――桂宮様、あなたが死ねば、もう、我らは戻れません。
綾子の願いが身を焼く。
けれどもはや、わかっていた。
十二年。埋まりはしない。もうとっくに、壊れていた。
腕の中で、少女が肩を震わせている。
大粒の涙が、時親の胸を温かく濡らす。
時親は、その小さな背中を、静かに一度撫でた。
目を閉じて、息を吸う。
吐いて、鷹宮の姿を映す。
泣く少女の体を、そっと離した。
こちらを見上げる彼女の問いかける視線を、今は押しやった。
鷹宮の前へ進む。
十二年。
時親が贈った短剣を、手入れしながら。
彼は待っていた――待ってくれていた。
「覚悟は、決まったようだな」
その口元は柔らかい雪解けのようで。
時親は、応じるように笑った。
うまく笑えたかどうかは、わからないが。
左手に持つ刀を、体の前に掲げる。
柄を掴む。鞘に埋まった刀身を、引き抜く。ゆっくりと。
もう、震えなかった。
痛みが一瞬、走り抜ける。
無音。風の音すらも、抜け落ちた。
同時に土を蹴り、視線を交わしたまま――
斬った。
血飛沫のこちらと、向こう。
鷹宮がわずかに目を細めて、唇を上げた。
「よくやった。それでこそ、私の――」
短剣が地面に落ちる。
くず折れるその体を受け止める。
同時に受け止める、ぼろぼろの白い手があった。
「殿下!」
地面にその体を横たえる。
「……綾子か」
鷹宮は妃の姿を見つけて、震える息を吐く。
血に濡れた手で、時親を指す。
「これで、もう、綾子。おまえは……自由だ。好きなところへ、ゆけ」
綾子ははっと息を飲んだ。
その言葉を噛み締めて、ゆるゆると、表情が崩れてゆく。首を振る。
鷹宮の力の抜けた手を取る。
「……いいえ。わたくしは」
涙は滝のように流れていたが、その声は震えていない。
遠くなる鷹宮に届かせる強さで、綾子は言った。
「綾子は、鷹宮様の妻です」
ずっと、呼べなかった名前。
「おそばに、おります」
言えなかった言葉。
それが唯一の真実であると。
告げる。
ああ。鷹宮が細い息を吐く。笑った気配がした。
わずかに綾子の手を握り返す。
そして――いなくなる。
咽び泣く皇太子妃の声が反響する。
時親は天を仰いだ。
「時親……」
咲夜の声が、静かに寄り添ってきた。
南風が吹いた。
伽羅の香りを、空高く運んでいった。




