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月下恋歌  作者: 梨千子
第四章「南風、吹く」
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第五話「終局」

 玲瓏と光り輝く体。その鱗は、黄金の光が弾けている。

 黒い空で身をくねらせるたび、篠突く雨が視界を煙らせ、雷轟がとどろく。

 火は蒸発し、白く霞んでいく。


 咲夜は、崩れた建物の、かろうじて燃え残っていた梁に向かった。

 斜めになった梁を駆け上がり、その先で手を伸ばす。


 龍の顔が、天から覗き込むように降りてくる。揺れる長い髭が、脈動するように明滅している。


 指先が、龍の鼻に触れた。

 大きな顎が開いて、咲夜に息を吹きかける。

 

「ああ、我を呼ぶ声が地上(した)からしたと思うたら、まさか、おひいさまだったとは」

(おう)。来てくれてありがとう」


 人の声ではなかった。

 頭に直接語りかけるように、何重にもこだまして聞こえる。


「おひいさま。今日はいったい、何の遊びだい? 地上を凍らせるのか、押し流すのか? それとも雷で焼き尽くすのか?」


 綾子が震えている。咲夜は首を振った。


「いいえ。壊さないで。大丈夫、一番の問題は、翁が来てくれたことで解決したから」

「ふむ――なるほど」


 龍は顔を上げると、ぐるりと周囲を見渡した。

 きっと彼の目には、焼けた都の姿が映っているだろう。一瞬、置いてきた重孝のことがよぎる――しかし今は、前だけを見る。


「翁。私たちを乗せてくれる?」

「ああ、いいとも。雲の上でも、海の向こうへでも、おひいさまの好きなところへ連れてゆこう」

「そんな遠くじゃないの。探してる人がいる。その人を、見つけたいの」

「探している? だれを?」


 咲夜は笑った。

 

「……不器用な人。私が隣に立ってあげないと、いつかきっと、壊れてしまうわ」


 龍は、目を瞬かせる。髭が大きく揺れた。

 

「ああ、おひいさま。きみは、大人になったのだなあ――」

 

 龍は顎を震わせた。笑っている。

 その喉が、地面についた。

 

 咲夜は綾子の元へ戻ると、その手を取った。


「綾子、行こう。あなたの大事な人が、待ってる」


 目を合わせる。

 綾子の震えがおさまった。


 涙は乾いていない。

 けれど、彼女は強くうなずく。


「はい……!」

 

 足をそろえて、龍の頭へ駆けのぼった。

 

 龍が空を翔けた。


 身を切る風は強く、今にも吹き飛ばされそうだ。目を強くつむる綾子を、咲夜はそっと引き寄せた。

 空気の膜をまとわせれば、綾子は咲夜を見て微笑む。

 咲夜は前を向いた。


 ふうっと、天へ向かって、龍が長い息を吐く。

 集まっていた黒い雲が、瞬く間に晴れていった。

 陽の光が帳のように差し込み、都を照らし出す。


 高い空から見る都は、宮中の南の門を中心に、黒い穴が空いていた。

 しかし、大部分は無事だ。

 火は消えて、今はきらきらと水面が波打っている。


 ぐるりと龍が、空を回る。


 ああ。

 そこに、視線が吸い込まれるようだった。


 宮中の庭。

 白い砂が池を描き出している場所。


 そこに佇む男の姿を見て、まなじりが熱くなる。

 

 よかった、生きている。

 間に合った。

 もう二度と、あんなふうに離れたりするものか。

 

「――時親!」


 声の限り、叫んだ。

 今度は届けたいと願って。



 ***



 時親は、額に張り付いた前髪を払った。

 

 向かい合う鷹宮もまた、ずぶ濡れだ。水を吸った狩衣が、彼の動きを重くしていた。

 抜き身の短剣の切っ先から、水滴が落ちる。


 いつの間にか空が晴れて、光が差し込んでいた。

 今の雨で、消えるまではいかずとも、確実に火勢は弱まったはずだった。天の恩寵だ。


 突発的な稲妻も、雨も、鷹宮の心を微塵も動かさなかったようだった。

 その瞳は、まっすぐ静かだ。奥底にあった種火は消え、ただ灰だけが残る。

 

 彼は、とっくに決めている。

 どこまでも、()()()()()あろうとしている。


 彼は、時親を「ふさわしい」と言うが――先に行ってしまうのは、いつだって、鷹宮の方だった。

 時親を飛び越えて、置いていく。その先で、追いつくのを待っている。

 今日、この時、ここに至っても。


 時親は視線を落とした。

 右手に持つ刀を、体の前へ掲げる。左手に持ち替える。

 けれど、その柄を握るには――。

 手がわずかに震える。


 そのとき。

 

 ふ、と空が陰った。

 刹那、つむじ風が舞い上がる。体ごと吹き飛ばされそうになって、姿勢を低くした。

 思わず目を閉じる。


「――時親!」


 声が届いた。透き通る。

 時親は天を仰いだ。


 うねる白いものが見えた。陽の光を遮る何か。

 きっとこの世のものではない。

 大きくうごめくそれから、黄金の光がひとつ零れ出た。まっすぐ落ちてくる。


 逆光の中、燃えるように輝き広がる。

 陽に透けて、毛先だけが赤みを帯びる――黄金。


 ――時親様は、咲夜様がおとなしく逃げられたと、そう思っていらっしゃる?

 ――咲夜様はおります。都に。ここに。来られます。

 

 綾子の言葉が浮かんで、消えた。

 ただ、真っ白になる。


 落ちてくる少女。

 なんて美しい生き物だろう。


 どれだけ時親が蓋をして抑えようとしても、決して消えなかった黄金の残滓。

 浸蝕し、根を張り、とうとうそこを棲み処にしてしまった。

 

 少女の腕が伸びる。自分に向かって。

 その夜空を詰め込んだ瞳が、峻烈に射抜く。

 この手を取りなさいと。

 

 ――もう拒絶できなかった。


 手を伸ばす。

 落ちてくる華奢な体を、受け止めた。


 また強い風が吹いた。

 着物が翻る。金の髪がさらわれる。

 宙に浮いていきそうな体を、胸の中に引き込む。


「ではな、おひいさま。また、月で会おう」


 こだまにも、人のものにも聞こえる不思議な声が、風に紛れて響く。

 そして、静かになった。


 目を開ければ、綾子がぽつりと立っていた。


 美しかった顔は黒々と汚れ、髪は乱れ切っている。

 着物の裾は一部千切れ、履物は片方がない。

 彼女は物言わず、まっすぐに見ていた。

 ――鷹宮を。


 赤と白、どちらが綾子に似合うかを、寒さに身を震わせながら悩んでいた兄。

 時間を気にして、簡単に選んでしまった弟。

 

 ――桂宮様、あなたが死ねば、もう、我らは戻れません。


 綾子の願いが身を焼く。

 けれどもはや、わかっていた。

 十二年。埋まりはしない。もうとっくに、壊れていた。


 腕の中で、少女が肩を震わせている。

 大粒の涙が、時親の胸を温かく濡らす。

 時親は、その小さな背中を、静かに一度撫でた。


 目を閉じて、息を吸う。

 吐いて、鷹宮の姿を映す。


 泣く少女の体を、そっと離した。

 こちらを見上げる彼女の問いかける視線を、今は押しやった。

 

 鷹宮の前へ進む。


 十二年。

 時親が贈った短剣を、手入れしながら。

 彼は待っていた――待ってくれていた。


「覚悟は、決まったようだな」


 その口元は柔らかい雪解けのようで。

 時親は、応じるように笑った。

 うまく笑えたかどうかは、わからないが。


 左手に持つ刀を、体の前に掲げる。

 柄を掴む。鞘に埋まった刀身を、引き抜く。ゆっくりと。

 もう、震えなかった。


 痛みが一瞬、走り抜ける。

 無音。風の音すらも、抜け落ちた。


 同時に土を蹴り、視線を交わしたまま――

 斬った。


 血飛沫のこちらと、向こう。

 鷹宮がわずかに目を細めて、唇を上げた。


「よくやった。それでこそ、私の――」


 短剣が地面に落ちる。

 くず折れるその体を受け止める。


 同時に受け止める、ぼろぼろの白い手があった。

 

「殿下!」


 地面にその体を横たえる。

 

「……綾子か」


 鷹宮は妃の姿を見つけて、震える息を吐く。

 血に濡れた手で、時親を指す。

 

「これで、もう、綾子。おまえは……自由だ。好きなところへ、ゆけ」


 綾子ははっと息を飲んだ。

 その言葉を噛み締めて、ゆるゆると、表情が崩れてゆく。首を振る。

 鷹宮の力の抜けた手を取る。

 

「……いいえ。わたくしは」


 涙は滝のように流れていたが、その声は震えていない。

 遠くなる鷹宮に届かせる強さで、綾子は言った。

 

「綾子は、鷹宮様の妻です」


 ずっと、呼べなかった名前。

 

「おそばに、おります」

 

 言えなかった言葉。

 それが唯一の真実であると。

 告げる。


 ああ。鷹宮が細い息を吐く。笑った気配がした。

 わずかに綾子の手を握り返す。


 そして――いなくなる。


 咽び泣く皇太子妃の声が反響する。


 時親は天を仰いだ。

 

「時親……」

 

 咲夜の声が、静かに寄り添ってきた。

 

 南風が吹いた。

 伽羅の香りを、空高く運んでいった。

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