第四話「際」
「どう思う、桂宮」
椿の前。ずいぶん長い間、兄はそこにいたようだった。
如月。
朝からちらちらと粉雪が降る、寒い日だった。
兄の宮を訪ねると、早朝から出かけたらしく姿がなかった。
どこに行くかの言伝もなく、侍女が困っていたので、兄を探すことにした。
よく二人で過ごした庭。松の幹裏。いない。
蹴鞠をして遊んだ庭。池の代わりに白い砂が敷き詰めてある。いない。
猫の隠れ家。建物の下に潜り込める穴。いない。
一体どこへ、と首をめぐらせて、やっと見つける。
庭の隅に咲く椿。赤と白が並ぶ植物の前で、兄は雪をかぶっていた。
声をかけると、驚いたように振り向く。
真っ赤になった鼻。頭や肩に積もった雪。
一体何を、こんなところで。そんなになるまで。
「実は、赤と白、どちらが綾子にふさわしいか、悩んでいた」
雪を払いながら、兄がはにかむ。
鼻だけでなく指先も真っ赤だ。
「私は白椿がいいかと思ったのだが、赤椿もきっと映えるだろう。おまえはどう思う、桂宮」
どちらでもいいのでは。いっそどちらも贈ればいいのでは。と、率直に告げる。
兄はやれやれと息をついた。
「婚約したばかりの女子に贈るのだぞ? そんな二心あるような真似、できるわけなかろう」
そういうものか、と椿を見る。
兄は、赤と白の間をうろうろし続けている。このままでは、日が暮れてしまうかもしれない。侍女の困った顔を思い出した。
仕方なく、白椿がよろしいのでは、と伝えた。綾子の黒く美しい髪にきっと映えるだろうと。
ぱっと兄の顔がほころぶ。
「そうか、桂宮もそう思うのだな。では白にしよう」
白椿を手折る。まだ満開には少し早めの、小さな花。
それを見る兄の眼差し。綾子を見ているときの眼差し。
綾子が、こちらを見たときの、あの眼差し――。
かじかむ手の中、確かに息づく白い花に、粉雪が落ちていく。
がしゃり、と音を立てて、地面に刀が投げられる。
時親の、刀――。
「取れ」
暗く長い回廊。陰湿な牢の前。
彼は簡潔だった。
視線を上げ、兄を見る。
その眼差しは穏やかだ。しかし、寒い粉雪の中で、白椿に捧げたような温度はない。
時親が動かないでいると、兄は袂から紙の束を取り出して、刀の上へ投げてきた。
書状のようだった。ひとつやふたつではない。
「衛府の奴らがうるさくてな。おまえが犯人であるはずがないと」
衛府。
幼き頃、よく盤上の遊戯を打った近衛大将らの姿がよぎった。
皇太子に訴えるなど、ずいぶんと無茶をしている。
「取れ」
もう一度言われる。
わずかに逡巡があった。
刀を拾えば、もう止められないと、きっとわかっていた。
けれど流れに逆らえず、時親は身をかがめた。
散らばる書状を集める。
「殿下……」
綾子の小さな呟き。
袂に書状を入れて、土がついた刀を取る。
時親が立ち上がる前に、兄は踵を返していた。
こんなときでも、その所作、歩き方は優雅で整っている。
武芸に励む自分と同じだけの時間を、彼は宮中で過ごしてきた。貴族たちの中で、皇太子として立ってきた。
美しく、乱れなど一切感じられない背中。彼の歩んできた時間。
ためらいなど、わずかな間だった。
時親は、その背を追いかけた。
一歩踏み出すと、体の節が痛んだ。
満身創痍。しかし。
――。
背後、遠くで。
小さなすすり泣きが聞こえた気がした。
長い回廊を抜けると、広い庭に出た。
眩しさに目がくらむ。
強い風が吹いていた。
きな臭い匂い。思わず空を仰ぐ。まるで雲のように、煙が空を縦に割っていた。
火事。大きい。
す、と頭が冷える。
「どうした」
冷たい声が割り入る。
兄がこちらを向いていた。
時親が見ていた方角を確かめて、ああ、と軽くうなずく。
「この時期の南風は強いからな。数日は消えぬだろうよ」
数日あれば、焼け野原だ。都の機能がすべて失われる。
すぐに対策を取って、延焼を抑える必要がある。
しかし、それを指揮すべき男は笑っていた。
息が詰まった。
一月前、十二年ぶりに会話を交わした日と同じ、美しい笑み。
だというのに、まるで違っている。
「どうした、殺さないのか」
面白そうに問われる。その指先が、時親の持つ刀を示した。
「私は、おまえを罠にかけて殺そうとしていた男だぞ」
舞うような手つきで、自身の胸を差し出す。
彼は何も持っていない。無手。象徴的な檜扇も、今はない。
「誰も見ていない。今なら殺せる。この火事だ。骨も残らないだろうよ」
「ばかなことを」
吐き捨てるように言った。
刀の鞘を強く握る。
兄は静かに笑みを消す。ああ、と息を吐いた。
「……ああ、おまえはいつも、正しい」
どこかで建物が崩れていく音がした。それほど遠くない。
時間が、ない。
「おまえは昔から、何も言わない。しかし誰よりも正しくあろうとする。気がつけば皆がおまえを愛していた。ああ、真に。おまえは私の自慢のきょうだい」
「鷹宮」
兄の名を呼んだ。
その目元が、わずかに緩む。
「……名を呼ばれるのは、いつぶりか」
その瞬間、その眼差しに、確かな温度が宿った。
時親は、一歩距離を詰めた。
「まだ間に合う。衛府に向かい、彼らを動かして、火を消し止める。私が補佐する、すぐに――」
鷹宮は、声を上げて笑った。
「ああ、そうか。足りないか」
彼はおもむろに、懐から短剣を取り出す。
その意匠には見覚えがあった。
鷹宮と綾子の婚儀の席。祝いのために時親が用意した、対の短剣――。
「たとえ殺されかけようと、おまえにとって、兄殺しは正しくないものな。ならば、理由を与えてやろうか」
鷹宮は時親の目を見て、言った。
「――あの天女」
息が止まった。
鷹宮の目が細まる。深い笑み。
「おまえが死んだら、私はあの天女を妻にする」
言い募る。
「羽衣を剥いで、普通の女にしよう。空すらも見えぬ場所に閉じ込めて、ただ美しいものとして、愛でてやろうな」
黄金が一滴、胸に広がっていく。
奥に棲む、少女の香り。柔らかさ。体温。強い眼差し。
呼び起される。わずかに、めまいがした。
「さあ、どうする?」
鷹宮は、短剣を抜き放った。陽の光を受けて、刀身が白く光る。
一切の曇りが見当たらないそれを見て、時親は強く唇を引き結んだ。
錆ひとつ浮いていない刀身。手入れを怠れば、そのように光り輝かない。
そこに、かつてと同じ兄の眼差しを見る。
「……鷹宮」
彼はもう応えない。届かない。
十二年の溝。
「私を止めたいなら、おまえはもう、私を殺すしかない」
鞘を握る手が震える。
鷹宮は腕を広げた。舞うように。
「さあ、桂宮。終わらせようか」
***
建物が倒壊して、火の粉が舞った。
咲夜は口元に袖を当て、咳き込む。
宮中が燃えていた。
時親と咲夜が滞在した棟。官僚たちが詰める宮。皇太子の御所。すべてが。
「ああ、もう!」
目の前にあった道が、建物が崩れたことで消えている。
いっそ、神力で全て消し去ってしまおうか。
そう考えたときだった。人影が目に入った。
あれは……。
「綾子!」
ふらつきながら歩くその人物。
煤けた衣。履物は片方脱げてしまっている。髪は乱れ、今にも消えてしまいそうな顔色をしていた。
「咲夜、様……?」
綾子は、咲夜の姿を見て、ぼんやりとした顔を上げた。
ゆっくりと焦点が定まっていく。
その体がふらりと傾いた。
「綾子っ、大丈夫!?」
倒れこむ綾子を支えようとしたけれど、完全には支えきれず、一緒に倒れる。
煤が落ちた地面は黒々として、二人の着物や肌を黒く染めた。
舞い上がる煤と、辺りに立ち込める煙。
空は晴れていたが、まるで夜のように暗い。
咳き込みながら、咲夜は綾子を立ち上がらせて、呼吸ができる場所まで連れていった。
「げほっ、最っ悪、喉になんか入った……」
まだ火が来ていないところまでやってきたが、この分ではすぐに火が回ってくる。
早めに避難しないと危ない。
「綾子、走れる? 一旦安全な場所まで……綾子?」
綾子の白い頬が、濡れていた。
その瞳から滂沱の涙があふれだして、頬についた煤を流していく。
「ごめんなさい、わたくし……わたくし、止められなかった」
なだらかな肩を震わせて、綾子は咲夜の衣をつかむ。
「咲夜様、わたくし、どうしたら……どうして」
咲夜に縋りついて、泣き出す。
美しく手入れされていたはずの手は真っ黒で、爪は一部剥がれている。
「あの方が――」
それは慟哭だった。
「鷹宮様が、いってしまう」
いってしまう。わたくしを置いて。
いつもの整えられた綾子は、どこにもいなかった。
顔をゆがめ、大きく震えて、取り乱して。
ただ子供のように泣いていた。
「綾子……」
咲夜はそんな綾子の様子に驚いた。
眉を下げる。
鷹宮という名前に、心当たりはなかった。
綾子の口から出た名前。時親と同じ、宮――まさか。
「行こう綾子」
咲夜は綾子の肩をつかんだ。
「あなたが何を悲しんでるのか、私にはわからない。でも、本気なら伝えなきゃ」
綾子が目を見開く。
涙がただ、まろやかな頬を伝って流れていく。
「言わなきゃ伝わらないよ。だから言いにいこう」
「咲夜様……」
「大事なんだね。その鷹宮って人のことが」
そんなになって泣くほど。
状況はわからなくても、綾子の気持ちは痛いほどわかった。
咲夜もそうだから。
時親が――あの男のことが、大事だから。
綾子がゆっくりと瞬いた。大きな涙がこぼれ落ちる。
「……はい」
頷く。
「はい。参ります」
強く、頷く。
咲夜は笑った。
「きっと大丈夫よ。言って伝わんなかったときは」
黒くなった手で、拳を作る。
「ぶん殴ってわからせればいいのよ!」
二人で立ち上がり、走った。
きっと。
時親のそばには、皇太子が。
皇太子のそばには、時親がいる。
なぜかそう信じた。
だが、火の回る速度が速い。
強い風が火の粉をまき散らし、隣の建物を赤く染め上げていく。
進もうとする道を、まるで悪意の塊のように、塞いでいく。
ほのかに紅が戻っていた綾子の顔が、また白くなっていく。
時間がない――。
咲夜は、空を見上げた。
「綾子、まかせて。大丈夫だから」
夜のように暗い空へ、手を伸ばす。
なんて邪魔な火だ。
ちっともたどり着けやしない。
「道は拓くわ」
行かねばならない。
咲夜も綾子も、この先に望む人がいる。
だから。
「もう、邪魔しないでよ!」
黄金の光が、天を穿った。
刹那。
風が止んだ。
黒煙よりも黒い雲が、空に立ち込めた。
明滅する。稲光。
一拍置いて、滝が滴り落ちた。豪雨。
轟々と唸りをあげて、火の海を押し流す。
綾子は見た。
天から落ちてくる、長く白いきらめき。
ゆるゆると曲線を描き、まっすぐに降りてくる。
「――龍」




