第三話「対峙」
気配がして、時親は目を開いた。
狭い牢。地べたに座り瞑想する。そうしていれば、いくらかは切り離せる。
這い寄る寒さ。肉体の痛み。空腹や、喉の渇き。兄の言葉。
そこに、わずかに忍び寄る。
これから起こることへの恐怖。
それでも。
黄金の少女の影が――消えない。
自身の未熟さに唾を飲めば、鉄錆びた味がする。
人の出入りはほぼない。自身の呼吸さえも、大きく響く。
そこに、近づいてくる異質な気配がある。
恐る恐る、できるだけ音を立てぬようにと配慮した足運び。隠しきれていない衣擦れの音。重心のかけ方や、歩き方の具合。浅い呼吸。
検非違使でも、兵士でもない。一切戦い方を知らぬ素人だ。
時親は目を上げて、やってきたその人を見た。
白い顔。たおやかな眉。唇に紅は引かれず。
濁り湿った牢の空気の中、その人の周りだけが、穏やかに息づいている。
心臓が、ひとつ打った。
――綾子。
時の皇太子妃が、牢の前にいた。
彼女のほかに、人影はない。一瞬、目を細める。耳を澄ませる。気配は目の前の一人だけだ。
時親は、黙って皇太子妃の口元を見た。
その唇は動かない。
ただ引き結びうつむくと、彼女は手を伸ばす。
木の擦れる音。閂が外される。
扉が開いた。
「……なんのつもりだ」
「――終わりにしたいのです」
閂を外した手が、腹の前で震えている。
「お逃げください。桂宮様、あなたが死ねば……」
吐く息が震える。
「もう、我らは戻れません」
――左大臣がむすめ。藤原綾子でございます。
木陰で休む兄弟のもとへやってきた、愛らしい頬の少女。
木にもたれていた体へ、兄が手を伸ばす。引き上げられ、肩をぽんと叩かれる。
――こちらは桂宮。私の自慢のきょうだい。
その手の感触が、少しくすぐったい。
――綾子。私たちと一緒に、遊ぶかい?
爽やかな香りが、よぎる。
「そなたは、皇太子妃だ」
ひとつ瞬きをして、塗りつぶす。
「そうあらねばならない」
皇太子妃の唇が引き締まった。
扉は開いている。しかし、どちらも動かなかった。
「――咲夜様を」
ふと囁かれた名に、時親の肩がわずかに動く。
「桂宮様が彼女を連れてこられたとき、わたくしはどこか、安心してしまったのです」
時親は、目を細めた。
「遠く厳しい地に、お一人で向かわれたあなたのことを……わたくしは、ずっと……憐れんでおりました」
言葉が一瞬、途切れる。
「どこかで、思っていた。たとえどなたを迎えられても――我らの間より、勝るものはないと」
皇太子妃は小さく、息を吐く。
「……けれど、違いました」
ふふ、とわずかに漏れる笑い。
「咲夜様に会って、気づいたのです。わたくしでは、無理でした」
白い手が、自らの腹を撫でる。
もう返ってこないと、知っている。
「何も言えなかった。何も見ないふりをして――うつむいてきた。咲夜様のように、前を向けなかった。殿下と……向き合えなかった」
そして彼女は、まっすぐ前を向いた。笑う。
「桂宮様の隣にいるのが――咲夜様でよかった」
儚さはどこにもない。
初めて見る顔だ。美しく、強い。
時親は、視線を落とす。目を閉じる。
一瞬の闇。
――紗乃は、あなたの家族でしょう?
しめやかに、入り込んでくる黄金。
暴かれていく。
――子供じゃないわよ! 貴婦人だって言ったでしょ!
泣きそうになったかと思えば、怒りだす。
理不尽には、否と言う。押し付けられた役目には、正面から押し返す。
身分も、立場も、状況も。彼女の前では、関係がない。
ただ、凛と立つ。
目をそらさない。――そらせない。
その苛烈さ。
時親には、ない。
そしてもう――ここにはいない。
目を開く。
あの日。
婚儀の席で、折れそうになっていた女が。
いま、強く立っている。
「そうか」
言葉がこぼれた。
「そなたはちゃんと、選べたのだな」
ふふふ、と綾子が笑う。
「幼き頃。三人で、池の鯉に餌をやりました。覚えておられますか?」
綾子は、目を閉じる。
「鯉が寄ってくるのが面白くて、わたくしは夢中になって餌をあげ続けました。桂宮様はわたくしに、ご自分の分の餌を譲ってくれましたね。そうしたら鷹宮様も同じように譲ってくださろうとして、立ち上がられて。鯉たちはびっくりしたのでしょう、水しぶきが上がって……わたくしは濡れてしまいました」
そんなことがあっただろうか。
時親は、覚えていない。
「今でも、鷹宮様の謝るお姿を思い出してしまうのです。あの方のせいではなかったのに。わたくしに謝る必要などないご身分であられたのに。……不思議ですね。昔を思い出すと、なぜか鷹宮様ばかりが出てきてしまう。あの方は、あの頃からずっと……」
綾子は言葉を詰まらせた。
「……ずっと、変わらずにおられる」
崩れた呼吸を、綾子はひとつ深呼吸して取り戻す。
「罪は、わたくしだけにあるのです。なればこそ――時親様」
名を呼ばれ。
時親は初めて、綾子と目を合わせた。
「わたくしはあなたを……咲夜様のもとに、お送りせねばなりません」
「……」
ゆるく、首を振った。
「時親様」
「もう遅い。知っているはずだ」
「……確かに、わたくしはあなたに応じて、馬をご用意しました。ですが……」
「ならば、私がここを離れるわけにはいかぬ」
「……あら」
しかし、綾子はくすくすと笑う。
「時親様は、咲夜様がおとなしく逃げられたと、そう思っていらっしゃる?」
今度は、綾子が首を振る。
「そんなはずありません。咲夜様なのですよ。殿下に正面から挑める彼女が、ただ逃げろと言われて逃げると……本当にお思いですか?」
「――」
まったく合理的ではない。
重孝に託した以上、その命令は、寸分違わず成し遂げられる。彼女は今頃、逃げている。
……そのはずなのに。
ああ、あの少女なら、もしかしたら――。
「咲夜様はおります。都に。ここに。来られます」
「……何を根拠に?」
「根拠など。ただ、わかるのです。同じ女だから……かもしれません」
その言い方に、長く仕えてきた侍女の言葉が横切る。
――御屋形様は、女子の心の機微がわかっておられません。
それを言われてしまっては、もはや何も言えない。
ひとつ言い返せば、百の言葉で斬られる。それを知っているから。
ふ、と唇がほころんだ。
地面に手をついて、立ち上がる。
それだけの動作で、凍えた体が痛む。空腹も渇きも、消えてはいない。兄の言葉も、残っている。
しかし、気分は不思議と軽かった。
開いた扉の向こうに立つ綾子を、まっすぐ見る。
遠いあの日。
婚儀の前に訪ねてきた彼女に、自分は扉を開けなかった。
すすり泣く声を聞きながら、蓋をした。
「……ありがとう。兄のもとにいてくれたのが、そなたで――妃殿下で、よかった」
あの時こびりついた感情が、白く溶けて消える。
扉をくぐる。
外に出た。
綾子が微笑んだ。美しい、笑みだった。
ああ――嗚呼。
空虚な息が流れ込む。
綾子の顔色が引いていく。
土を踏む音がした。
匂い立つ伽羅の香。
濃密な――気配。
「でん、か……」
綾子の震える声。しぼんでいく。
外に繋がる回廊の奥。
そこに、兄がいた。
紫の狩衣が、光を吸って鈍く光っている。
闇を背負いながら立つ、その頭には烏帽子がない。やや乱れた髪を背に垂らしている。
美しい顔。何も映し出していない。
兄は、ゆっくりと近づいてきた。
まるで舞の続きを見ているような、優雅な歩み。
足音はほぼない。戦いは知らずとも、研鑽を重ねた技術の極致がある。
視線が交錯した。
何も言われなくとも――見える。
彼は、美しく微笑む。幾度となく、誰かに向けてきたに違いない。仮面のような笑み。
「閂を外す、手間が省けたな」
軽く言う。鼻で笑うような仕草。
その右手が動いて、何かを放り投げた。
地面に落ちたのは、刀だ。
見間違えるはずがない。自分の刀だった。




