表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下恋歌  作者: 梨千子
第四章「南風、吹く」
25/36

第三話「対峙」

 気配がして、時親は目を開いた。


 狭い牢。地べたに座り瞑想する。そうしていれば、いくらかは切り離せる。

 這い寄る寒さ。肉体の痛み。空腹や、喉の渇き。兄の言葉。

 そこに、わずかに忍び寄る。

 これから起こることへの恐怖。


 それでも。

 黄金の少女の影が――消えない。

 自身の未熟さに唾を飲めば、鉄錆びた味がする。

 

 人の出入りはほぼない。自身の呼吸さえも、大きく響く。

 そこに、近づいてくる異質な気配がある。

 恐る恐る、できるだけ音を立てぬようにと配慮した足運び。隠しきれていない衣擦れの音。重心のかけ方や、歩き方の具合。浅い呼吸。

 検非違使でも、兵士でもない。一切戦い方を知らぬ素人だ。


 時親は目を上げて、やってきたその人を見た。


 白い顔。たおやかな眉。唇に紅は引かれず。

 濁り湿った牢の空気の中、その人の周りだけが、穏やかに息づいている。


 心臓が、ひとつ打った。


 ――綾子。

 時の皇太子妃が、牢の前にいた。


 彼女のほかに、人影はない。一瞬、目を細める。耳を澄ませる。気配は目の前の一人だけだ。

 時親は、黙って皇太子妃の口元を見た。


 その唇は動かない。

 ただ引き結びうつむくと、彼女は手を伸ばす。


 木の擦れる音。(かんぬき)が外される。

 扉が開いた。


「……なんのつもりだ」

「――終わりにしたいのです」


 閂を外した手が、腹の前で震えている。


「お逃げください。桂宮様、あなたが死ねば……」


 吐く息が震える。

 

「もう、我らは戻れません」


 ――左大臣がむすめ。藤原(ふじわらの)綾子でございます。


 木陰で休む兄弟のもとへやってきた、愛らしい頬の少女。

 木にもたれていた体へ、兄が手を伸ばす。引き上げられ、肩をぽんと叩かれる。


 ――こちらは桂宮。私の自慢のきょうだい。


 その手の感触が、少しくすぐったい。

 

 ――綾子。私たちと一緒に、遊ぶかい?


 爽やかな香りが、よぎる。


「そなたは、皇太子妃だ」


 ひとつ瞬きをして、塗りつぶす。


「そうあらねばならない」


 皇太子妃の唇が引き締まった。


 扉は開いている。しかし、どちらも動かなかった。


「――咲夜様を」


 ふと囁かれた名に、時親の肩がわずかに動く。


「桂宮様が彼女を連れてこられたとき、わたくしはどこか、安心してしまったのです」


 時親は、目を細めた。


「遠く厳しい地に、お一人で向かわれたあなたのことを……わたくしは、ずっと……憐れんでおりました」


 言葉が一瞬、途切れる。


「どこかで、思っていた。たとえどなたを迎えられても――我らの間より、勝るものはないと」


 皇太子妃は小さく、息を吐く。


「……けれど、違いました」


 ふふ、とわずかに漏れる笑い。


「咲夜様に会って、気づいたのです。わたくしでは、無理でした」


 白い手が、自らの腹を撫でる。

 もう返ってこないと、知っている。

 

「何も言えなかった。何も見ないふりをして――うつむいてきた。咲夜様のように、前を向けなかった。殿下と……向き合えなかった」


 そして彼女は、まっすぐ前を向いた。笑う。


「桂宮様の隣にいるのが――咲夜様でよかった」


 儚さはどこにもない。

 初めて見る顔だ。美しく、強い。


 時親は、視線を落とす。目を閉じる。


 一瞬の闇。


 ――紗乃は、あなたの家族でしょう?


 しめやかに、入り込んでくる黄金。

 暴かれていく。


 ――子供じゃないわよ! 貴婦人(レディ)だって言ったでしょ!


 泣きそうになったかと思えば、怒りだす。

 理不尽には、否と言う。押し付けられた役目には、正面から押し返す。

 身分も、立場も、状況も。彼女の前では、関係がない。

 ただ、凛と立つ。

 目をそらさない。――そらせない。


 その苛烈さ。

 時親には、ない。


 そしてもう――ここにはいない。


 目を開く。


 あの日。

 婚儀の席で、折れそうになっていた女が。

 いま、強く立っている。


「そうか」

 

 言葉がこぼれた。


「そなたはちゃんと、選べたのだな」


 ふふふ、と綾子が笑う。


「幼き頃。三人で、池の鯉に餌をやりました。覚えておられますか?」


 綾子は、目を閉じる。


「鯉が寄ってくるのが面白くて、わたくしは夢中になって餌をあげ続けました。桂宮様はわたくしに、ご自分の分の餌を譲ってくれましたね。そうしたら鷹宮様も同じように譲ってくださろうとして、立ち上がられて。鯉たちはびっくりしたのでしょう、水しぶきが上がって……わたくしは濡れてしまいました」


 そんなことがあっただろうか。

 時親は、覚えていない。


「今でも、鷹宮様の謝るお姿を思い出してしまうのです。あの方のせいではなかったのに。わたくしに謝る必要などないご身分であられたのに。……不思議ですね。昔を思い出すと、なぜか鷹宮様ばかりが出てきてしまう。あの方は、あの頃からずっと……」


 綾子は言葉を詰まらせた。


「……ずっと、変わらずにおられる」


 崩れた呼吸を、綾子はひとつ深呼吸して取り戻す。


「罪は、わたくしだけにあるのです。なればこそ――時親様」


 名を呼ばれ。

 時親は初めて、綾子と目を合わせた。


「わたくしはあなたを……咲夜様のもとに、お送りせねばなりません」

「……」


 ゆるく、首を振った。


「時親様」

「もう遅い。知っているはずだ」

「……確かに、わたくしはあなたに応じて、馬をご用意しました。ですが……」

「ならば、私がここを離れるわけにはいかぬ」

「……あら」


 しかし、綾子はくすくすと笑う。

 

「時親様は、咲夜様がおとなしく逃げられたと、そう思っていらっしゃる?」


 今度は、綾子が首を振る。


「そんなはずありません。咲夜様なのですよ。殿下に正面から挑める彼女が、ただ逃げろと言われて逃げると……本当にお思いですか?」

「――」


 まったく合理的ではない。

 重孝に託した以上、その命令は、寸分違わず成し遂げられる。彼女は今頃、逃げている。

 ……そのはずなのに。


 ああ、あの少女なら、もしかしたら――。


「咲夜様はおります。都に。ここに。来られます」

「……何を根拠に?」

「根拠など。ただ、わかるのです。同じ女だから……かもしれません」


 その言い方に、長く仕えてきた侍女の言葉が横切る。


 ――御屋形様は、女子(おなご)の心の機微がわかっておられません。


 それを言われてしまっては、もはや何も言えない。

 ひとつ言い返せば、百の言葉で斬られる。それを知っているから。


 ふ、と唇がほころんだ。


 地面に手をついて、立ち上がる。

 それだけの動作で、凍えた体が痛む。空腹も渇きも、消えてはいない。兄の言葉も、残っている。

 しかし、気分は不思議と軽かった。


 開いた扉の向こうに立つ綾子を、まっすぐ見る。


 遠いあの日。

 婚儀の前に訪ねてきた彼女に、自分は扉を開けなかった。

 すすり泣く声を聞きながら、蓋をした。


「……ありがとう。兄のもとにいてくれたのが、そなたで――妃殿下で、よかった」


 あの時こびりついた感情が、白く溶けて消える。

 扉をくぐる。

 外に出た。

 綾子が微笑んだ。美しい、笑みだった。



 ああ――嗚呼。


 

 空虚な息が流れ込む。


 綾子の顔色が引いていく。

 

 土を踏む音がした。

 匂い立つ伽羅の香。

 濃密な――気配。


 「でん、か……」


 綾子の震える声。しぼんでいく。

 

 外に繋がる回廊の奥。

 そこに、兄がいた。


 紫の狩衣が、光を吸って鈍く光っている。

 闇を背負いながら立つ、その頭には烏帽子がない。やや乱れた髪を背に垂らしている。

 美しい(かんばせ)。何も映し出していない。


 兄は、ゆっくりと近づいてきた。

 まるで舞の続きを見ているような、優雅な歩み。

 足音はほぼない。戦いは知らずとも、研鑽を重ねた技術の極致がある。


 視線が交錯した。

 何も言われなくとも――見える。


 彼は、美しく微笑む。幾度となく、誰かに向けてきたに違いない。仮面のような笑み。


「閂を外す、手間が省けたな」


 軽く言う。鼻で笑うような仕草。

 その右手が動いて、何かを放り投げた。


 地面に落ちたのは、刀だ。

 見間違えるはずがない。自分の刀だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ