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月下恋歌  作者: 梨千子
第四章「南風、吹く」
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第二話「奔流」

「くそっ」


 検非違使の男が、壁を蹴った。

 どん、と木板が揺れて、音が響き渡る。


「おい、やめろ。そっちも壊すつもりか」

「わかってるよ!」


 民衆によって蹴破られた壁は、板が真ん中で割れてしまっている。新しく替える必要があった。

 先ほど恐怖から混乱して、刀を振り回していた男は、今は汚い言葉を吐き続けていた。

 声を荒げて、髪を搔きむしる。


「くそ、なんなんだアレは!」


 同僚の男は、無理もない、と思う。

 抜身の刀を前に、あれほど凛と立てる人間はそういない。

 まだ幼さが残る少女だったというのに、その雰囲気に誰しもが呑まれた。

 あれが天女。辺境の領主が妻に迎えたという――。


「何見てるんだよ!」


 上ずった様子で怒鳴る声。

 見やると、髪をぼさぼさにした男が、周囲の民たちを威嚇している。


「何か文句でもあるのか!」

「おい、やめろ。これ以上騒ぎを大きくするな」


 検非違使庁周辺の人は、天女の後を追って少しずつ数を減らしている。

 残った民衆が何かをする気配はないが、向けてくる視線は冷たい。

 特に、子供を今にも斬ろうとしていたこの男には。

 

「うるさい!」


 制止を振り切って、男は裏路地へと入っていった。


「おい、どこへ行く!」

「頭ぁ、冷やしてくるだけだよ!」

 

 検非違使は息をついた。

 民衆の凍るような視線が自身に突き刺さってくる。検非違使は顔に仮面を張り付けて、壁の修復に勤めようとした。

 静かになるには時間がかかるだろうな、と思いながら。


 裏路地に入った男は、もう一度「くそ!」と吐き出してから、早足で進んだ。

 大股で進んでいたが、次の路地に差し掛かったところで立ち止まる。


 浮浪者の姿があった。動いているものもいれば、もう動かないものも、石のように転がっている。

 どれだけ処理しても、絶えず湧いてくる蛆のようなもの。

 男は舌打ちした。体温が下がっていた。


 踵を返した。

 首の後ろを掻きながら、後処理のことを考える。

 まずは同僚と一緒に、壊れた壁を直さねばならないだろう。別当に報告をして、あの少女にどう対応するかの指示をもらわなければ。

 そう考えて、男は足を止めた。


「……なんだおまえら」

 

 路地の先に、人影が複数あった。

 道を塞ぐように立っている。その手には、石や火かき棒が握りこまれていた。

 検非違使庁の前でやりあった民の顔を認める。

 表情はない。ただぎらぎらと濁った光が、彼らの双眸にあった。


 思わず後ずさる。

 

 背後からも音。

 振り返れば、そこにも無表情の人影がこちらを見ていた。


 ――。



 ***



 風が出てきた。

 咲夜は、乱れた髪を払うと、門を見た。


 宮中の一番外側の門だった。閉じている。

 中に入るには、この門の後も、また門をくぐらないといけない。この分ではそちらも閉まっているだろう。


「面倒ね」


 咲夜は唇を曲げた。

 神力で壊してしまう方が楽なのではないかと思った。


 しかし、すぐに打ち消した。

 そんなことをしたら、兵士たちと正面衝突になってしまう。

 咲夜一人ならいいが、背後には民衆がいる。先ほどのような暴動が起こるのは、最悪の事態だ。


「……あれ?」


 堅牢な門に、人影はなかった。

 こういうところには、普通、門番がいると思うのだが――。


 辺りを見回して、異変に気づく。門番どころか、人がいないのだ。


 重孝が鼻を鳴らした。


「これは……。煙の匂いです」

「煙?」


 風に乗って流れてくる空気に、何かが燃えているかのような移り香。

 微かにざわめきが混じっていた。


 空を見上げれば、白い煙がたなびいていた。検非違使庁の方角からである。


 さっと重孝の顔が引き締まった。


「これは、火か!」

「え?」

「火事です!」


 その言葉に、背後についてきていた民衆たちの様子が変わる。彼らは次々に顔色を青くしていった。

 

「火事だって!?」

「そんな!」

「ひいっ、逃げなきゃ!」

 

 その声を皮切りに、整然と進んでいたはずの民衆が瓦解した。


「ちょっ……どういうこと? 火事がなんなの?」


 ごった返す民衆たちから咲夜を離すと、重孝は眉をひそめる。


「都の建物は、すべて木でできています。そこに火がついたら」


 ぶわっと突風が吹く。

 重孝は厳しい表情で空を見上げた。


「火の海になります。都ごと焼け落ちる!」


 重孝の視線の先――。

 いつのまにか、煙の数が増えていた。


 咲夜は駆け出していた。

 宮中へと続く門。固く閉じたそれに向かって、手をかざす。


 黄金の光が弾けた。

 一人や二人の力では、到底開け閉めできないほどの重い門が、嫌な音を立ててひしゃげた。


 その隙間を縫うように、咲夜は中に飛び込む。


「咲夜様! いけませんお一人では――!」


 重孝の叫びが聞こえたが、立ち止まらなかった。

 


 ***



 乾いた風が吹き抜けていく。

 そこに混じる、火の匂いと、喧騒。


 鷹宮は、足を止めて空を見上げた。


 一人である。

 暗い紫の狩衣が、光を受けて鈍く光る。


 空に上がる煙が幾本か、風に流れて渦を巻いていた。


「殿下!」


 血相を変えて走ってくる貴族と出くわした。

 一瞬、誰だったか、と頭を巡らせて、それが綾子の父である左大臣と思い至る。


「宮中近くで火事です! すでに検非違使庁と南の門が燃えております!」

「――そうか」


 思ったよりも、乾いた声が出た。

 鷹宮は唇をなめる。右手の檜扇がかすかに鳴った。


「南風だ。ここもすぐ燃えような」


 左大臣はひいっと悲鳴を上げ、鷹宮に一瞥もくれず、一目散に逃げ出した。

 娘の居場所すら聞かない男の逃げる背は、どこか滑稽だった。鷹宮は無表情でそれを見送る。


 混乱している宮中を、歩き続ける。

 途中で、皇太子妃付きの侍女の顔を見つける。


「綾子はどうした?」

「で、殿下。妃殿下は……」

「あれを連れて疾く逃げよ」


 侍女の硬い顔は、火への恐怖からか、それとも――。

 しかし、そんなことはもはやどうでもいい。


「行け」


 短く命令すると、侍女を置いて進む。


 また強い風が吹いた。

 烏帽子が飛んで、高い空へ舞い上がっていった。

 たなびく煙が大きくうねり、数を増やしていく。


 乱れた髪を押さえると、自然と口元が歪む。


「そうか……」


 笑みとも嘆きともつかぬ口から、言葉がこぼれた。


「天は、桂宮を選ぶか」


 静かに言葉を残して、鷹宮は進んだ。

 

 檜扇が落ちた。

 深紫に流れる霞。鈍い金箔。風に乗って揺らぐ黒い房。

 泥の残る地面に落ち、割れた。

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