第二話「奔流」
「くそっ」
検非違使の男が、壁を蹴った。
どん、と木板が揺れて、音が響き渡る。
「おい、やめろ。そっちも壊すつもりか」
「わかってるよ!」
民衆によって蹴破られた壁は、板が真ん中で割れてしまっている。新しく替える必要があった。
先ほど恐怖から混乱して、刀を振り回していた男は、今は汚い言葉を吐き続けていた。
声を荒げて、髪を搔きむしる。
「くそ、なんなんだアレは!」
同僚の男は、無理もない、と思う。
抜身の刀を前に、あれほど凛と立てる人間はそういない。
まだ幼さが残る少女だったというのに、その雰囲気に誰しもが呑まれた。
あれが天女。辺境の領主が妻に迎えたという――。
「何見てるんだよ!」
上ずった様子で怒鳴る声。
見やると、髪をぼさぼさにした男が、周囲の民たちを威嚇している。
「何か文句でもあるのか!」
「おい、やめろ。これ以上騒ぎを大きくするな」
検非違使庁周辺の人は、天女の後を追って少しずつ数を減らしている。
残った民衆が何かをする気配はないが、向けてくる視線は冷たい。
特に、子供を今にも斬ろうとしていたこの男には。
「うるさい!」
制止を振り切って、男は裏路地へと入っていった。
「おい、どこへ行く!」
「頭ぁ、冷やしてくるだけだよ!」
検非違使は息をついた。
民衆の凍るような視線が自身に突き刺さってくる。検非違使は顔に仮面を張り付けて、壁の修復に勤めようとした。
静かになるには時間がかかるだろうな、と思いながら。
裏路地に入った男は、もう一度「くそ!」と吐き出してから、早足で進んだ。
大股で進んでいたが、次の路地に差し掛かったところで立ち止まる。
浮浪者の姿があった。動いているものもいれば、もう動かないものも、石のように転がっている。
どれだけ処理しても、絶えず湧いてくる蛆のようなもの。
男は舌打ちした。体温が下がっていた。
踵を返した。
首の後ろを掻きながら、後処理のことを考える。
まずは同僚と一緒に、壊れた壁を直さねばならないだろう。別当に報告をして、あの少女にどう対応するかの指示をもらわなければ。
そう考えて、男は足を止めた。
「……なんだおまえら」
路地の先に、人影が複数あった。
道を塞ぐように立っている。その手には、石や火かき棒が握りこまれていた。
検非違使庁の前でやりあった民の顔を認める。
表情はない。ただぎらぎらと濁った光が、彼らの双眸にあった。
思わず後ずさる。
背後からも音。
振り返れば、そこにも無表情の人影がこちらを見ていた。
――。
***
風が出てきた。
咲夜は、乱れた髪を払うと、門を見た。
宮中の一番外側の門だった。閉じている。
中に入るには、この門の後も、また門をくぐらないといけない。この分ではそちらも閉まっているだろう。
「面倒ね」
咲夜は唇を曲げた。
神力で壊してしまう方が楽なのではないかと思った。
しかし、すぐに打ち消した。
そんなことをしたら、兵士たちと正面衝突になってしまう。
咲夜一人ならいいが、背後には民衆がいる。先ほどのような暴動が起こるのは、最悪の事態だ。
「……あれ?」
堅牢な門に、人影はなかった。
こういうところには、普通、門番がいると思うのだが――。
辺りを見回して、異変に気づく。門番どころか、人がいないのだ。
重孝が鼻を鳴らした。
「これは……。煙の匂いです」
「煙?」
風に乗って流れてくる空気に、何かが燃えているかのような移り香。
微かにざわめきが混じっていた。
空を見上げれば、白い煙がたなびいていた。検非違使庁の方角からである。
さっと重孝の顔が引き締まった。
「これは、火か!」
「え?」
「火事です!」
その言葉に、背後についてきていた民衆たちの様子が変わる。彼らは次々に顔色を青くしていった。
「火事だって!?」
「そんな!」
「ひいっ、逃げなきゃ!」
その声を皮切りに、整然と進んでいたはずの民衆が瓦解した。
「ちょっ……どういうこと? 火事がなんなの?」
ごった返す民衆たちから咲夜を離すと、重孝は眉をひそめる。
「都の建物は、すべて木でできています。そこに火がついたら」
ぶわっと突風が吹く。
重孝は厳しい表情で空を見上げた。
「火の海になります。都ごと焼け落ちる!」
重孝の視線の先――。
いつのまにか、煙の数が増えていた。
咲夜は駆け出していた。
宮中へと続く門。固く閉じたそれに向かって、手をかざす。
黄金の光が弾けた。
一人や二人の力では、到底開け閉めできないほどの重い門が、嫌な音を立ててひしゃげた。
その隙間を縫うように、咲夜は中に飛び込む。
「咲夜様! いけませんお一人では――!」
重孝の叫びが聞こえたが、立ち止まらなかった。
***
乾いた風が吹き抜けていく。
そこに混じる、火の匂いと、喧騒。
鷹宮は、足を止めて空を見上げた。
一人である。
暗い紫の狩衣が、光を受けて鈍く光る。
空に上がる煙が幾本か、風に流れて渦を巻いていた。
「殿下!」
血相を変えて走ってくる貴族と出くわした。
一瞬、誰だったか、と頭を巡らせて、それが綾子の父である左大臣と思い至る。
「宮中近くで火事です! すでに検非違使庁と南の門が燃えております!」
「――そうか」
思ったよりも、乾いた声が出た。
鷹宮は唇をなめる。右手の檜扇がかすかに鳴った。
「南風だ。ここもすぐ燃えような」
左大臣はひいっと悲鳴を上げ、鷹宮に一瞥もくれず、一目散に逃げ出した。
娘の居場所すら聞かない男の逃げる背は、どこか滑稽だった。鷹宮は無表情でそれを見送る。
混乱している宮中を、歩き続ける。
途中で、皇太子妃付きの侍女の顔を見つける。
「綾子はどうした?」
「で、殿下。妃殿下は……」
「あれを連れて疾く逃げよ」
侍女の硬い顔は、火への恐怖からか、それとも――。
しかし、そんなことはもはやどうでもいい。
「行け」
短く命令すると、侍女を置いて進む。
また強い風が吹いた。
烏帽子が飛んで、高い空へ舞い上がっていった。
たなびく煙が大きくうねり、数を増やしていく。
乱れた髪を押さえると、自然と口元が歪む。
「そうか……」
笑みとも嘆きともつかぬ口から、言葉がこぼれた。
「天は、桂宮を選ぶか」
静かに言葉を残して、鷹宮は進んだ。
檜扇が落ちた。
深紫に流れる霞。鈍い金箔。風に乗って揺らぐ黒い房。
泥の残る地面に落ち、割れた。




