第一話「掌握」
如月の陽は高く、空は澄み渡っている。
大路には、昨夜の雨による水たまりが、鈍く光っていた。
その水面を、人の足が、踏み乱す。
ざわ、ざわりと。
「解放せよ――!」
声が上がる。
ひとつ、ふたつ。次第に増えていく。
「時親様を解放せよ!」
「返せ!」
叫びは波となり、大路を満たしていく。
検非違使庁の前には、すでに人の壁ができていた。
農民、町人、女、老人――身なりも身分もばらばらな者たちが、押し合うようにして詰めかけている。
その目は、異様なほどに熱を帯びていた。
「天女様が仰せになったのだ!」
誰かが叫ぶ。
「天女様の夫君が、無実の罪で捕らえられていると!」
どよめきが広がる。
その言葉は、もはや確かめようのないものだった。
誰が言い出したのかも、どこで広まったのかも、誰も知らない。
真実はどうでもよいとばかりに、民衆は集まってうねりを作り始める。
日頃の鬱憤を晴らすがごとく、顔を真っ赤にして叫んでいる男。
群衆に押されて、途中で転ぶ子供。その子供を救おうとする母親。
面白いことが始まりそうだと、好奇心でその波に乗る若者。
様々な人間が集まりだし、叫ぶ。
「返せ!」
「時親様を返せ!」
拳が振り上げられ、水たまりが跳ねる。
泥が飛び、裾を汚すことなど、誰も気にしてはいない。
「ええい、貴様ら、ここは検非違使庁だぞ!」
「立ち去れ! ひっ捕らえられたいか!」
押し寄せる人波に、検非違使たちが声を張り上げているが、騒ぎは収まりそうにない。
むしろ、彼らが邪険に扱えば扱うほど、民衆の表情が険しくなっていく。
「検非違使がなんだってんだ! こっちには天女様がいるんだぞ!」
「まともに仕事してねえくせに! 裏通りに溢れてる浮浪者のこと、知らねえとは言わせねぇぞ!」
「どうせまたご貴族様の都合だろうが!」
「あたしたちの時は見向きもしないくせに!」
噴き出した群衆の不満を浴びて、建物の前に立つ検非違使たちがひるむ。
「き、貴様ら! それ以上寄るんじゃない! 斬られたいのか!」
恐怖からか、検非違使の一人が刀を抜き放った。
ぬらりと光る鈍色のきらめきに、破裂しそうだった場の空気がついに動く。
悲鳴が上がる。殺される、と誰かが言った。ついに本性出しやがったな!と誰かが叫んだ。
誰かが石を拾った。次の瞬間には、投げ入れられていた。
誰が放ったか定かではない石が、次々に数を増やして検非違使を襲った。
検非違使庁の建物を囲む柵が、蹴り壊される。
検非違使は混乱して、がむしゃらに叫びながら刀を振り回した。
騒ぎを聞きつけた検非違使が庁内から飛び出してきたが、刀を振り回している男は味方すらわからない様子で、誰も近づけない。
どちゃりと、幼子が民衆からはじき出されて、検非違使庁の前の泥水の中に倒れこんだ。
刀を振り回す男のすぐそば。子供が泣き出した。男は興奮した目で子供に目をやった。顎から流れる汗が一滴落ちる。刀の切っ先が高く上がった。
そのときだった。
「やめなさい」
高く透き通る声が、場を割った。
群衆を割るように進む。着物をかぶった少女だ。
決して上等とは言えない着物を、前に進みながら落とす。
現れた金の彩りに、肩をぶつけそうだった男が慌てて後ずさる。
燃え上がる夜空の瞳を見て、石を握りしめていた若者が静止する。
その白い肌を見て、年かさの女の汚い叫びが消える。
少女の持つ雰囲気に、検非違使の刀が止まった。
咲夜は、泥だらけになって座り込む子供を見て、息をついた。
「こんなつもりなかったのに……」
最悪だ。
刀を振り上げたままの男を無視して、咲夜は幼子の前にしゃがみこんだ。
「大丈夫? けがはない?」
大粒の涙が溜まっている子供は、しかし目を見開いて、咲夜の顔を見上げる。
ぽろりと涙がこぼしながら、子供はその手を、咲夜に伸ばした。
「おねえちゃん、きれい」
泥だらけの手が、無遠慮に咲夜の頬をぺたりと触る。
はっと誰かが息を呑む音が聞こえた。
頬を濡らす冷たい感触。そのあとに、子供特有の高い体温と、やわらかさ。
ぺたぺたと何度も触っていくそれに、咲夜はぐっと一瞬、眉を下げた。
それから、ふっと笑う。
「そうでしょう。お姉ちゃん綺麗でしょう!」
「うん! きらきらしてる!」
「素直でよろしい」
泥だらけの子供を抱き上げる。頬だけでなく、着物や髪も汚れたが、構わなかった。
「お母さんは?」
「ん!」
子供が指をさした先に、真っ青になって震えている女性を見つける。
咲夜は彼女に近づいて、幼子をその腕に抱かせた。
「あ、あの……ど、泥が……」
おずおずと女性が言い出したが、咲夜は笑い飛ばす。
「大丈夫よ。だってもう、泥だらけだもん」
どこもかしこも――地上に落ちてからは。
そして、咲夜は検非違使たちに向き直った。
刀を振り回していた男は、その切っ先をすでに下げていた。呆然と、青白い顔を足元に落としている。
咲夜は呼びかけた。
「ここに、時親はいる?」
男の顔を見て。それから後ろに控える検非違使たちの顔。順番に目をやった。
「返してもらいにきたの。そこにいるなら、通して」
声はよく通った。
頬から泥水が落ちて、胸元の着物を汚す。染みがさらに広がる。
検非違使たちは、互いに視線を交わしあった。
やがて、おずおずと一人が進み出る。
「……ここには、おられません。上に呼び出されて、移送されました」
「そう。どこに行ったか知ってる?」
ちらと、検非違使が視線で指示した先。
宮中。
咲夜は息をついた。
まだ、生きている。
「ありがとう」
検非違使に礼を言うと、咲夜は踵を返した。
するとなぜか、検非違使が慌て始めた。
「ま、待たれよ! まさか宮中に向かわれるおつもりですか」
「問題ある?」
「問題――」
振り返った咲夜の目を見て、検非違使が黙る。
咲夜は背を向けた。
「か、かの御仁は……その……あなた様が天に帰った、と……」
検非違使が、大きく息を吸う音が聞こえた。
「あの方は潔く、我らのもとに下られました。あなた様を、守ろうとしていらっしゃった」
「だから?」
「……」
はねつけると、検非違使はそれ以上、何も言わなかった。
なんだ。死の間際だっていうのに、あの男ときたら。
――そなたはやはり、人たらしの才能があるようだな。
河原でそう言われたけれど。
人たらしは、どちらだ。
咲夜が進むたび、群衆が割れていく。
歩く咲夜の後を、彼らは静かについていった。
横道から、すいと重孝が入ってくる。
咲夜の半歩後ろを歩きながら、彼は手ぬぐいを差し出した。
「……肝が冷えました」
咲夜は簡単に頬をぬぐう。
「いざってときは神力があるから大丈夫って言ったじゃない」
「あなたに何かあったら、御屋形様になんとお詫びすればよいか」
「ちゃんと情報は取れたでしょ」
「次は、絶対に無茶をなさいますな。私を置いていくのはなしです」
「来なかったのは重孝でしょ」
「……私の体に金縛りをかけたのは誰です」
重孝は憮然としている。
咲夜はぷいと顔をそむけた。
「民があんなふうになるなんて、思わなかったのよ」
止めなければ、きっとあの子は……。
咲夜はぎゅっと手ぬぐいを握りしめた。
――おねえちゃん、きれい!
無邪気に手を伸ばしてきた子供の体温は温かかった。
血が流れていたときのことを想像すると、身震いがする。
――咲夜。夜に咲き誇り輝く花という意味だ。
――美しいそなたにふさわしい名だろう。
ふ、と唇に笑みが浮かぶ。
わずかに、その端が歪んだ。
……本当になんなのだろう。
咲夜は顔を上げると、先を急いだ。
重孝が無言で後に続く。
宮中に繋がる門は、すぐそこだ。
白い鳥が、空を横切った。




