幕間「名残の月」
雨が、降っている。
朝から降り出した雨は、夜になっても止むことがなかった。
庭の池にいくつもの波紋が落ち、ほとりに立つ松は物言わぬ影となっている。
庭に面する蔀戸と御簾は、ひとつ開かれていた。
雨の庭を、そこに座る男がじっと見つめている。細い息が、空気を白く滲ませて消えていった。
「……そこはお寒いでしょう。お体に障ります」
綾子は進言した。
男は狩衣を着ていたが、首元の紐は結ばれていなかった。
白い単衣も緩く、胸元が覗いている。巻かれている包帯に、綾子は目を伏せた。
綾子の言葉を聞いても、彼は動く気配を見せなかった。
こちらを見ない。
「せめて何か温かいものを。白湯のご用意を――」
「酒を」
声が落ちる。
「酒がいい。盃をふたつ」
それきり、雨音が部屋に満ちる。
綾子が侍女に視線をやると、すぐに膳と酒壺が運ばれてきた。
火鉢を持ってくるように言ったが、すぐには届かない。
雨粒が、彼の下袴の裾を濡らしていた。
腕が上がり、手が差し出される。綾子は盃を持たせた。
わずかに触れた手は、はっとするほど熱い。矢傷のせいだ。
すぐにでも床に戻るよう伝えるべきだった。
しかし、盃を口元に運ぶその横顔に、綾子は言葉を紡ぐことができない。
今日送り出した少女の手のぬくもりが、まだ残っていた。
もう、見ないふりができなかった。
けれどそれは――。
綾子は、目の前の男を見た。
恐ろしいほど静かだ。
傷が痛むのか。熱のせいか。きっと、違うだろう。
彼は綾子に、罰を与えない。
――今も。昔も。
かの少女であれば、こんなとき、なんて声をかけるだろうか。
膳の上に、盃が戻された。
ちょうど火鉢が運ばれてきた。酒が温められていく。
ふうっと、白い息が細くたなびいた。
静かな声が混じる。
「雨の音に。――まぎれて消ゆる、ものの影」
それだけを残して、また雨音が世界を閉ざす。
綾子は、唇をわずかに震わせた。
下の句を紡がんと開き、しかし言葉は声にならない。
呼吸を繰り返して、胸を落ち着かせる。
彼は、綾子を見ない。
温められた酒が、空の盃に満ちていく。
もう一つの盃は、冷えたままだった。
――きみの名は、なんという?
初めて出会った幼き頃を思い出した。
元服前の少年が二人。それより幼い自分。
――私の名前は、鷹宮だよ。
微笑む、美しい人。
向けられた眼差しすらも、鮮明で――。
名を呼べば、あるいは。
否。
もはや、取り戻せはしない。
綾子は、名を呼ぶことができなかった。
雨音は深い。
満たされた盃は上げられることなく、冷えていった。
雨の音に
まぎれて消ゆる ものの影
なほ手をのべて 触れむとぞする
――詠み人知らず




