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月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
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幕間「名残の月」

 雨が、降っている。

 

 朝から降り出した雨は、夜になっても止むことがなかった。

 庭の池にいくつもの波紋が落ち、ほとりに立つ松は物言わぬ影となっている。


 庭に面する蔀戸と御簾は、ひとつ開かれていた。

 雨の庭を、そこに座る男がじっと見つめている。細い息が、空気を白く滲ませて消えていった。

 

「……そこはお寒いでしょう。お体に障ります」


 綾子は進言した。


 男は狩衣を着ていたが、首元の紐は結ばれていなかった。

 白い単衣も緩く、胸元が覗いている。巻かれている包帯に、綾子は目を伏せた。


 綾子の言葉を聞いても、彼は動く気配を見せなかった。

 こちらを見ない。


「せめて何か温かいものを。白湯のご用意を――」

「酒を」


 声が落ちる。


「酒がいい。盃をふたつ」


 それきり、雨音が部屋に満ちる。


 綾子が侍女に視線をやると、すぐに膳と酒壺が運ばれてきた。

 火鉢を持ってくるように言ったが、すぐには届かない。

 

 雨粒が、彼の下袴の裾を濡らしていた。

 腕が上がり、手が差し出される。綾子は盃を持たせた。

 

 わずかに触れた手は、はっとするほど熱い。矢傷のせいだ。

 すぐにでも床に戻るよう伝えるべきだった。

 

 しかし、盃を口元に運ぶその横顔に、綾子は言葉を紡ぐことができない。


 今日送り出した少女の手のぬくもりが、まだ残っていた。

 もう、見ないふりができなかった。

 

 けれどそれは――。

 

 綾子は、目の前の男を見た。


 恐ろしいほど静かだ。

 傷が痛むのか。熱のせいか。きっと、違うだろう。


 彼は綾子に、罰を与えない。

 ――今も。昔も。


 かの少女であれば、こんなとき、なんて声をかけるだろうか。


 膳の上に、盃が戻された。

 ちょうど火鉢が運ばれてきた。酒が温められていく。


 ふうっと、白い息が細くたなびいた。

 静かな声が混じる。


「雨の音に。――まぎれて消ゆる、ものの影」


 それだけを残して、また雨音が世界を閉ざす。


 綾子は、唇をわずかに震わせた。

 下の句を紡がんと開き、しかし言葉は声にならない。


 呼吸を繰り返して、胸を落ち着かせる。

 彼は、綾子を見ない。


 温められた酒が、空の盃に満ちていく。

 もう一つの盃は、冷えたままだった。


 ――きみの名は、なんという?


 初めて出会った幼き頃を思い出した。

 元服前の少年が二人。それより幼い自分。


 ――私の名前は、鷹宮だよ。


 微笑む、美しい人。

 向けられた眼差しすらも、鮮明で――。


 名を呼べば、あるいは。


 否。


 もはや、取り戻せはしない。


 綾子は、名を呼ぶことができなかった。


 雨音は深い。

 満たされた盃は上げられることなく、冷えていった。

雨の音に

まぎれて消ゆる ものの影

なほ手をのべて 触れむとぞする


――詠み人知らず

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