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月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
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第六話「翻転」

 朝日が昇る。

 ぬかるんだ地面をきらきらと波立たせて、朝がやってきた。


 咲夜はそれを、都の郊外に近い屋敷から眺めていた。


 宮中と繋がっていた井戸がある屋敷だった。

 咲夜たちが戻ったとき、その井戸はつぶされていた。

 しかし、手引きをしてくれた女は残っていた。

 戻ってきた咲夜たちを見て、彼女は何も聞かず、屋敷に迎え入れた。

 そんな気がしておりました、と。

 

 咲夜は、すぐにでも時親を助けに行きたかった。

 しかし、重孝と竹流からは強く反対された。

 まずは状況判断が先。


 しばらく休めと言われて、少しだけ寝た。

 繰り返し同じ夢を見た。井戸に突き落とされる夢。

 伸ばした手も。名を呼ぶ声も。届かない。

 そのたびに飛び起きて、気がついたら朝日を迎えていた。


「……本当に、助けに戻ると仰るか?」


 朝餉の後、重孝は聞いてきた。


「戻るんじゃない。助けにいくの」

 

 同じ意味だ、と重孝は相手にしない。

 しかし、咲夜にとっては別物だ。


「御屋形様は、それを望みませぬ」

「知ってる。でも関係ないわ」


 時親の望みは、痛いほどわからせられた。夢の中でさえ、彼は咲夜に優しくない。

 咲夜は手を握りしめた。

 重孝と同じように、咲夜が彼の部下だったなら従っただろう。けれど咲夜はそうじゃない。

 その望みは、叶えられない。

 ――咲夜が、咲夜である限り。


「おつらい話になります」

「いいの。教えて」


 まっすぐ重孝を見る。

 彼はしばらく無言だったが、咲夜の視線が揺らがないのを見て、息を吐いた。


「……大きな声では言えませぬが、長い間、帝は病に臥せっておられる。実質上、皇太子殿下が都の主です」


 大饗の上座。最高支配者の席は、空席だった。


「その殿下を害した罪は重い。間違いなく極刑が下される」


 重孝は息を詰め、膝に置いた手をわずかに震わせた。


「わかっていて、御屋形様は残られた。そのお心を……変えられませんでした」


 ですから、と重孝は動く。床に手をついて、膝をやや広げ、頭を下げる。


「どうかこらえてくれませぬか。辺境でなくともよいのです、あなたが逃げてくだされば」


 重孝の下げられた頭。床についた手は力が入りすぎて、血管が浮き上がり、ぶるぶると震えている。

 こんな重孝を見たのは、初めてだった。

 

「……重孝はさ」


 咲夜はなるべく、ゆっくりと言った。


「時親のことが、好きだよね?」

「は……」


 戸惑ったように、頭が揺れる。


「え? 実は嫌いだったとか?」

「そんなはずがありませぬ!」

 

 勢いよく顔が上げられて、咲夜は笑った。


「じゃあ、助けようよ。好きな人が極刑になるんだよ。そんなの許せないでしょ? 好きだから助ける。それでいいじゃない」

「――」


 重孝はしばらく、ぽかんとした様子だった。

 やがて、咲夜の理屈(ことば)を理解したのか、彼は苦虫を噛み潰したような顔で――笑った。


「とても、単純明快なお話ですな」

「でしょう?」


 複雑なことは、そういうのが向いている人にやってもらえばいい。

 例えば、時親だとか。

 咲夜は違うから。

 彼とは違う理屈で、彼を助けにいく。


「……しかし、実際に御屋形様を助けることは難しいでしょう」

「それはなぜ?」

「構造の問題です」


 重孝は姿勢を正すと、袂から折りたたんだ紙を取り出した。それを、咲夜との間に広げる。

 都の地図だ。それともう一枚。辺境の地図。


「御屋形様はおそらく、検非違使庁の中、あるいは宮中のどこかに拘束されておられるはず。前者は宮中の外ですが、もっとも戦える者が多い場所です。後者の場合は、そもそも侵入すること自体が難しくなる」


 重孝は順番に、その場所を示していった。


「例え救い出せたとして、問題は逃走経路と手段です。私と咲夜様だけであれば、馬を交替して夜通し走り続けられたでしょうが、人が増えれば難しくなります。御屋形様が負傷されていた場合は、更に厳しくなるでしょう」


 そして、と重孝は辺境の地図を指し示した。


「辺境に無事辿り着けたとして、それで終わりではありませぬ。御屋形様は逃亡した政治犯です。軍が向けられる。――戦が起きます」


 すっと、部屋の温度が下がった気がした。

 咲夜はごくりと、唾を飲んだ。


 ああ、そうか。

 今、重孝が説明してくれたこと、そのまま全部。

 時親は理解していたのだ。あのとき、もうすでに。


 流れが止められないと知って、被害を最小限に抑えることを選んだ。

 自分の命ひとつが、彼の選択だった。


 時親なら、咲夜を前に出して、宮中と渡り合うこともできただろう。皇太子と互角にやりあえる彼なら、そんな延命の道だって見えていたはずだ。

 けれどその道を、彼は選ばなかった。


 ――私はこれを守り抜くことを誓いました。


 いまさら、時親の言葉の意味が、肩にのしかかる。

 重い。

 

「……不器用な人」


 本当にいまさらの話だ。

 彼は本当に、何も言ってくれない。


 咲夜は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、前を向く。


「だったら余計に、迎えにいかないと」


 咲夜は、時親の力になりたかった。

 一人で歩いていく彼の背中に、追いつきたかった。

 追いすがった咲夜を、彼は振り払った。


 そこにどのような思いがあったにせよ。

 咲夜はそれに対して、否と言わなければならない。

 

 勝手に自己完結して、勝手に切り捨てるなと。


 その優しさは残酷だ。

 残された者は、ずっと彼の面影を背負い続ける。


「そもそもさあ――」


 ふと声が割り込んで、咲夜と重孝がそちらを見た。

 古い几帳の柱に、竹流が止まっていた。


「なんで犯人だって断定されたわけ? 宴の席で仕掛けたのは時親じゃなかったんだよな?」

 

 重孝は、やや逡巡したようだった。

 やがて、少し声を低くして言った。


「……下手人の男は、毎朝、宮中衛府の弓庭(ゆみば)に通ってきておりました」

「弓庭?」

「弓の訓練場です。こちらにきてからも、御屋形様は毎朝の弓を欠かしたことがなかった」

「知り合いだったってことね?」

「……何度か請われて、御屋形様は弓の助言をしていたはずです」

「……」


 そして、皇太子はその男に射られた。


「すべて、最初から。綿密に計画されていた。御屋形様を――」


 重孝は言葉を濁らせ、黙り込んだ。


 咲夜はぎゅっと手を握りしめた。

 宮中に来た時から。否、大饗の招待状の時から。

 すべて皇太子の掌の上だった。


「あ、そうそう。さっき、街をひとっ飛びしてきたんだけどさ」


 竹流が場の空気を払うように、カラッと言う。

 咲夜が女王の封印を解いたことで、彼の術に回される神力は安定したらしい。

 しかし、いつ解けてもおかしくないというのに、よくもまあ気楽に飛ぼうと思えるものだ。


「なんか面白いことになってたぞ。天女様が街に顕現されたんだってさ」

「……え?」

 

 咲夜は瞬いた。


「噂だよ、ウワサ。真夜中、南の門で、黄金の光が立った。その光の中心に美しい女が立っていた。辺境の領主様が娶った天女は、今この都にいるらしい。もしかしたら……ってヤツ」


 それは、確かに咲夜のことだろう。

 あの光景を誰かが見たのだ。

 そして目にしたことを、誰かに言ったのだろう。噂はあっという間に広まるみたいだから――。

 そこまで考えて、咲夜はふと、思いついた。


「まずいですな。咲夜様が都周辺にいることがばれます。このままでは、いずれこの場所も」

「いいえ重孝。これは好機(チャンス)よ」


 は? と戸惑う重孝には目もくれず、咲夜はもう一度、都の地図に目を落とした。


「検非違使庁と宮中。どちらを狙うにしても、私たちには手が足りない。だけど、そうよ。私は、天女だったわ」


 胸に手を当て、咲夜は背を伸ばした。


「堂々と、迎えに行けばいい。私の夫を返してと。民が、私が天女であると、その正当性を保証してくれる!」


 重孝は唖然としていた。

 竹流は面白そうに目を細めている。

 咲夜は決意を改めた。


 天女になれと。

 はじめは、彼が言い出したことだった。

 敵をあざむくためだったとしても、今や、咲夜はそれを体現できる存在になった。

 溢れんばかりの力が、咲夜の体から脈打っている。


 もし足りぬというのなら、道を拓こう。

 空翔ける龍を呼んで、雨を降らせよう。

 愛する夫を天女が取り返しにいく話としては、最高に心躍るものになるだろう。


 宮中の方角にある空を見上げた。


「待っていなさい。必ず、迎えにいく」


 必ずもう一度会う。

 そして、顔を合わせて、文句を言ってやる。


 それから、もし、あなたが私を少しでも認めてくれたなら。


 ――どうかこの思いを、受け止めてほしい。

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