第六話「翻転」
朝日が昇る。
ぬかるんだ地面をきらきらと波立たせて、朝がやってきた。
咲夜はそれを、都の郊外に近い屋敷から眺めていた。
宮中と繋がっていた井戸がある屋敷だった。
咲夜たちが戻ったとき、その井戸はつぶされていた。
しかし、手引きをしてくれた女は残っていた。
戻ってきた咲夜たちを見て、彼女は何も聞かず、屋敷に迎え入れた。
そんな気がしておりました、と。
咲夜は、すぐにでも時親を助けに行きたかった。
しかし、重孝と竹流からは強く反対された。
まずは状況判断が先。
しばらく休めと言われて、少しだけ寝た。
繰り返し同じ夢を見た。井戸に突き落とされる夢。
伸ばした手も。名を呼ぶ声も。届かない。
そのたびに飛び起きて、気がついたら朝日を迎えていた。
「……本当に、助けに戻ると仰るか?」
朝餉の後、重孝は聞いてきた。
「戻るんじゃない。助けにいくの」
同じ意味だ、と重孝は相手にしない。
しかし、咲夜にとっては別物だ。
「御屋形様は、それを望みませぬ」
「知ってる。でも関係ないわ」
時親の望みは、痛いほどわからせられた。夢の中でさえ、彼は咲夜に優しくない。
咲夜は手を握りしめた。
重孝と同じように、咲夜が彼の部下だったなら従っただろう。けれど咲夜はそうじゃない。
その望みは、叶えられない。
――咲夜が、咲夜である限り。
「おつらい話になります」
「いいの。教えて」
まっすぐ重孝を見る。
彼はしばらく無言だったが、咲夜の視線が揺らがないのを見て、息を吐いた。
「……大きな声では言えませぬが、長い間、帝は病に臥せっておられる。実質上、皇太子殿下が都の主です」
大饗の上座。最高支配者の席は、空席だった。
「その殿下を害した罪は重い。間違いなく極刑が下される」
重孝は息を詰め、膝に置いた手をわずかに震わせた。
「わかっていて、御屋形様は残られた。そのお心を……変えられませんでした」
ですから、と重孝は動く。床に手をついて、膝をやや広げ、頭を下げる。
「どうかこらえてくれませぬか。辺境でなくともよいのです、あなたが逃げてくだされば」
重孝の下げられた頭。床についた手は力が入りすぎて、血管が浮き上がり、ぶるぶると震えている。
こんな重孝を見たのは、初めてだった。
「……重孝はさ」
咲夜はなるべく、ゆっくりと言った。
「時親のことが、好きだよね?」
「は……」
戸惑ったように、頭が揺れる。
「え? 実は嫌いだったとか?」
「そんなはずがありませぬ!」
勢いよく顔が上げられて、咲夜は笑った。
「じゃあ、助けようよ。好きな人が極刑になるんだよ。そんなの許せないでしょ? 好きだから助ける。それでいいじゃない」
「――」
重孝はしばらく、ぽかんとした様子だった。
やがて、咲夜の理屈を理解したのか、彼は苦虫を噛み潰したような顔で――笑った。
「とても、単純明快なお話ですな」
「でしょう?」
複雑なことは、そういうのが向いている人にやってもらえばいい。
例えば、時親だとか。
咲夜は違うから。
彼とは違う理屈で、彼を助けにいく。
「……しかし、実際に御屋形様を助けることは難しいでしょう」
「それはなぜ?」
「構造の問題です」
重孝は姿勢を正すと、袂から折りたたんだ紙を取り出した。それを、咲夜との間に広げる。
都の地図だ。それともう一枚。辺境の地図。
「御屋形様はおそらく、検非違使庁の中、あるいは宮中のどこかに拘束されておられるはず。前者は宮中の外ですが、もっとも戦える者が多い場所です。後者の場合は、そもそも侵入すること自体が難しくなる」
重孝は順番に、その場所を示していった。
「例え救い出せたとして、問題は逃走経路と手段です。私と咲夜様だけであれば、馬を交替して夜通し走り続けられたでしょうが、人が増えれば難しくなります。御屋形様が負傷されていた場合は、更に厳しくなるでしょう」
そして、と重孝は辺境の地図を指し示した。
「辺境に無事辿り着けたとして、それで終わりではありませぬ。御屋形様は逃亡した政治犯です。軍が向けられる。――戦が起きます」
すっと、部屋の温度が下がった気がした。
咲夜はごくりと、唾を飲んだ。
ああ、そうか。
今、重孝が説明してくれたこと、そのまま全部。
時親は理解していたのだ。あのとき、もうすでに。
流れが止められないと知って、被害を最小限に抑えることを選んだ。
自分の命ひとつが、彼の選択だった。
時親なら、咲夜を前に出して、宮中と渡り合うこともできただろう。皇太子と互角にやりあえる彼なら、そんな延命の道だって見えていたはずだ。
けれどその道を、彼は選ばなかった。
――私はこれを守り抜くことを誓いました。
いまさら、時親の言葉の意味が、肩にのしかかる。
重い。
「……不器用な人」
本当にいまさらの話だ。
彼は本当に、何も言ってくれない。
咲夜は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、前を向く。
「だったら余計に、迎えにいかないと」
咲夜は、時親の力になりたかった。
一人で歩いていく彼の背中に、追いつきたかった。
追いすがった咲夜を、彼は振り払った。
そこにどのような思いがあったにせよ。
咲夜はそれに対して、否と言わなければならない。
勝手に自己完結して、勝手に切り捨てるなと。
その優しさは残酷だ。
残された者は、ずっと彼の面影を背負い続ける。
「そもそもさあ――」
ふと声が割り込んで、咲夜と重孝がそちらを見た。
古い几帳の柱に、竹流が止まっていた。
「なんで犯人だって断定されたわけ? 宴の席で仕掛けたのは時親じゃなかったんだよな?」
重孝は、やや逡巡したようだった。
やがて、少し声を低くして言った。
「……下手人の男は、毎朝、宮中衛府の弓庭に通ってきておりました」
「弓庭?」
「弓の訓練場です。こちらにきてからも、御屋形様は毎朝の弓を欠かしたことがなかった」
「知り合いだったってことね?」
「……何度か請われて、御屋形様は弓の助言をしていたはずです」
「……」
そして、皇太子はその男に射られた。
「すべて、最初から。綿密に計画されていた。御屋形様を――」
重孝は言葉を濁らせ、黙り込んだ。
咲夜はぎゅっと手を握りしめた。
宮中に来た時から。否、大饗の招待状の時から。
すべて皇太子の掌の上だった。
「あ、そうそう。さっき、街をひとっ飛びしてきたんだけどさ」
竹流が場の空気を払うように、カラッと言う。
咲夜が女王の封印を解いたことで、彼の術に回される神力は安定したらしい。
しかし、いつ解けてもおかしくないというのに、よくもまあ気楽に飛ぼうと思えるものだ。
「なんか面白いことになってたぞ。天女様が街に顕現されたんだってさ」
「……え?」
咲夜は瞬いた。
「噂だよ、ウワサ。真夜中、南の門で、黄金の光が立った。その光の中心に美しい女が立っていた。辺境の領主様が娶った天女は、今この都にいるらしい。もしかしたら……ってヤツ」
それは、確かに咲夜のことだろう。
あの光景を誰かが見たのだ。
そして目にしたことを、誰かに言ったのだろう。噂はあっという間に広まるみたいだから――。
そこまで考えて、咲夜はふと、思いついた。
「まずいですな。咲夜様が都周辺にいることがばれます。このままでは、いずれこの場所も」
「いいえ重孝。これは好機よ」
は? と戸惑う重孝には目もくれず、咲夜はもう一度、都の地図に目を落とした。
「検非違使庁と宮中。どちらを狙うにしても、私たちには手が足りない。だけど、そうよ。私は、天女だったわ」
胸に手を当て、咲夜は背を伸ばした。
「堂々と、迎えに行けばいい。私の夫を返してと。民が、私が天女であると、その正当性を保証してくれる!」
重孝は唖然としていた。
竹流は面白そうに目を細めている。
咲夜は決意を改めた。
天女になれと。
はじめは、彼が言い出したことだった。
敵をあざむくためだったとしても、今や、咲夜はそれを体現できる存在になった。
溢れんばかりの力が、咲夜の体から脈打っている。
もし足りぬというのなら、道を拓こう。
空翔ける龍を呼んで、雨を降らせよう。
愛する夫を天女が取り返しにいく話としては、最高に心躍るものになるだろう。
宮中の方角にある空を見上げた。
「待っていなさい。必ず、迎えにいく」
必ずもう一度会う。
そして、顔を合わせて、文句を言ってやる。
それから、もし、あなたが私を少しでも認めてくれたなら。
――どうかこの思いを、受け止めてほしい。




