第五話「残光」
時親は、夜の雨中を走った。
泥が跳ねて、脚を汚す。革の沓はとっくに水が入って足を冷たく濡らしていたが、構わず進んだ。
与えられた棟の前では、出た時と同様、検非違使たちの姿があった。時親の従者たちと押し問答をしている。
すでに何度かやり合ったようで、従者たちの中には傷を作っている者もいた。
「これは勅命であるぞ! 無駄な抵抗はやめて、早く主を出せ!」
「これ以上、邪魔立てするようなら斬っても良いのだぞ!」
脅し文句にも、従者たちは退かない。
「しつこいぞ! 御屋形様はおられぬと言っておろう!」
怯えた様子は一切なく、彼らは忠実に時親の命を守っていた。戻ってくるまで時間を稼ぐという――。
しかし、検非違使たちも限界だ。何人かは血気立って、腰の剣を抜こうとしている。このままでは血が流れる。
「やめよ」
時親は進んだ。
「私は――時親は、ここにいる」
今にも抜刀しそうになっていた検非違使が、その手を止める。まっすぐ歩んでくる時親の姿を認め、一人、二人と、彼らはただ道を譲った。
「おまえが――い、いや、あなた様が?」
検非違使の一人が、時親と対峙して、言葉遣いを改めた。
「お、御屋形様!」
時親の姿を見て、従者たちが息をついて、座り込んだ。
「そなたらの目的は私だろう。屋敷の者に手は出さないでもらおう」
「貴様! 何を偉そうに――」
「やめよ!」
今にも噛みつきそうだった男を止めて、検非違使の一人が進み出る。
「……あなた様が大人しくついてきてくださるのであれば、否やはありません」
「暴れたりはせぬ」
時親は腰に刷いていた刀を鞘ごと抜くと、検非違使の男にまっすぐ突き出した。
「預けておこう。他は? 縄は必要か?」
検非違使は、一瞬躊躇したようだった。しかし、結局その刀を受け取る。苦虫を噛み潰したような顔だ。
「……結構です。天女様はどこに?」
ひやりとした空気が流れる。
時親は目を細めて、訊いた。
「女が必要か?」
「……ご一緒にお連れしろという命令です」
「いない」
革沓の中に泥水が入ってくる。
時親は言った。
「もう――天に帰った」
***
彼女と初めて会った日のことが脳裏をよぎる。
――それは、美しい生き物だった。
そうとしか言えなかった。
その金の髪。夜空のような瞳。本当に呼吸しているのか、確かめたくなるほど――。
今まで見たどの人間よりも美しく、苛烈で。
兄からの刺客に襲われている最中であったというのに、時親はほんの一瞬、目を奪われてしまった。
その一瞬が、戦の中では取り返しのつかない時間であると、身に染みていたにもかかわらず。
ざばりと水をかけられて、時親は戻ってきた。
気管に水が入って咳き込む。
軽いめまい。耐えられないほどではない。
舌打ちが聞こえた。
「こいつ、全然吐きやがらねえ。もっと痛めつけないとだめか」
「やめておけ。上からは、ほどほどにしろと言われてるんだ。死んでしまったらどうする」
「ちっ……」
尋問対象の前で感情を露わにするとは、あまり質がよくないな。
重孝なら淡々とやるだろう。それが対象の心を折る。
深く息を吸って、吐いた。
殴られた場所がひどく痛んだが、骨や内臓は無事だった。ほどほどに痛めつけられている。ありがたいことだ、と時親は思った。
口の中を切ったらしく、血の味がした。
「おい、貴様、何を休んでる!」
尋問官が、時親の腹を蹴り上げた。
「いい加減に吐け! 皇太子殿下を狙った悪党が!」
二回。三回。
四回目で制止が入って、時親は解放された。
まったく捻りのない、繰り返しの暴力だった。
時親は咳き込みながら、血が混じった唾を吐いた。
例えば、時親が尋問のきつさに泣いて許しを乞うたとして。
例えば、あっさり罪を認めて、嘘の自白をしたとして。
そんなものは、何も意味をなさない。
これは、皇太子暗殺未遂事件だ。
ならば犯人とされた者がどうなるかなど、幼子でもわかること。
しかし、耐えることには意味がある。
時親が耐えただけ――時間が、増えるのだ。
再度、静かに呼吸をする。
そうやって、痛みをある程度、操作する。戦から学んだ。
そうしていると、不意に髪を引っ張られた。
「おい、起きろ。立て!」
時親は立ち上がった。
両脇に尋問官が立った。場所を移動するようだ。
「ふん。上が直々に尋問してくださるってよ!」
上。
検非違使の長は別当だ。けれどこの呼び出しは――。
果たして。
向かった先に、彼がいた。
兄。
「十日ぶりかな。あの大饗以来だ。私が死ななくて、さぞ悔しいだろうな、桂宮」
兄は、そう毒を吐く。
彼は上座にいた。
矢傷は治りきっていないはずだった。装いは、公務のものではない。
なぜなのだろうか。
彼の姿を見て、時親は、長く抱えてきた疑問を口にする。
「私が殿下――あなたを殺そうとすると。本当に、真実、そうお思いか?」
時親と名を変え、辺境に赴き、中央と距離を置き続けた。十二年。一度も帰京しなかった。
だというのに、殺意だけが膨らんでゆく。
冷たい刺客だけが、送られ続ける。
兄は、唇だけで、薄く笑った。
優雅な仕草で白湯を飲むと、右手の仕草だけで、人払いをした。
二人きりになった空間で、しかし時親は縄に繋がれ、兄は脇息に寄りかかる。
「もちろん、桂宮――」
視線が交錯する。
「おまえが私を殺そうとするなんて、あり得ないことだとわかっているよ」
ああ……なるほど。
時親は目を閉じた。
知っていて、仕立て上げる。
わかっていて、殺そうとする。
もはや、とっくに、我々の関係は壊れている。
幼き頃、共に過ごした時間。日が暮れるまで語り合った思い出。時親が兄に抱いた、憧憬も。
「おまえは、昔からそうだった」
顔を上げると、兄はわずかに口元を歪ませていた。
「幼き頃から、人に対してまっすぐで、正しい。誰が何を言おうと、私だけはわかっていた。おまえが『本物』であること」
兄は続けて言った。
「本当は、おまえこそがふさわしかった」
時親は言葉を返そうとした。
違う、と。そんなことはない、と。
しかしその直前、兄の蒼く冷たい瞳が、時親を刺す。
「――なぜ、綾子を求めなかった?」
想像もしていない問いだった。
返事が遅れる。
「……何の話だ」
「桂宮。おまえは知っていたはずだ。もはやここまできて、誤魔化すのは許さぬぞ」
そうして兄は黙った。
時親は、血の味がする唾を飲み込んだ。
そうか、と腹の奥にすとんと落ちる思いがあった。
これなのだ。
――これが、原因か。
「……確かに、知っていた。だが」
息を絞り出す。
「だが、私は望まなかった」
沈黙が落ちた。
兄は白湯を口に含むと、時間をかけてそれを飲んだ。
どちらも、何も言わない。
ただひとつ、呼吸音が聞こえた。
やけに、それだけが響いた。
時間が経った。
ふと思い出したように、兄の口からこぼれ落ちる。
「天女を、逃がしたか」
時親は答えない。
「残しておけば、私に奪われ利用されるとでも思ったか」
答えない。
「……確かに、美しい娘ではあったな。何だったか……そう、この世に二人とない私の光、だったか」
ふふ、と乾いた声が忍び寄った。
時親は、泥まみれの沓先をじっと見つめていた。わずかに、指先が締まった。
牢に放り込まれる。
狭いそこは、簡易な寝台しかなかった。土壁は血や排泄物が付着して、虫を呼んでいる。相当な悪臭もする。
時親は、縄で縛られていた部分をこすってから、その寝台に横になった。
体力勝負になることは、わかりきっている。
少しでも回復に努めなければならない。
目を瞑る。
意識が暗転する前。
白い頬が、滑り込んできた。
思わず手を伸ばした。
指先で、触れて。
自分はあの時、何をしようとしたのだろうか。
――もはや会うことはない。
わかっていながら。
――引き寄せてしまいそうになった。
壊れそうな柔らかさに。
これ以上触れてはいけないと、弾かれるように手を戻した。
華奢な肩は軽く――
闇が、彼女を覆っていった。
……彼女は逃げられただろうか。
逃げているはずだ。




