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月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
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第五話「残光」

 時親は、夜の雨中を走った。

 泥が跳ねて、脚を汚す。革の(くつ)はとっくに水が入って足を冷たく濡らしていたが、構わず進んだ。

 

 与えられた棟の前では、出た時と同様、検非違使たちの姿があった。時親の従者たちと押し問答をしている。

 すでに何度かやり合ったようで、従者たちの中には傷を作っている者もいた。

 

「これは勅命であるぞ! 無駄な抵抗はやめて、早く主を出せ!」

「これ以上、邪魔立てするようなら斬っても良いのだぞ!」

 

 脅し文句にも、従者たちは退かない。

 

「しつこいぞ! 御屋形様はおられぬと言っておろう!」

 

 怯えた様子は一切なく、彼らは忠実に時親の命を守っていた。戻ってくるまで時間を稼ぐという――。

 しかし、検非違使たちも限界だ。何人かは血気立って、腰の剣を抜こうとしている。このままでは血が流れる。

 

「やめよ」

 

 時親は進んだ。

 

「私は――時親は、ここにいる」

 

 今にも抜刀しそうになっていた検非違使が、その手を止める。まっすぐ歩んでくる時親の姿を認め、一人、二人と、彼らはただ道を譲った。

 

「おまえが――い、いや、あなた様が?」

 

 検非違使の一人が、時親と対峙して、言葉遣いを改めた。

 

「お、御屋形様!」

 

 時親の姿を見て、従者たちが息をついて、座り込んだ。

 

「そなたらの目的は私だろう。屋敷の者に手は出さないでもらおう」

「貴様! 何を偉そうに――」

「やめよ!」

 

 今にも噛みつきそうだった男を止めて、検非違使の一人が進み出る。

 

「……あなた様が大人しくついてきてくださるのであれば、否やはありません」

「暴れたりはせぬ」

 

 時親は腰に刷いていた刀を鞘ごと抜くと、検非違使の男にまっすぐ突き出した。

 

「預けておこう。他は? 縄は必要か?」

 

 検非違使は、一瞬躊躇したようだった。しかし、結局その刀を受け取る。苦虫を噛み潰したような顔だ。

 

「……結構です。天女様はどこに?」

 

 ひやりとした空気が流れる。

 時親は目を細めて、訊いた。

 

「女が必要か?」

「……ご一緒にお連れしろという命令です」

「いない」

 

 革沓の中に泥水が入ってくる。

 時親は言った。

 

「もう――天に帰った」



 ***



 彼女と初めて会った日のことが脳裏をよぎる。

 

 ――それは、美しい生き物だった。


 そうとしか言えなかった。

 その金の髪。夜空のような瞳。本当に呼吸しているのか、確かめたくなるほど――。

 今まで見たどの人間よりも美しく、苛烈で。

 

 兄からの刺客に襲われている最中であったというのに、時親はほんの一瞬、目を奪われてしまった。

 その一瞬が、戦の中では取り返しのつかない時間であると、身に染みていたにもかかわらず。



 ざばりと水をかけられて、時親は戻ってきた。

 気管に水が入って咳き込む。

 軽いめまい。耐えられないほどではない。


 舌打ちが聞こえた。

 

「こいつ、全然吐きやがらねえ。もっと痛めつけないとだめか」

「やめておけ。上からは、ほどほどにしろと言われてるんだ。死んでしまったらどうする」

「ちっ……」


 尋問対象の前で感情を露わにするとは、あまり質がよくないな。

 重孝なら淡々とやるだろう。それが対象の心を折る。


 深く息を吸って、吐いた。

 殴られた場所がひどく痛んだが、骨や内臓は無事だった。ほどほどに痛めつけられている。ありがたいことだ、と時親は思った。

 口の中を切ったらしく、血の味がした。


「おい、貴様、何を休んでる!」

 

 尋問官が、時親の腹を蹴り上げた。

 

「いい加減に吐け! 皇太子殿下を狙った悪党が!」

 

 二回。三回。

 四回目で制止が入って、時親は解放された。


 まったく捻りのない、繰り返しの暴力だった。

 時親は咳き込みながら、血が混じった唾を吐いた。


 例えば、時親が尋問のきつさに泣いて許しを乞うたとして。

 例えば、あっさり罪を認めて、嘘の自白をしたとして。

 そんなものは、何も意味をなさない。

 これは、皇太子暗殺未遂事件だ。

 ならば犯人とされた者がどうなるかなど、幼子でもわかること。


 しかし、耐えることには意味がある。

 時親が耐えただけ――時間が、増えるのだ。


 再度、静かに呼吸をする。

 そうやって、痛みをある程度、操作する。戦から学んだ。

 

 そうしていると、不意に髪を引っ張られた。


「おい、起きろ。立て!」


 時親は立ち上がった。

 両脇に尋問官が立った。場所を移動するようだ。


「ふん。上が直々に尋問してくださるってよ!」

 

 上。

 検非違使の長は別当だ。けれどこの呼び出しは――。


 果たして。

 向かった先に、彼がいた。


 兄。


「十日ぶりかな。あの大饗以来だ。私が死ななくて、さぞ悔しいだろうな、桂宮」


 兄は、そう毒を吐く。


 彼は上座にいた。

 矢傷は治りきっていないはずだった。装いは、公務のものではない。


 なぜなのだろうか。

 彼の姿を見て、時親は、長く抱えてきた疑問を口にする。


「私が殿下――あなたを殺そうとすると。本当に、真実、そうお思いか?」

 

 時親と名を変え、辺境に赴き、中央と距離を置き続けた。十二年。一度も帰京しなかった。

 だというのに、殺意だけが膨らんでゆく。

 冷たい刺客だけが、送られ続ける。


 兄は、唇だけで、薄く笑った。

 優雅な仕草で白湯を飲むと、右手の仕草だけで、人払いをした。

 二人きりになった空間で、しかし時親は縄に繋がれ、兄は脇息に寄りかかる。


「もちろん、桂宮――」


 視線が交錯する。


「おまえが私を殺そうとするなんて、あり得ないことだとわかっているよ」


 ああ……なるほど。

 時親は目を閉じた。


 知っていて、仕立て上げる。

 わかっていて、殺そうとする。

 もはや、とっくに、我々の関係は壊れている。


 幼き頃、共に過ごした時間。日が暮れるまで語り合った思い出。時親が兄に抱いた、憧憬も。


「おまえは、昔からそうだった」


 顔を上げると、兄はわずかに口元を歪ませていた。


「幼き頃から、人に対してまっすぐで、正しい。誰が何を言おうと、私だけはわかっていた。おまえが『本物』であること」


 兄は続けて言った。


「本当は、おまえこそがふさわしかった」


 時親は言葉を返そうとした。

 違う、と。そんなことはない、と。

 しかしその直前、兄の蒼く冷たい瞳が、時親を刺す。


「――なぜ、綾子を求めなかった?」


 想像もしていない問いだった。

 返事が遅れる。


「……何の話だ」

「桂宮。おまえは知っていたはずだ。もはやここまできて、誤魔化すのは許さぬぞ」


 そうして兄は黙った。

 

 時親は、血の味がする唾を飲み込んだ。

 そうか、と腹の奥にすとんと落ちる思いがあった。

 これなのだ。

 ――これが、原因か。


「……確かに、知っていた。だが」


 息を絞り出す。


「だが、私は望まなかった」


 沈黙が落ちた。


 兄は白湯を口に含むと、時間をかけてそれを飲んだ。

 どちらも、何も言わない。


 ただひとつ、呼吸音が聞こえた。

 やけに、それだけが響いた。

 

 時間が経った。


 ふと思い出したように、兄の口からこぼれ落ちる。


「天女を、逃がしたか」


 時親は答えない。


「残しておけば、私に奪われ利用されるとでも思ったか」


 答えない。


「……確かに、美しい娘ではあったな。何だったか……そう、この世に二人とない私の光、だったか」


 ふふ、と乾いた声が忍び寄った。

 時親は、泥まみれの沓先をじっと見つめていた。わずかに、指先が締まった。


 牢に放り込まれる。

 狭いそこは、簡易な寝台しかなかった。土壁は血や排泄物が付着して、虫を呼んでいる。相当な悪臭もする。

 時親は、縄で縛られていた部分をこすってから、その寝台に横になった。


 体力勝負になることは、わかりきっている。

 少しでも回復に努めなければならない。


 目を瞑る。


 意識が暗転する前。

 白い頬が、滑り込んできた。


 思わず手を伸ばした。

 指先で、触れて。

 

 自分はあの時、何をしようとしたのだろうか。

 

 ――もはや会うことはない。

 わかっていながら。


 ――引き寄せてしまいそうになった。


 壊れそうな柔らかさに。

 これ以上触れてはいけないと、弾かれるように手を戻した。

 

 華奢な肩は軽く――

 闇が、彼女を覆っていった。

 

 ……彼女は逃げられただろうか。

 

 逃げているはずだ。

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