第四話「覚悟」
どうして。
咲夜は重孝に受け止められて、すぐに上を見上げた。
もう姿はなかった。
咄嗟に上ろうとして壁に手をついた。
縄梯子が足元に落ちていた。
「と、時親……」
名を呼んだ。
その名を声に出したのは初めてだった。
おかしなことに――もう半年、彼のもとにいたというのに!
喉がひどく痛む。
「時親、ねえ!」
声が、井戸の中で跳ね返る。
もう一度呼ぼうとして――声が出なかった。
何も聞こえない。自分の呼吸音だけが、うるさい。
何かが胸の奥からこみ上げて、咲夜は土壁を引っ掻いた。
紗乃が整えてくれていた爪が、割れた。
つんと鼻が痛くなって、呼吸が浅くなる。
腕を引っ張られた。重孝だった。
「参りましょう」
彼はそれだけ行って、咲夜を井戸の奥へ導いた。
「い、いやよ!」
咲夜は腕を振り払おうとした。
「私行かない! ここに残る!」
足に力が入らない。
けれど、必死に踏ん張った。
「時親のとこに戻る! 絶対に離れな――」
重孝の手が、咲夜の頬を打った。
乾いた音がこだました。
一瞬何が起きたのかわからなかった。
音が消えて、世界が遠のいた。
咲夜は呆然と、頬に手をやった。
足から力が抜けて、ずるりと座り込む。
じんじんと、頬が熱を持った。
重孝が静かに、ゆっくりと……まるで絞り出すかのように言った。
「なんのために御屋形様が、残られたとお思いか?」
重孝の顔を見た。怒ってはいない。ただ深い思いがそこにあった。
唇が震えた。
何も返せなかった。
「……参りましょう」
重孝が再度、咲夜の腕を引いた。
今度は抗わなかった。
暗い道を、ただ歩いた。
傷ついた足の裏が、熱くてじんじんしている。
硬い地面の感触も、どこか現実感がない。
巻かれた布は、ちっとも役に立たない。
足が痛い、と咲夜は思った。
痛くて涙が勝手にあふれる。
どうしようもなく、痛い。
泣きながら歩いた。
手を引く重孝は、何も言わなかった。
どれくらい歩いたかわからない。
風の匂いが変わって、外が近いことがわかった。
土壁が見えた。
四方を囲まれた狭い空間。
しかし、風は上から流れてきている。
見上げれば、松明に照らし出された天井は、土ではなく木製の蓋だった。
重孝がいくつか石を投げて蓋を叩くと、少し時間を置いてから、自然と開いた。
縄梯子が投げ込まれる。
上がると、一人の女が待っていた。
顔を隠すように着物をかぶっていたが、ちらと見えたそれはどこか見覚えがある。
「馬は?」
「こちらです」
重孝の問いに、簡潔に答える女の声。知っている。
綾子のところだ。いつも咲夜を案内してくれた侍女――。
ああ。
咲夜は顔をゆがめた。
――どうぞ、咲夜様のお国へ。お逃げください。
綾子の顔が浮かんで消えた。
言葉にならない感情が、ぐるぐる体をめぐっている。
綾子。重孝。紗乃。――時親。
いっそ叫んでしまいたかった。
しかし、ぐっと唇を噛んだ。
どこかの屋敷のようだった。
三人以外に人は見えなかったが、建物内にかすかに気配がある。
いつの間にか雨は上がっていた。
厩から馬を二頭連れ出す。
咲夜は、重孝の背にしがみつく形で馬に乗せられた。
「まずは都を出ます。馬を替えながら走り続けます。かなり荒行になりますのでご覚悟を」
大通りを避けるように、南へ向かった。
真夜中の都は、しんとしていた。
けれど、馬が通ると、闇の中で何かがうごめいた。
掲げた火が、裏通りで一塊になっている浮浪者たちの姿を映し出す。
咲夜は息を呑んだ。
都に来た時には気づかなかった。
雨水に打たれ、寒さに震えながら、身を寄せ合う人々。
華々しい大通りを通った時には見えなかった闇。
否。
違う。咲夜は知っていたはずだった。
都に入った瞬間の、広く立派な道。その空虚な光景。違和感を。
思えばあの時から、時親は何かを静かに考え込んでいた。
十二年ぶりに帰ってきた故郷に、彼は、何を思っていたのだろう?
実の兄から殺意を向けられて、彼はどう心に整理をつけたのだろうか。
全部見ていたのに、どうして私は、何もしなかったのだろう。
あの日、紗乃が死にそうだった山で、思い知ったはずなのに。
そう「見える」だけで、彼が何も感じないなんて、あるはずなかったのに……。
しばらく南下すると、都の出口が見えてきた。
元は立派だったはずの、大きな門。
今はくたびれて、見る影もない。宵闇の中では廃墟同然のありさまだ。
柱や瓦はところどころ崩れて、もともと朱かったのであろう色は褪せ、剥がれ落ちている。
ふと雲が流れた。
雲間から月が顔を覗かせて、その門を映し出す。
「重孝、止まって!」
咲夜は咄嗟に、重孝の着物を引いた。
――門の屋根に、白い鳥が止まっていた。
「竹流!」
呼びかけても、竹流は下りてこなかった。
月の光を浴びて、彼の眼が銀色に光っていた。
「……咲夜」
竹流は言った。
わずかに、躊躇するように間があった。
「限界だ。封印が破れる」
封印。
咲夜は目を見開いた。
「女王陛下のお力が弱まっておられる。もう、オレがいくら眠ったって引き伸ばすことができない」
心臓が嫌な音を立てる。
「罰なんかじゃない。女王陛下は、ご自分の寿命をご存じだった。急がねばならなかった。女王を交替させなければならなかったんだ」
嫌だ、と咲夜は思った。
そんなばかな、とも。
そこから先は聞きたくない、と目をつむる。
しかし、耳は閉じてくれない。
「咲夜。ほんの少しでいい。おまえが願えば、もう封印は解ける。神力を取り戻せる。そうしたら戻れる。――月へ」
「やめて!」
竹流が黙った。
咲夜は、がくがくと震える手で、顔を覆った。
地上にやってきたばかりの頃なら、すぐに戻った。戻れた。
けれど今は……。
――どうして今なの!
何も考えたくないと思った。
月のことも、地上のことも、咲夜のこの心でさえ、全部切り取って捨ててしまいたい。
「……ごめんなあ」
ふっと、かすれた声が、咲夜の心に割って入る。
気が付くと、竹流が替えの馬の背に下り立っていた。
「おまえにだけ背負わせて。オレはおまえの近衛なのに、何もできなくて。こんなふうに泣かせて――本当にごめん」
咲夜は竹流の、黒い瞳を見た。
咲夜のように、泣き叫んでいるわけでも、嘆いているわけでもない。
けれど。
そこから流れ込んでくる痛みが、咲夜の心を、少しだけ落ち着かせる。
竹流に謝られたのは、初めてだ。
いつも軽口ばっかりで本心を見せないくせに。
それでいて、咲夜が一人で泣いているとそばに来たがる。
いつも一人では、泣かせてくれない。
「……まさか、竹流から、謝られる……なんて」
泣きじゃくりながら、そんな言葉が口から出ていた。
「ひでぇな。オレだって悪いと思ったときは謝りますけどー?」
応じるように、かすれた声が、いつもの軽妙な空気を作る。
咲夜はぐずぐず泣きながら、笑った。
いつの間にか、重かった雲は流れ切って、空は晴れ晴れと月を迎えていた。
重孝が馬を下りる。
咲夜が月へ帰るなら。もはや逃げる必要などない。
重孝も竹流も、何も言わなかった。
ただ静かに待っていた。
咲夜は、自身の手に目を落とす。
泥と土で汚れた手のひら。割れた爪。
そっと頬に触れた。触れるか触れないか。そのくらいの強さで。
硬い指先の、かすかな温もりが、そこに残っている気がした。
大きく深呼吸すると、すっと落ち着いた。
月を見上げる。
涙は残っている。
けれども。
もう一度、息を吸って吐いた。
潰れそうだった胸の奥が、ようやく静まった。
時親の顔を思い出した。稀に見せる、ふわりと崩れるあの顔を。
静かなあの眼差しを。
ああ、咲夜はきっと後悔するだろう。
けれど、それでいい。
もうとっくに、咲夜はあの深く静謐な湖の底にいる。
「重孝、教えて」
咲夜は振り向いた。
「教えて。どうやったら救える?」
「……戻られるおつもりか?」
「いいえ」
重孝は怪訝な顔をしている。
咲夜はくすりと笑った。
「戻らない。ただ戻ったって、時親は……あの男は、また私を拒否する」
咲夜は自身の肩に触れた。
きっと何度繰り返しても、彼は咲夜を踏み込ませない。
守られるだけの存在では、だめなのだ。
あの男に認めてもらうには。
——その隣に、立たなければ。
「だから私も勝手にやる。そして、ぶん殴る」
「……は?」
汚れた手を握りしめて、拳を作った。
「だってあれはひどすぎるでしょ。絶対に許せない。重孝だってそう思うでしょ」
重孝が、どれだけあの男を大事にしているかなんて、嫌でもわかる。
その重孝に、自身を見捨てて咲夜を守れと、命令するなんて。
重孝は一瞬言葉に詰まったようだった。それで十分だ。
「だから殴る。重孝の分も私が殴っておくから安心して」
そして、竹流に向き直る。
「竹流」
「おう」
「……ありがとう。それから、ごめん。私、帰れないわ」
「うん。知ってた」
「まだ、帰らない。やらなきゃいけないことが残ってるの。あと少しだけ、おばあさまには頑張ってもらうわ」
咲夜は胸の前で、手を組んだ。
祈るように、呼吸とともに自分の中に意識を沈めた。
女王がかけた封印の術を感じる。
あれほど強固で、自分にはどうにもならないと諦めていたものが、今はこんなにも脆く繊細に見えた。
咲夜が願うだけで。
たった一歩、踏み出すだけで。
本当はこんなにも近くにあったのに、咲夜が知ろうとしなかっただけだった。
それをほどく瞬間。
咲夜は心の中で、女王に謝った。
ごめんなさい、おばあさま。
でももう少しだけ、あと少しだけでいいの。
咲夜はまだ、もう少しだけ、ただの女の子でいたい――。
自分の足で、この地に立って、並び立ちたい。
たとえ、その先で何を失うとしても。




