表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
19/36

第四話「覚悟」

 どうして。


 咲夜は重孝に受け止められて、すぐに上を見上げた。


 もう姿はなかった。

 咄嗟に上ろうとして壁に手をついた。

 縄梯子が足元に落ちていた。


「と、時親……」


 名を呼んだ。

 その名を声に出したのは初めてだった。

 おかしなことに――もう半年、彼のもとにいたというのに!


 喉がひどく痛む。


「時親、ねえ!」


 声が、井戸の中で跳ね返る。

 もう一度呼ぼうとして――声が出なかった。


 何も聞こえない。自分の呼吸音だけが、うるさい。


 何かが胸の奥からこみ上げて、咲夜は土壁を引っ掻いた。

 紗乃が整えてくれていた爪が、割れた。

 つんと鼻が痛くなって、呼吸が浅くなる。


 腕を引っ張られた。重孝だった。


「参りましょう」


 彼はそれだけ行って、咲夜を井戸の奥へ導いた。


「い、いやよ!」


 咲夜は腕を振り払おうとした。


「私行かない! ここに残る!」


 足に力が入らない。

 けれど、必死に踏ん張った。


「時親のとこに戻る! 絶対に離れな――」


 重孝の手が、咲夜の頬を打った。


 乾いた音がこだました。

 一瞬何が起きたのかわからなかった。

 音が消えて、世界が遠のいた。

 

 咲夜は呆然と、頬に手をやった。

 足から力が抜けて、ずるりと座り込む。

 じんじんと、頬が熱を持った。


 重孝が静かに、ゆっくりと……まるで絞り出すかのように言った。

 

「なんのために御屋形様が、残られたとお思いか?」


 重孝の顔を見た。怒ってはいない。ただ深い思いがそこにあった。

 唇が震えた。

 何も返せなかった。


「……参りましょう」


 重孝が再度、咲夜の腕を引いた。

 今度は抗わなかった。


 暗い道を、ただ歩いた。

 

 傷ついた足の裏が、熱くてじんじんしている。

 硬い地面の感触も、どこか現実感がない。

 巻かれた布は、ちっとも役に立たない。

 

 足が痛い、と咲夜は思った。

 痛くて涙が勝手にあふれる。

 どうしようもなく、痛い。


 泣きながら歩いた。

 手を引く重孝は、何も言わなかった。


 どれくらい歩いたかわからない。

 風の匂いが変わって、外が近いことがわかった。


 土壁が見えた。

 四方を囲まれた狭い空間。

 しかし、風は上から流れてきている。

 見上げれば、松明に照らし出された天井は、土ではなく木製の蓋だった。

 

 重孝がいくつか石を投げて蓋を叩くと、少し時間を置いてから、自然と開いた。

 縄梯子が投げ込まれる。


 上がると、一人の女が待っていた。

 顔を隠すように着物をかぶっていたが、ちらと見えたそれはどこか見覚えがある。

 

「馬は?」

「こちらです」


 重孝の問いに、簡潔に答える女の声。知っている。

 綾子のところだ。いつも咲夜を案内してくれた侍女――。


 ああ。

 咲夜は顔をゆがめた。


 ――どうぞ、咲夜様のお国へ。お逃げください。

 

 綾子の顔が浮かんで消えた。

 言葉にならない感情が、ぐるぐる体をめぐっている。


 綾子。重孝。紗乃。――時親。


 いっそ叫んでしまいたかった。

 しかし、ぐっと唇を噛んだ。

 

 どこかの屋敷のようだった。

 三人以外に人は見えなかったが、建物内にかすかに気配がある。


 いつの間にか雨は上がっていた。


 厩から馬を二頭連れ出す。

 咲夜は、重孝の背にしがみつく形で馬に乗せられた。


「まずは都を出ます。馬を替えながら走り続けます。かなり荒行になりますのでご覚悟を」


 大通りを避けるように、南へ向かった。


 真夜中の都は、しんとしていた。

 けれど、馬が通ると、闇の中で何かがうごめいた。


 掲げた火が、裏通りで一塊になっている浮浪者たちの姿を映し出す。

 咲夜は息を呑んだ。

 都に来た時には気づかなかった。


 雨水に打たれ、寒さに震えながら、身を寄せ合う人々。

 華々しい大通りを通った時には見えなかった闇。


 否。


 違う。咲夜は知っていたはずだった。

 都に入った瞬間の、広く立派な道。その空虚な光景。違和感を。


 思えばあの時から、時親は何かを静かに考え込んでいた。

 十二年ぶりに帰ってきた故郷に、彼は、何を思っていたのだろう?

 実の兄から殺意を向けられて、彼はどう心に整理をつけたのだろうか。


 全部見ていたのに、どうして私は、何もしなかったのだろう。


 あの日、紗乃が死にそうだった山で、思い知ったはずなのに。

 そう「見える」だけで、彼が何も感じないなんて、あるはずなかったのに……。

 

 しばらく南下すると、都の出口が見えてきた。


 元は立派だったはずの、大きな門。

 今はくたびれて、見る影もない。宵闇の中では廃墟同然のありさまだ。

 柱や瓦はところどころ崩れて、もともと朱かったのであろう色は褪せ、剥がれ落ちている。


 ふと雲が流れた。

 雲間から月が顔を覗かせて、その門を映し出す。


「重孝、止まって!」


 咲夜は咄嗟に、重孝の着物を引いた。


 ――門の屋根に、白い鳥が止まっていた。


「竹流!」


 呼びかけても、竹流は下りてこなかった。

 月の光を浴びて、彼の眼が銀色に光っていた。


「……咲夜」

 

 竹流は言った。

 わずかに、躊躇するように間があった。

 

「限界だ。封印が破れる」


 封印。

 咲夜は目を見開いた。

 

「女王陛下のお力が弱まっておられる。もう、オレがいくら眠ったって引き伸ばすことができない」

 

 心臓が嫌な音を立てる。


「罰なんかじゃない。女王陛下は、ご自分の寿命をご存じだった。急がねばならなかった。女王を交替させなければならなかったんだ」

 

 嫌だ、と咲夜は思った。

 そんなばかな、とも。


 そこから先は聞きたくない、と目をつむる。

 しかし、耳は閉じてくれない。


「咲夜。ほんの少しでいい。おまえが願えば、もう封印は解ける。神力を取り戻せる。そうしたら戻れる。――月へ」

「やめて!」


 竹流が黙った。


 咲夜は、がくがくと震える手で、顔を覆った。


 地上にやってきたばかりの頃なら、すぐに戻った。戻れた。

 けれど今は……。

 

 ――どうして今なの!


 何も考えたくないと思った。

 月のことも、地上のことも、咲夜のこの心でさえ、全部切り取って捨ててしまいたい。

 

「……ごめんなあ」


 ふっと、かすれた声が、咲夜の心に割って入る。

 気が付くと、竹流が替えの馬の背に下り立っていた。

 

「おまえにだけ背負わせて。オレはおまえの近衛なのに、何もできなくて。こんなふうに泣かせて――本当にごめん」


 咲夜は竹流の、黒い瞳を見た。

 咲夜のように、泣き叫んでいるわけでも、嘆いているわけでもない。

 けれど。


 そこから流れ込んでくる痛みが、咲夜の心を、少しだけ落ち着かせる。


 竹流に謝られたのは、初めてだ。

 いつも軽口ばっかりで本心を見せないくせに。


 それでいて、咲夜が一人で泣いているとそばに来たがる。

 いつも一人では、泣かせてくれない。


「……まさか、竹流から、謝られる……なんて」


 泣きじゃくりながら、そんな言葉が口から出ていた。


「ひでぇな。オレだって悪いと思ったときは謝りますけどー?」


 応じるように、かすれた声が、いつもの軽妙な空気を作る。

 咲夜はぐずぐず泣きながら、笑った。

 

 いつの間にか、重かった雲は流れ切って、空は晴れ晴れと月を迎えていた。

 重孝が馬を下りる。

 咲夜が月へ帰るなら。もはや逃げる必要などない。


 重孝も竹流も、何も言わなかった。

 ただ静かに待っていた。


 咲夜は、自身の手に目を落とす。

 泥と土で汚れた手のひら。割れた爪。

 そっと頬に触れた。触れるか触れないか。そのくらいの強さで。

 硬い指先の、かすかな温もりが、そこに残っている気がした。


 大きく深呼吸すると、すっと落ち着いた。

 月を見上げる。


 涙は残っている。

 けれども。


 もう一度、息を吸って吐いた。

 潰れそうだった胸の奥が、ようやく静まった。


 時親の顔を思い出した。稀に見せる、ふわりと崩れるあの顔を。

 静かなあの眼差しを。

 

 ああ、咲夜はきっと後悔するだろう。

 けれど、それでいい。


 もうとっくに、咲夜はあの深く静謐な湖の底にいる。

 

「重孝、教えて」


 咲夜は振り向いた。


「教えて。どうやったら救える?」

「……戻られるおつもりか?」

「いいえ」


 重孝は怪訝な顔をしている。

 咲夜はくすりと笑った。


「戻らない。ただ戻ったって、時親は……あの男は、また私を拒否する」


 咲夜は自身の肩に触れた。

 きっと何度繰り返しても、彼は咲夜を踏み込ませない。


 守られるだけの存在では、だめなのだ。

 あの男に認めてもらうには。

 ——その隣に、立たなければ。


「だから私も勝手にやる。そして、ぶん殴る」

「……は?」

 

 汚れた手を握りしめて、拳を作った。


「だってあれはひどすぎるでしょ。絶対に許せない。重孝だってそう思うでしょ」


 重孝が、どれだけあの男を大事にしているかなんて、嫌でもわかる。

 その重孝に、自身を見捨てて咲夜を守れと、命令するなんて。


 重孝は一瞬言葉に詰まったようだった。それで十分だ。


「だから殴る。重孝の分も私が殴っておくから安心して」


 そして、竹流に向き直る。


「竹流」

「おう」

「……ありがとう。それから、ごめん。私、帰れないわ」

「うん。知ってた」

「まだ、帰らない。やらなきゃいけないことが残ってるの。あと少しだけ、おばあさまには頑張ってもらうわ」


 咲夜は胸の前で、手を組んだ。

 祈るように、呼吸とともに自分の中に意識を沈めた。


 女王がかけた封印の術を感じる。

 あれほど強固で、自分にはどうにもならないと諦めていたものが、今はこんなにも脆く繊細に見えた。


 咲夜が願うだけで。

 たった一歩、踏み出すだけで。


 本当はこんなにも近くにあったのに、咲夜が知ろうとしなかっただけだった。


 それをほどく瞬間。

 咲夜は心の中で、女王に謝った。


 ごめんなさい、おばあさま。

 でももう少しだけ、あと少しだけでいいの。

 咲夜はまだ、もう少しだけ、ただの女の子でいたい――。

 自分の足で、この地に立って、並び立ちたい。


 たとえ、その先で何を失うとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ