第一話「面影」
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
謝る青年を、サクヤは笑って許した。
その背に抱えられる少女は、ぐっすり眠っている。気持ちよさそうな寝顔だ。
「明日起きたら、叱っておきますので」
「いいのよ。あなたもこの数日、警備や護衛で大変だったでしょう。ゆっくりお休みなさい」
「そうします。まあ、こいつが何もしでかさなければ、ですが……」
青年が乾いた笑いを見せて、背負った存在へ目をやる。
頭を下げて、彼は下がっていった。
二人の背中を見送って、サクヤは目を細める。
「……懐かしいわね」
廊下に控える護衛官が、その呟きを拾って顔を向けてきた。
なんでもないのよ、と首を振ると、すぐ石像のように動かなくなる。
サクヤは自室に戻った。
夜の帳はとっくに落ちていた。
それでも、今夜は無礼講だ。開いた窓からは、風に乗って陽気な音楽が流れてくる。街は騒がしく、祝いの声であふれている。
今日、女王が代替わりしたのだ。
ふう、と息を吐いて肩を叩くと、サクヤは窓を閉めた。
水差しから水を注ぎ、喉を潤す。渇きはおさまらず、もう一杯飲んだ。
「こんなに喋ったのは、久しぶりね……」
孫娘からせがまれた地上での話は、一日で話し切ることができなかった。
代替わりの儀を終えた後、晩餐会への出席もそこそこに、少女は元女王のもとへやってきて、続きをねだった。
明日は、孫娘が王太女となる儀式が行われる。こんな時間になるまで部屋に帰らない少女を心配して、近衛が迎えにやってくるのは当然だ。
苦虫を嚙み潰したような顔で、眠る孫娘をおんぶする近衛の青年。
けれど少女を見るその眼差しは、慈愛に溢れている。
その昔、自分を支えてくれた近衛の面影と、よく似ている――。
サクヤは、寝台のそばの壁に飾ってある長槍に目をやった。
長く使い込まれた槍は武骨で、装飾は一切ない。柄にぶら下がる白い風切り羽の房だけが、唯一の自己主張。
そこに向かい、そっと指先で房に触れる。
「……三百年よ。褒めてくれる?」
記憶の中の彼が、大げさに肩をすくめる。飄々とした態度で、サクヤをからかう。そして最後に、サクヤの頭をぽんと手で包み込んだ。
――よくやったな。
跡形もなくなって、槍だけしか残っていなくても。
サクヤの近衛は、サクヤをどんなときも前向きにしてくれる。
「そうよね」
サクヤは笑った。
長く肩に居座っていた重さが、もうない。
「……うん。そうよね!」
この国は新たな女王を迎えた。次の後継者の心配もない。
サクヤが頑張る必要は、もうない。
両手を広げる。
誰もいない部屋で、笑いながらくるくると回る。
その勢いのまま、寝台に倒れこんだ。
幕を引いていない窓ごしに、青く輝く星が見える。
しばらく、その星をじっと見つめた。
サクヤが月を治めてきた三百年余。ずっと変わらずそこにあった。
祖母が亡くなった夜。重責に泣いた夜。娘が誕生した夜。幸せに包まれた夜。近衛がいなくなった夜。
どんな夜が来ても、サクヤを優しく照らし続けてくれた。
今は、母があの星を愛した理由が、はっきりとわかる。
ふふ、と笑みが漏れた。
「……あの子、きっと明日も来るわね」
サクヤが語ったのは、一年のうちの半分だけ。恋の成就がなった、その時までの話。
ならば、ずっと興奮した様子だった孫娘は、その続きを欲しがってやってくる。
ああ、けれど。
これより先の話は、ちっとも面白くないだろう。
孫娘をわくわくさせるような、劇的な展開なんてないからだ。
ただ、静かに刻み込まれた。
魂の奥底。この胸の中で、いつまでも光り輝く。
瞼が重い。
まどろみの中、それが見えた。
春の光。雪解けのような笑み。その口元。
静かな眼差し。風が運ぶ、爽やかな甘い――
名を呼ぼうとして、空気に溶けていった。
その青い星の光に包まれながら、元女王は、ゆっくりと眠りに落ちた。
***
あ、と咲夜は空を指さした。
「見て。星がすごい」
太陽が完全に隠れたところだった。
満点の星空が姿を見せ、宝石のように輝いている。
今宵は月がない。星がとても綺麗に見える。
「あら、真に」
酒壺を運んできた紗乃が、足を止めて咲夜が指さした方向に感嘆の息を漏らす。
脇息に寄りかかっていた時親も、それに目をやって動きを止めた。
「なんだか、星に包まれてるって感じがするわね」
「咲夜様は詩人ですわね」
「本当? 一首詠ってみようかしら。時親もどう?」
「……私に歌の才はないぞ」
「こういうのはきっと勢いが大事なのよ」
ねえ、と紗乃を見れば、彼女は盃に酒を満たしながら、穏やかに笑った。
「色々挑戦なさるのは、咲夜様のいいところですわね」
「……うーん。でも、いざ歌にするってなると、難しいわね」
綾子は即興で歌を詠んでいたけれど、あれは綾子だったからできたことなのかもしれない。
「紗乃は? なんだかサラッと詠めちゃいそうだけど」
膳に酒の肴を整えながら、紗乃は首を振った。
「私もそちらの方面はあまり得意ではございません。夫ならご期待に副えたかもしれませんが……」
えっ、と咲夜は声を上げた。
「紗乃、夫がいるの?」
「あら。さすがにこの年まで独り身ではございませんわ」
確かに紗乃の年齢は中年の頃合いであったが、だとしても辺境にいた頃から、彼女が家庭を持っていると感じたことはなかった。
咲夜と同じ棟で仕事をして、いつも咲夜よりも早く起きて、遅くに眠っている。
「夫は亡くなりました。もう十年になりますわ」
「そう……だったんだ」
「夫は御屋形様の……殿下の文官の一人でした。その縁があって、私が侍女として仕えることになったのです。――さ、ご用意ができましたよ」
紗乃が膳を指し示す。
時親のための酒と肴。咲夜には白湯と果物が用意されていた。
「わ。ありがとう」
橘の良い匂いがして、咲夜はすうっと息を吸い込んだ。
小皿には干し柿が乗っていて、ひとつまみ口に入れれば、甘みが広がる。
辺境では甘味が貴重だったから、これが食べられるのは嬉しい。
咀嚼しながら、咲夜は紗乃のことを考える。
十年前に亡くなった夫。時親の文官だった人。もう半年以上仕えてくれているのに、咲夜は彼女のことを、全く知らなかった。
「ねえ、紗乃のこと、もうちょっと聞いてもいい?」
上目遣いに聞く。
紗乃は退出しようと踵を上げていたが、咲夜のお願いを聞いて驚いたように瞬いた。
「あら……どういたしましょう。殿下と妃殿下のお時間を邪魔する気はなかったのですが」
「構わぬ」
時親が、酒を嘗めながら言った。
「むしろ、そなたがここで内緒にすれば、咲夜は私との時間、ずっと気がそぞろだ」
「そ、そんなことは……」
「ないか?」
あるかもしれない、と咲夜は口を閉じた。
ほほほ、と紗乃が口元を隠して笑った。
「まあ……お二人の仲にあてられてしまいますわね。私の身の上などつまらないお話ですが、それでもよろしければお答えいたしますわ」
「やった。じゃあ遠慮なく聞いちゃう。その旦那さんとは、いつどこで出会ったの?」
「十三年前に……辺境で。夫は元々、辺境で文官をしていたのです」
紗乃が座り直せば、別の侍女がその前に白湯が乗った膳を運んできた。時親が何か指示したのかもしれない。
「そうなんだ。あれ? ってことは、時親と一緒に都から来たわけじゃないのね」
「はい」
「どんな人だったの?」
「歌や詩を愛した人でしたわ。食べるものに困っても、そのお金で、都から和歌集を取り寄せるような困った人でもありました。いつか都に行きたいと言っていたのですが、叶わず……私だけこうして都にいるなんて、皮肉なものですね」
「……」
少し突っ込んで聞きすぎたかもしれない、と咲夜は黙った。
「そういえば紗乃は、里帰りしなくてもいいの?」
話題を変える。
「里帰り――でございますか」
「うん。紗乃の故郷は辺境でしょう? 私と時親が都にいるから残ってくれてるけど、帰りたいときはいつでも帰っていいからね」
紗乃が、申し訳なさそうに首を傾げる。
「私の故郷は辺境ではなく……、とても――とても遠い場所です故。今は、殿下と妃殿下のいらっしゃる場所が故郷ですから、問題ありません」
「遠い、場所」
「はい。実は私、放蕩娘でしたの。夫に出会って、故郷を捨てました。ですからもう、戻ることはできません。殿下と妃殿下にお仕えできれば、嬉しゅうございます」
咲夜はじっと、紗乃の顔を見つめた。
紗乃もその視線を受けて、咲夜を見つめ返す。
先に視線を逸らしたのは、紗乃の方だった。
「そろそろ戻らないと。これ以上咲夜様のお時間を独り占めしたら、殿下に嫉妬されてしまいそうです」
うふふ、と含み笑いする様子は、いつもの紗乃だった。用意された白湯を飲んで、その膳ごと退出していく。
その背が見えなくなるまで、見つめ続けた。
「咲夜?」
時親の声に、はっと我に返る。
「どうした」
「あ――うん。ごめん、ぼうっとしてた」
干し柿をひとつ、つまんで口に入れる。甘さが口に広がる。
ふと、時親がす、と腕を伸ばして、咲夜の唇に触れた。
「何か、気になることがあったか」
指の感触を感じながら、咲夜は干し柿を歯でゆっくり押しつぶす。
ああ、この男は本当に人をよく見ている。それが嬉しくもあり、苦々しくもある。
「……さっきの話、知ってた?」
「紗乃の夫君のことか」
「そっちじゃなくて」
「故郷のことはよく知らぬ」
ああ、だが。と、時親が視線を上げた。何かを思い出すように。
「故郷では、それなりの身分の姫だったのではないか」
「……どうしてそう思うの?」
「出会った時から、言葉遣いや振る舞いが整っていた。身分のない者が、簡単に身に着けられるものではない」
「……」
思い返せば紗乃は、初めて会った時、咲夜の容貌を見て、何も言わなかった。
街に着いた際、民たちは咲夜の髪や瞳の色に驚き、恐れ、しかし興味津々といったふうだったのに。
彼女だけは咲夜の容姿ではなく、ぼろぼろになっている顔や服を見ていた。時親に文句を言ったことを思い出す。女子をこのような姿で放っておくなど何事か、と。
それに、咲夜が神力を取り戻した後。
紗乃の姿に、何かの違和感を覚えている。それが何かは、説明できない。
するりと、時親の指が頬を撫でた。
「何か考えている顔だ」
間近で見つめられる。
気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「ちょっと、気になることがあっただけ」
「それは?」
「紗乃が……」
咲夜は口をつぐんだ。
先ほどの紗乃の言葉がよぎる。
――故郷を捨てました。
――今は、殿下と妃殿下のいらっしゃる場所が故郷。
その言葉に嘘はないと思う。いつだって、紗乃は咲夜の味方だった。
咲夜をかばって凶刃に倒れ、咲夜を逃がすために身代わりに残った。
彼女の隠し事を暴いてしまえば、きっと紗乃とは、今まで通りの関係に戻れなくなる。
紗乃は故郷を捨てた。
咲夜は故郷に帰る。
お互いが選んだ道。それでいいのではないか。
咲夜は目を強く閉じると、
「なんでもない。勘違いだったみたい」
時親を押しのけて干し柿を食べる。
「なんだ。教えてはくれぬのか」
「時親。女の子はね、少しくらい謎めいていた方が魅力的なのよ」
夜が更けていく。
満点の星空が、二人の時間を見守っていた。




