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月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
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第一話「大饗」

 大饗(だいきょう)

 新年の宴。

 大和国が開く宴の中でも、最大かつ最上級の宴会。


 この場に招かれるということは、ただの名誉ではない。国に認められ、中央に関わることを許された証である。

 席順は厳格に定められている。場に座すだけで、すべてが丸裸になる。

 身分。権力。立場。

 そして――誰の側にいるのか。


 中央に縁遠い者ほど、この場を望む。

 縁を得るために。己を示すために。あるいは、這い上がるために。


 しかし、この宴には魔物が棲んでいる。


 値踏み。嫉妬。警戒。排斥。

 大饗は、序列という名の刃が、静かに人を切り裂く場でもあった。



 ***



 異例のことである、と聞かされていた。

 女性は、宴に出席するとしても、男性と違って御簾の中に隠され、表に出ない存在。

 皇太子妃や、参加を許された貴族たちの妻は、皆そのように配慮されている。

 本来なら、咲夜もまた、そう扱われるべきである、と。


 紗乃が悔しまぎれに言っていた。

 これでは、見世物のようではありませんか。と。


 大饗での咲夜の席は、上級貴族たちが並ぶ席の中央。

 最奥に座す皇族のちょうど正面。

 ――もっとも、視線に晒される席だった。


 御簾や几帳は、もちろんない。

 男たちが座る宴の中に、一人置かれる美しい「供物」。

 それが、今日の咲夜である。


 隣に時親の席があるとはいえ、それはあまりにも露骨な攻撃だった。


 その席順を聞かされたとき、咲夜の胸の内に湧いたのは、恐怖でも怒りでもなかった。

 悔しさはあった。けれど、安心感が勝っていた。


 明確な攻撃の意思表示によって、誰が敵で誰が味方なのかが露になる。

 味方のふりをして近づかれる気持ち悪さに比べたら、非常に明瞭で、納得感があった。


 あの皇太子はやはり敵なのだ、と思い直すことができたから。


 だから咲夜は、当日、その中央の席を手で示されて、思わず笑っていた。


 すでに人は集まっていた。

 皇太子も、時親も、貴族たちも、全員が席について()()を待っている。


 さあ、天女と呼ばれる女は一体どのようなものなのか。

 本当に天女と言えるほどの価値ある女なのか。

 手ぐすね引いて、見定めようとしている。


 ――いい度胸だわ。


 咲夜はこれから起こることに、ほんの少しだけ胸が高鳴るのを感じた。

 

 今日の咲夜は、紗乃の手によって、完璧なまでに整えられている。

 席順を知った時から、紗乃と相談して、咲夜自ら決めた装い。


 金の髪は隠さず、横を編み上げて、深い紅の椿を添えた。

 衣は、光を受けると艶めく黒。青みがかった夜空の色だ。

 衣の内側は淡い白を重ね、裳は紅を選んだ。


 向こうが咲夜を見世物にしたいというのであれば、望むところだ。

 ただし、ただの俗物の目を楽しませるためのものには、なってやらない。

 見ることすら恐れ多いものとして、そこに在ろう。


 そう決心して、咲夜は宴に乗り込んだ。

 扇で顔を隠すこともなく。

 咲夜は、笑んだまま、宴の中へ踏み入った。


 一歩、足を踏み出すたび、宴のざわめきが止んでいった。

 下座に並ぶ、中・下級貴族たちが横切る咲夜の姿に目を見開く。

 尾を引く裳の川を、ただ息を呑んで見送る。

 政治の中枢に近い、上級貴族たちのそばを通れば、談笑していた彼らの顔が、見事なまでに崩れるのが見て取れた。


 咲夜は、ゆっくり歩んだ。

 視線を浴びることを、拒むでもなく、受け流すでもなく。

 ただ、そのまま進む。


 中央、指示された席の隣には時親が座っていた。

 相変わらずこんな時でも、彼のまとう空気は変わりなく、静かで落ち着いている。

 咲夜は彼と一瞬だけ目を合わせ――自席の前で、最奥に設けられた席に向き直った。


 最上位の席は帝のために用意されているが、座は空だった。病のため、ということだが、正確なところは知らない。

 そのため、その隣の席。

 そこに座る男こそが、宮中を支配する存在。

 

 一分の隙もなく整えられた美。圧倒的な存在感を放つ、その人。

 冷えた白い袍。ちらりと覗く裏地は薄紅。

 内側は権威を示す黄丹(おうに)

 皇太子。


 彼の脇、御簾が下ろされている内に、わずかに動く人影があった。

 正面からははっきり見えないが、咲夜はきっと綾子であると思った。


 綾子のことだ。

 きっと咲夜が見世物になっていることに、心を痛めている。

 彼女は優しい人だから。


 ――安心して、綾子。私は、大丈夫。


 咲夜はそっと、体の前で合わせていた手をほどいた。


 偉大なる女王と、ずっと比較され続けてきた。

 跡を継ぐのにふさわしくないと、ずっと陰口を言われ続けてきた。

 時には真正面から、慇懃な言葉遣いと礼儀を保たれたまま、劣っている事実を突きつけられた。

 値踏みを受け、貶められ、屈辱を受けた。


 片手に持つ檜扇をゆっくりと持ち上げて、開いてゆく。


 咲夜は逃げた。だから、地上(ここ)にいる。

 けれど、一度折れたからこそ。


 咲夜は、開いた檜扇を胸に掲げた。

 流水と松。


 それを皇太子に見せつけて、咲夜はふわりと笑いかけた。

 不敵な笑みだった。


 劇的な変化はなかった。

 皇太子は咲夜からの挑戦的な笑みを受けて、ただわずかに唇を上げた。

 そうでなくては、面白くない。と、言われた気がした。


「さあ」


 皇太子が扇を開く。


「大饗を、始めよう」


 それを合図に、膳が運ばれ始めた。

 大勢の使用人や侍女が動き回り、場を整え、酒を注いでいく。


 最初の一献は、場で最上位の者だ。

 皆が彼の動きに注目する中、皇太子は盃を手に取ると、す、と正面に掲げた。


 正面――時親と咲夜、その二人に。

 誰もがはっと息を呑んだ。


 そして、美しい動作で口へ運ぶ。


 すぐに視線が、一斉に二人へと向けられた。

 どうするのか、といった雰囲気だ。


 時親は静かに皇太子と目を合わせると、目礼し、盃を取った。

 一口口をつけると、「なめるだけでよい」とひそやかに言って、咲夜に回す。


 回された盃に満ちる酒に、咲夜は視線を落とした。

 

 咲夜は、酒を飲んだことがない。

 時親があまり酒を飲む習慣がなかったせいかもしれないが、月でも地上でも、酒を飲む機会はなかった。

 飲みたいとも思わなかったけれど。


 揺らぐ酒の水面を見て、咲夜はくすりと笑った。


 皆が咲夜に注目する。月でも地上でも変わらない場面。

 だというのに、なぜか今、咲夜の心は軽やかなのだ。

 あんなに泥を飲み込んだかのように沈んでいた頃と違って。

 なんでもできそうな気がするくらいには。


 咲夜は、両手で盃を掲げ持った。

 正面奥――先ほどこちらに盃を向けた、あの支配者に向かって。

 まっすぐに視線を合わせる。

 見つめ合いながら、酒に口をつけた。


 苦い味が広がって、一瞬吐き出しそうになった。

 皇太子はただ、薄く微笑した。


 酒が酌み交わされ、宴はふわりと盛り上がった。

 ある者は隣の者と言葉を交わし、ある者は上の者に面通しを願い、ある者は下の者を呼びつける。

 その中にあって、時親と咲夜のそばは静かだった。誰も人が寄り付いてこない。

 否、時折近づこうとする者の気配はあった。しかし、結局やってはこない。


 咲夜は出された料理に手をつけながら、ちらと時親の横顔を見る。

 国を挙げての最大の宴。そこに出席できない最高位者の代わりに、宮中を掌握している皇太子。

 その血を分けた、今は臣下に降りた弟……。


 咲夜が少し考えただけでも、時親はとても面倒くさい立場にいる。

 彼がずっと静かにしているのは、より面倒な状況を作らないためなのだろう。

 きっと、早く宴が終わって辺境に帰りたいとでも思っているのではないか――。


 そのとき。

 手に膳を持った侍女が、咲夜に向かってまっすぐ歩いてきた。

 彼女は咲夜の前に膝をつき、目を伏せながら、膳を押し出してきた。


「こちらを。……お心でございます」


 膳の上には、小さく整えられた焼き菓子が載せられた皿がひとつ。


 差し出し主の名前は、伝えられなかった。

 咲夜は咄嗟に、皇太子妃がいるであろう御簾を見た。


 御簾の奥は沈黙している。しかし、微かに人影が揺れた気がした。

 きっと、彼女だ。


 咲夜はにっこり笑うと、指先でつまんで、菓子を口に運んだ。

 ほのかな甘みが広がって、ほっと肩から力が抜ける気がする。

 

 酒を飲まない咲夜にとって、出された食事は少し濃いめの味付けだったから、この甘さがちょうどよく染みた。

 

 けれど、こんなものを咲夜に贈って、彼女は大丈夫なのだろうか。

 咲夜はそっと皇太子の様子をうかがいみた。


 それはなぜか、咲夜だけではなかった。

 この場の意識が、ひとつに集まっていた。

 息を呑む音。伏せられる視線。場は静けさで満ちる。

 誰もが皇太子の反応を、固唾を呑んで待っていた。


 皇太子は、微動だにしなかった。

 薄い微笑を浮かべたまま、まるで知らぬかのように座している。

 決して気づいていないわけではないだろうに。

 微笑は、もはや表情ではなかった。仮面のように、動かない。


 周囲の緊張の糸がほどけ、さわさわと談笑が戻ってくる。

 咲夜はただ、不気味に思えてならなかった。


 やがて、雅楽の演奏が始まった。

 咲夜がいる上級貴族の席と、皇太子の席との間に、少し空間がある。そこが舞台になっていた。

 雅楽に合わせた舞が、次々と披露されていく。


 月にはない音楽や舞に、咲夜ははじめ興味深く見入っていた。けれど三曲目にもなると、さすがに飽きてくる。

 長く座り続けているせいで、足も痛くなってきた。

 時親は開始時からほとんど動いていない。どうしてその姿勢がこれほど続くのか、コツがあれば聞いてみたいくらいだ。


 それに。

 咲夜はそろりと、正面に視線を戻した。

 上座にいる皇太子もまた、まったく姿勢を崩さない。

 

 二人とも特殊な訓練でも受けているのかもしれない。

 

 ああ、早く終わらないかな。

 咲夜は視線を落とし、ふと、考えた。


 宴が終わったら、時親と一緒に辺境へ帰ることになる。

 すぐ帰るわけではないと思うが、早めに綾子に面会をお願いして、感謝を伝えないといけない。

 あれから何度か文のやり取りはしているが、綾子も皇太子妃という立場から忙しく、なかなか会うことができない。会えたとしても、短時間だけだった。

 最後にもう一回、綾子と語り合いたいな。

 

 曲が終わった。

 

「おお」


 誰かが声を上げた。

 咲夜はそれで、場の空気が切り替わったことに気づいた。


 顔を上げれば、今まで微動だにしていなかった皇太子が、立ち上がっていた。

 あれほど長く同じ姿勢だったのに、その影響は微塵も感じさせない。優雅な足取りで進み出る。


 どうやら皇太子は、舞を披露するらしい。


「殿下の舞を、このような近くで拝むことができるとは」

「幸先がよろしいようで」

 

 周辺の貴族たちが、ひそやかに囁く。

 期待が、場に満ちていく。


 咲夜はその正体を測りかねたまま、舞台に立つ皇太子を見た。


 確かに彼は、美しかった。

 

 衣装の色合わせ。小物の装飾。香の選定。

 姿勢、立ち振る舞い。

 ただ腕を上げるという動作にすら、隙がない。


 きっと、ここまで洗練するには、長い時間と努力が必要だったはずだ。

 それが生まれついてのものではないことは、咲夜にもわかる。

 国を背負うという、同じ立場にあるからこそ。


 その男は、雅楽が始まる直前、咲夜と目を合わせた。

 

「もう逃げられぬよ」


 ――と。

 声は出ていない。それでも。告げられた気がした。


 ぞわりと、背筋が粟立った。


 よくない。そう思った。

 言葉にならない何かが、咲夜の頭の奥を打つ。

 咲夜は隣の時親を見た。


 目の端に捉えた時親は無言で、皇太子の顔を見つめている。

 その表情がほんの少しだけ険しい。

 彼もこの、異様な空気を感じ取っているのか。


 ――音が、鳴った。


 舞の始まりは、静かだった。


 ゆるやかに、半分だけ開かれた檜扇。金箔が光を受け、きらめく。

 描かれた流水が流れ出す。滑るように、足が運ばれる。

 引いては戻し、戻しては開く。

 遅れて、衣が揺れた。まるで風が吹いたかのように。


「ほう……」

「さすがは殿下」


 感嘆が漏れる。


 扇が返った。すべて開き切った。

 紅。

 流水の先に咲き誇るのは、梅だ。


 檜扇から伸びる長い紐を、もう片方の腕ですくいあげて。

 そこで、動きが止まった。


 白い衣に、紅や紫苑、萌黄をまとめた緒が映える。

 一本、するりと衣を撫でて落ちていく、その色の軌跡さえも。


 目を逸らさなければならない気がしていたのに、気がつくと咲夜は息をするのも忘れて、舞に見入っていた。

 言葉はいつしか消えていた。

 貴族たちからも、御簾の内側にいる女性たちからも、一切の音が上がらない。

 皆、ただただ、その舞に心奪われていた。


 ――だから、誰も動けなかった。


 流れる視線が。

 花びらを散らすような指先が。

 大きく開いた爪先を引く、力強くも繊細な動きが。

 

 次の瞬間、白い衣が、まるで雷に貫かれたように崩れ落ちたのを。

 それすらも舞の一部のような気がして――。


 しかし、舞手は立ち上がらなかった。


「……えっ?」


 音が消えた。

 

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