第一話「大饗」
大饗。
新年の宴。
大和国が開く宴の中でも、最大かつ最上級の宴会。
この場に招かれるということは、ただの名誉ではない。国に認められ、中央に関わることを許された証である。
席順は厳格に定められている。場に座すだけで、すべてが丸裸になる。
身分。権力。立場。
そして――誰の側にいるのか。
中央に縁遠い者ほど、この場を望む。
縁を得るために。己を示すために。あるいは、這い上がるために。
しかし、この宴には魔物が棲んでいる。
値踏み。嫉妬。警戒。排斥。
大饗は、序列という名の刃が、静かに人を切り裂く場でもあった。
***
異例のことである、と聞かされていた。
女性は、宴に出席するとしても、男性と違って御簾の中に隠され、表に出ない存在。
皇太子妃や、参加を許された貴族たちの妻は、皆そのように配慮されている。
本来なら、咲夜もまた、そう扱われるべきである、と。
紗乃が悔しまぎれに言っていた。
これでは、見世物のようではありませんか。と。
大饗での咲夜の席は、上級貴族たちが並ぶ席の中央。
最奥に座す皇族のちょうど正面。
――もっとも、視線に晒される席だった。
御簾や几帳は、もちろんない。
男たちが座る宴の中に、一人置かれる美しい「供物」。
それが、今日の咲夜である。
隣に時親の席があるとはいえ、それはあまりにも露骨な攻撃だった。
その席順を聞かされたとき、咲夜の胸の内に湧いたのは、恐怖でも怒りでもなかった。
悔しさはあった。けれど、安心感が勝っていた。
明確な攻撃の意思表示によって、誰が敵で誰が味方なのかが露になる。
味方のふりをして近づかれる気持ち悪さに比べたら、非常に明瞭で、納得感があった。
あの皇太子はやはり敵なのだ、と思い直すことができたから。
だから咲夜は、当日、その中央の席を手で示されて、思わず笑っていた。
すでに人は集まっていた。
皇太子も、時親も、貴族たちも、全員が席について主役を待っている。
さあ、天女と呼ばれる女は一体どのようなものなのか。
本当に天女と言えるほどの価値ある女なのか。
手ぐすね引いて、見定めようとしている。
――いい度胸だわ。
咲夜はこれから起こることに、ほんの少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
今日の咲夜は、紗乃の手によって、完璧なまでに整えられている。
席順を知った時から、紗乃と相談して、咲夜自ら決めた装い。
金の髪は隠さず、横を編み上げて、深い紅の椿を添えた。
衣は、光を受けると艶めく黒。青みがかった夜空の色だ。
衣の内側は淡い白を重ね、裳は紅を選んだ。
向こうが咲夜を見世物にしたいというのであれば、望むところだ。
ただし、ただの俗物の目を楽しませるためのものには、なってやらない。
見ることすら恐れ多いものとして、そこに在ろう。
そう決心して、咲夜は宴に乗り込んだ。
扇で顔を隠すこともなく。
咲夜は、笑んだまま、宴の中へ踏み入った。
一歩、足を踏み出すたび、宴のざわめきが止んでいった。
下座に並ぶ、中・下級貴族たちが横切る咲夜の姿に目を見開く。
尾を引く裳の川を、ただ息を呑んで見送る。
政治の中枢に近い、上級貴族たちのそばを通れば、談笑していた彼らの顔が、見事なまでに崩れるのが見て取れた。
咲夜は、ゆっくり歩んだ。
視線を浴びることを、拒むでもなく、受け流すでもなく。
ただ、そのまま進む。
中央、指示された席の隣には時親が座っていた。
相変わらずこんな時でも、彼のまとう空気は変わりなく、静かで落ち着いている。
咲夜は彼と一瞬だけ目を合わせ――自席の前で、最奥に設けられた席に向き直った。
最上位の席は帝のために用意されているが、座は空だった。病のため、ということだが、正確なところは知らない。
そのため、その隣の席。
そこに座る男こそが、宮中を支配する存在。
一分の隙もなく整えられた美。圧倒的な存在感を放つ、その人。
冷えた白い袍。ちらりと覗く裏地は薄紅。
内側は権威を示す黄丹。
皇太子。
彼の脇、御簾が下ろされている内に、わずかに動く人影があった。
正面からははっきり見えないが、咲夜はきっと綾子であると思った。
綾子のことだ。
きっと咲夜が見世物になっていることに、心を痛めている。
彼女は優しい人だから。
――安心して、綾子。私は、大丈夫。
咲夜はそっと、体の前で合わせていた手をほどいた。
偉大なる女王と、ずっと比較され続けてきた。
跡を継ぐのにふさわしくないと、ずっと陰口を言われ続けてきた。
時には真正面から、慇懃な言葉遣いと礼儀を保たれたまま、劣っている事実を突きつけられた。
値踏みを受け、貶められ、屈辱を受けた。
片手に持つ檜扇をゆっくりと持ち上げて、開いてゆく。
咲夜は逃げた。だから、地上にいる。
けれど、一度折れたからこそ。
咲夜は、開いた檜扇を胸に掲げた。
流水と松。
それを皇太子に見せつけて、咲夜はふわりと笑いかけた。
不敵な笑みだった。
劇的な変化はなかった。
皇太子は咲夜からの挑戦的な笑みを受けて、ただわずかに唇を上げた。
そうでなくては、面白くない。と、言われた気がした。
「さあ」
皇太子が扇を開く。
「大饗を、始めよう」
それを合図に、膳が運ばれ始めた。
大勢の使用人や侍女が動き回り、場を整え、酒を注いでいく。
最初の一献は、場で最上位の者だ。
皆が彼の動きに注目する中、皇太子は盃を手に取ると、す、と正面に掲げた。
正面――時親と咲夜、その二人に。
誰もがはっと息を呑んだ。
そして、美しい動作で口へ運ぶ。
すぐに視線が、一斉に二人へと向けられた。
どうするのか、といった雰囲気だ。
時親は静かに皇太子と目を合わせると、目礼し、盃を取った。
一口口をつけると、「なめるだけでよい」とひそやかに言って、咲夜に回す。
回された盃に満ちる酒に、咲夜は視線を落とした。
咲夜は、酒を飲んだことがない。
時親があまり酒を飲む習慣がなかったせいかもしれないが、月でも地上でも、酒を飲む機会はなかった。
飲みたいとも思わなかったけれど。
揺らぐ酒の水面を見て、咲夜はくすりと笑った。
皆が咲夜に注目する。月でも地上でも変わらない場面。
だというのに、なぜか今、咲夜の心は軽やかなのだ。
あんなに泥を飲み込んだかのように沈んでいた頃と違って。
なんでもできそうな気がするくらいには。
咲夜は、両手で盃を掲げ持った。
正面奥――先ほどこちらに盃を向けた、あの支配者に向かって。
まっすぐに視線を合わせる。
見つめ合いながら、酒に口をつけた。
苦い味が広がって、一瞬吐き出しそうになった。
皇太子はただ、薄く微笑した。
酒が酌み交わされ、宴はふわりと盛り上がった。
ある者は隣の者と言葉を交わし、ある者は上の者に面通しを願い、ある者は下の者を呼びつける。
その中にあって、時親と咲夜のそばは静かだった。誰も人が寄り付いてこない。
否、時折近づこうとする者の気配はあった。しかし、結局やってはこない。
咲夜は出された料理に手をつけながら、ちらと時親の横顔を見る。
国を挙げての最大の宴。そこに出席できない最高位者の代わりに、宮中を掌握している皇太子。
その血を分けた、今は臣下に降りた弟……。
咲夜が少し考えただけでも、時親はとても面倒くさい立場にいる。
彼がずっと静かにしているのは、より面倒な状況を作らないためなのだろう。
きっと、早く宴が終わって辺境に帰りたいとでも思っているのではないか――。
そのとき。
手に膳を持った侍女が、咲夜に向かってまっすぐ歩いてきた。
彼女は咲夜の前に膝をつき、目を伏せながら、膳を押し出してきた。
「こちらを。……お心でございます」
膳の上には、小さく整えられた焼き菓子が載せられた皿がひとつ。
差し出し主の名前は、伝えられなかった。
咲夜は咄嗟に、皇太子妃がいるであろう御簾を見た。
御簾の奥は沈黙している。しかし、微かに人影が揺れた気がした。
きっと、彼女だ。
咲夜はにっこり笑うと、指先でつまんで、菓子を口に運んだ。
ほのかな甘みが広がって、ほっと肩から力が抜ける気がする。
酒を飲まない咲夜にとって、出された食事は少し濃いめの味付けだったから、この甘さがちょうどよく染みた。
けれど、こんなものを咲夜に贈って、彼女は大丈夫なのだろうか。
咲夜はそっと皇太子の様子をうかがいみた。
それはなぜか、咲夜だけではなかった。
この場の意識が、ひとつに集まっていた。
息を呑む音。伏せられる視線。場は静けさで満ちる。
誰もが皇太子の反応を、固唾を呑んで待っていた。
皇太子は、微動だにしなかった。
薄い微笑を浮かべたまま、まるで知らぬかのように座している。
決して気づいていないわけではないだろうに。
微笑は、もはや表情ではなかった。仮面のように、動かない。
周囲の緊張の糸がほどけ、さわさわと談笑が戻ってくる。
咲夜はただ、不気味に思えてならなかった。
やがて、雅楽の演奏が始まった。
咲夜がいる上級貴族の席と、皇太子の席との間に、少し空間がある。そこが舞台になっていた。
雅楽に合わせた舞が、次々と披露されていく。
月にはない音楽や舞に、咲夜ははじめ興味深く見入っていた。けれど三曲目にもなると、さすがに飽きてくる。
長く座り続けているせいで、足も痛くなってきた。
時親は開始時からほとんど動いていない。どうしてその姿勢がこれほど続くのか、コツがあれば聞いてみたいくらいだ。
それに。
咲夜はそろりと、正面に視線を戻した。
上座にいる皇太子もまた、まったく姿勢を崩さない。
二人とも特殊な訓練でも受けているのかもしれない。
ああ、早く終わらないかな。
咲夜は視線を落とし、ふと、考えた。
宴が終わったら、時親と一緒に辺境へ帰ることになる。
すぐ帰るわけではないと思うが、早めに綾子に面会をお願いして、感謝を伝えないといけない。
あれから何度か文のやり取りはしているが、綾子も皇太子妃という立場から忙しく、なかなか会うことができない。会えたとしても、短時間だけだった。
最後にもう一回、綾子と語り合いたいな。
曲が終わった。
「おお」
誰かが声を上げた。
咲夜はそれで、場の空気が切り替わったことに気づいた。
顔を上げれば、今まで微動だにしていなかった皇太子が、立ち上がっていた。
あれほど長く同じ姿勢だったのに、その影響は微塵も感じさせない。優雅な足取りで進み出る。
どうやら皇太子は、舞を披露するらしい。
「殿下の舞を、このような近くで拝むことができるとは」
「幸先がよろしいようで」
周辺の貴族たちが、ひそやかに囁く。
期待が、場に満ちていく。
咲夜はその正体を測りかねたまま、舞台に立つ皇太子を見た。
確かに彼は、美しかった。
衣装の色合わせ。小物の装飾。香の選定。
姿勢、立ち振る舞い。
ただ腕を上げるという動作にすら、隙がない。
きっと、ここまで洗練するには、長い時間と努力が必要だったはずだ。
それが生まれついてのものではないことは、咲夜にもわかる。
国を背負うという、同じ立場にあるからこそ。
その男は、雅楽が始まる直前、咲夜と目を合わせた。
「もう逃げられぬよ」
――と。
声は出ていない。それでも。告げられた気がした。
ぞわりと、背筋が粟立った。
よくない。そう思った。
言葉にならない何かが、咲夜の頭の奥を打つ。
咲夜は隣の時親を見た。
目の端に捉えた時親は無言で、皇太子の顔を見つめている。
その表情がほんの少しだけ険しい。
彼もこの、異様な空気を感じ取っているのか。
――音が、鳴った。
舞の始まりは、静かだった。
ゆるやかに、半分だけ開かれた檜扇。金箔が光を受け、きらめく。
描かれた流水が流れ出す。滑るように、足が運ばれる。
引いては戻し、戻しては開く。
遅れて、衣が揺れた。まるで風が吹いたかのように。
「ほう……」
「さすがは殿下」
感嘆が漏れる。
扇が返った。すべて開き切った。
紅。
流水の先に咲き誇るのは、梅だ。
檜扇から伸びる長い紐を、もう片方の腕ですくいあげて。
そこで、動きが止まった。
白い衣に、紅や紫苑、萌黄をまとめた緒が映える。
一本、するりと衣を撫でて落ちていく、その色の軌跡さえも。
目を逸らさなければならない気がしていたのに、気がつくと咲夜は息をするのも忘れて、舞に見入っていた。
言葉はいつしか消えていた。
貴族たちからも、御簾の内側にいる女性たちからも、一切の音が上がらない。
皆、ただただ、その舞に心奪われていた。
――だから、誰も動けなかった。
流れる視線が。
花びらを散らすような指先が。
大きく開いた爪先を引く、力強くも繊細な動きが。
次の瞬間、白い衣が、まるで雷に貫かれたように崩れ落ちたのを。
それすらも舞の一部のような気がして――。
しかし、舞手は立ち上がらなかった。
「……えっ?」
音が消えた。




