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月下恋歌  作者: 梨千子
第三章「君の、道」
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第二話「残響」

 白い袍に、じわりと赤い染みが広がった。


 咲夜はそれが何か、一瞬わからなかった。

 滲むように広がっていくそれが――血だと理解したとき。


「で、殿下ッ!」


 悲鳴と、誰かが膳を倒した音がした。

 綾子の声だ。


 悲鳴に引きずられるように視線を上げると、先ほどまで舞を披露していた皇太子の左上腕に、黒い矢羽が突き立っているのが見えた。


 ――射られた!

 

 場は騒然となった。

 皇太子に駆けつける者、逃げ出す者、うずくまる者。入り乱れる。


 隣の時親が立ち上がった。

 その視線が、矢からきざはし近くの柱の陰へと、一直線に流れる。

 すぐに彼の片手が腰に伸びた。しかし、いつも佩いている刀は今日、置いていっている。手が空を切った。

 時親は珍しく舌打ちすると、人並みを割るように駆けていった。


「ちょっ……どこに行くの!」


 咲夜は慌てて立ち上がったが、着なれない衣装に足を取られて、転びそうになった。

 

 舞台上では、御簾から姿を見せた綾子が、皇太子のそばに駆けつけていた。

 彼女の呼びかけに、皇太子が頷いている。意識はあるようだ。


「……もうっ!」


 咲夜は衣装を両手でつかむと、蹴とばすようにして走り出した。


 外に出ると、粉雪が舞っていた。

 土はうっすらと白くなっている。逃げ出した人々の慌てた足跡や、しりもちをついた跡が乱雑に残っている。

 その中でひとつ、乱れのない足跡を見つけた。まっすぐ躊躇なく進む足跡。

 咲夜はそれを追った。


 途中で、二つ目の足跡に気づいた。逃げるように乱れた足跡だ。

 その足跡を踏みつけるように、力強い足跡が重なっている。

 まさか、と追いかけた。


 ずいぶん遠くまで来てしまっている。見たことがある場所だ。

 建物の近くに並ぶ松。階についた斜めの薄い傷は、慣れない咲夜がつけてしまったもの。


 ならば、この足跡が向かう先には……。

 

 高い塀と建物に囲まれたそのくぼみには、井戸があった。

 井戸の前で、しゃがんでいる時親の背中が見えた。


「ちょっと……あんた、足、速すぎ……」

  

 はあ、と大きく呼吸するたび、白い息が上がる。

 咲夜は息を整えながら、時親に近づこうとした――が。


「来るな」


 時親の低く鋭い声で、思わず足を止めてしまった。


 彼の体の向こう。しゃがんだ背に隠れて、誰かがいる。

 

 まず見えたのは、人の足だった。だらりと力が抜けた足。点々とした赤黒い染みが、雪に滲んでいる。

 それから投げ出された手。赤黒く汚れる短剣を持っていた。

 井戸を背に、体を投げ出している。

 

 咲夜は息を呑んで、後ずさった。


「な……そ、その人……」

「殿下を射た、下手人だ。……自害した」


 時親はそれ以上、何も言わなかった。

 無言でその人物の体を改め、懐紙を取り出して、血まみれの短剣を拾い上げる。

 一度も咲夜の方を見ない。

 冷静というより、妙に静かだった。ただの下手人に向けるものには見えない。

 最後に、短い黙祷があった。

 

 時親は立ち上がった。

 その膝下は、溶けた雪と泥で汚れている。


「ゆこう。……少し、城に戻るのが遅れそうだ」


 その顔は、いつもよりも硬い。


 離れる間際、そっと振り返った。

 喉元を血で濡らしたその人物は、まだ年若い男性だった。目は閉じられている。

 雪の上に懐紙が敷かれ、短剣が置かれている。

 時親が整えたのかもしれない。



 ***



 その事件は、宮中に衝撃を走らせた。

 翌日から宮中は、皇太子暗殺未遂の話であふれた。


 咲夜たちも、無関係ではいられなかった。

 下手人の男は、咲夜たちの棟の井戸で死んでいる。

 縁起が悪いと棟を移された。

 時親は、自害の現場に居合わせたことで、毎日呼び出されていた。

 咲夜も自由に動き回ることはできなかった。


「咲夜様。文が届いております」


 一週間ほど、外出を控えていた。

 屋内では文字の練習くらいしかできない。何度も同じ文字を書いては、ため息をつく毎日である。


 そんな折に届いた文。

 咲夜に文を送る人物は限られている。


「綾子! ……よかった」


 紙からうっすら香る匂いに、ほっと息をつく。


 事件のあと、綾子の様子が気にかかり、文を送っていた。

 返事はなかなか来なかった。

 ……少しは落ち着いたのだろうか。


 綾子の文は、咲夜にも読めるよう、やさしい言葉で書かれている。

 それでも、読むのに時間がかかった。


「これ……ねえ、紗乃! ここ、読んで。お見舞い、来ていいって書いてあるよね?」

「……ええ、確かに。ですが……」

「じゃあ行こう! 早速返事を書かないと」

 

 紗乃は、わずかに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。


 お見舞い当日は、雨が降っていた。

 しとしとと降る雨は冷たく、吐く息は白く凍りついた。


 綾子のもとを訪ねるのは、もう何度目だろう。

 いつも通り上げられた御簾の中に入る。

 綾子は、すでに待っていた。


「綾子」

「咲夜様。お足元が悪い中、ご足労いただき……」

「もう。そういうのいいから」


 円座に腰を降ろすや、咲夜はすぐにじり寄った。


「大丈夫? あれから、大変だったよね」

「……はい。幸い、殿下の傷はそれほど深くありませんでした。あまり間を置かず、復帰できるものかと」


 綾子の顔は、ひどく白かった。

 化粧はされている。しかし、赤みの少ない頬や、目元のくま、ひび割れた唇は、完全には隠しきれていない。


「綾子、あなた、ちゃんと眠れている?」

「……」


 綾子はうつむいている。

 咲夜は言葉に詰まった。


 咲夜はさらに、膝が触れ合うほどにじり寄った。

 綾子の手を取る。とても冷たい。それを両手で撫でさすった。


「大丈夫よ、綾子。あなたの夫は、きっとすぐ元気になるわ」


 硬い指先をぎゅっと握る。自らの体温を分け与えるように。


「殺したって死なないような男じゃない。だから、大丈夫よ」


 そういうと、綾子は顔を上げて――ようやく、ふっと笑った。


「咲夜様……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 にっこり笑いあう。

 綾子はしばらく、つながった手に視線を落としていた。


「咲夜様が、御羨ましゅうございます」

「え?」

「大饗の席。殿下の前で、あのように凛と立てる方はそうおりません。わたくしには、とても……」

「ちょ、ちょっと綾子。何言ってるの? うらやましいって、あなたが、私を?」

「わたくしに、咲夜様の光の一片でもあったなら。そうすれば、もっと早く……殿下をお止めすることができたのかもしれません」


 綾子の手が、咲夜をつかみ返した。


「咲夜様。どうか。どうか、お逃げください」

「逃げるって――」


 綾子は笑った。


「どうぞ、咲夜様のお国へ。地上(ここ)に戻ってはなりません。もはや……」

「待ってよ、綾子。……よく、わからない」


 咲夜は、首を振る。

 綾子は泣きそうな顔をした。


 雨の音がした。

 さあさあと、訪れたときよりも少し強くなっている。


 綾子は手を離すと、自身の腹を守るように組んで言った。


「わたくしはいつも、手遅れでした。もう、悔いたくないのです」


 綾子は顔を上げた。「誰か」と。その一声だけで、控えていた侍女が現れる。

 いつもの面会の終わりを告げる合図だ。


「綾子」

「咲夜様、どうかご無事で。……短い間でしたが、とても、楽しゅうございました」


 咲夜は、言葉を続けられなかった。


 冷たい雨に打たれながら帰る。

 ぐるぐると、腹の中で気持ち悪いものがうねっている。

 咲夜だけが取り残されて、ひとりぼっちになってしまった気がした。


 何が起きているのか。誰も、咲夜には告げない。

 紗乃は、何かを言いかけては黙っている。

 時親は、いない。


「……別に、あいつがいなくたって」


 吐き捨てる。


 自害したあの若い男性。

 彼と向き合っていたときの、時親の様子。

 雪の中、黙祷の時間がやけに長く感じられた。

 

「困ってるって言ってくれれば、助けてあげなくもないのに」


 大饗ではうまくやれたはずだ。咲夜は自分の足だけで立った。


 時親が一言。困っている、と。

 ――そう言ってくれたら。

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