第二話「残響」
白い袍に、じわりと赤い染みが広がった。
咲夜はそれが何か、一瞬わからなかった。
滲むように広がっていくそれが――血だと理解したとき。
「で、殿下ッ!」
悲鳴と、誰かが膳を倒した音がした。
綾子の声だ。
悲鳴に引きずられるように視線を上げると、先ほどまで舞を披露していた皇太子の左上腕に、黒い矢羽が突き立っているのが見えた。
――射られた!
場は騒然となった。
皇太子に駆けつける者、逃げ出す者、うずくまる者。入り乱れる。
隣の時親が立ち上がった。
その視線が、矢から階近くの柱の陰へと、一直線に流れる。
すぐに彼の片手が腰に伸びた。しかし、いつも佩いている刀は今日、置いていっている。手が空を切った。
時親は珍しく舌打ちすると、人並みを割るように駆けていった。
「ちょっ……どこに行くの!」
咲夜は慌てて立ち上がったが、着なれない衣装に足を取られて、転びそうになった。
舞台上では、御簾から姿を見せた綾子が、皇太子のそばに駆けつけていた。
彼女の呼びかけに、皇太子が頷いている。意識はあるようだ。
「……もうっ!」
咲夜は衣装を両手でつかむと、蹴とばすようにして走り出した。
外に出ると、粉雪が舞っていた。
土はうっすらと白くなっている。逃げ出した人々の慌てた足跡や、しりもちをついた跡が乱雑に残っている。
その中でひとつ、乱れのない足跡を見つけた。まっすぐ躊躇なく進む足跡。
咲夜はそれを追った。
途中で、二つ目の足跡に気づいた。逃げるように乱れた足跡だ。
その足跡を踏みつけるように、力強い足跡が重なっている。
まさか、と追いかけた。
ずいぶん遠くまで来てしまっている。見たことがある場所だ。
建物の近くに並ぶ松。階についた斜めの薄い傷は、慣れない咲夜がつけてしまったもの。
ならば、この足跡が向かう先には……。
高い塀と建物に囲まれたそのくぼみには、井戸があった。
井戸の前で、しゃがんでいる時親の背中が見えた。
「ちょっと……あんた、足、速すぎ……」
はあ、と大きく呼吸するたび、白い息が上がる。
咲夜は息を整えながら、時親に近づこうとした――が。
「来るな」
時親の低く鋭い声で、思わず足を止めてしまった。
彼の体の向こう。しゃがんだ背に隠れて、誰かがいる。
まず見えたのは、人の足だった。だらりと力が抜けた足。点々とした赤黒い染みが、雪に滲んでいる。
それから投げ出された手。赤黒く汚れる短剣を持っていた。
井戸を背に、体を投げ出している。
咲夜は息を呑んで、後ずさった。
「な……そ、その人……」
「殿下を射た、下手人だ。……自害した」
時親はそれ以上、何も言わなかった。
無言でその人物の体を改め、懐紙を取り出して、血まみれの短剣を拾い上げる。
一度も咲夜の方を見ない。
冷静というより、妙に静かだった。ただの下手人に向けるものには見えない。
最後に、短い黙祷があった。
時親は立ち上がった。
その膝下は、溶けた雪と泥で汚れている。
「ゆこう。……少し、城に戻るのが遅れそうだ」
その顔は、いつもよりも硬い。
離れる間際、そっと振り返った。
喉元を血で濡らしたその人物は、まだ年若い男性だった。目は閉じられている。
雪の上に懐紙が敷かれ、短剣が置かれている。
時親が整えたのかもしれない。
***
その事件は、宮中に衝撃を走らせた。
翌日から宮中は、皇太子暗殺未遂の話であふれた。
咲夜たちも、無関係ではいられなかった。
下手人の男は、咲夜たちの棟の井戸で死んでいる。
縁起が悪いと棟を移された。
時親は、自害の現場に居合わせたことで、毎日呼び出されていた。
咲夜も自由に動き回ることはできなかった。
「咲夜様。文が届いております」
一週間ほど、外出を控えていた。
屋内では文字の練習くらいしかできない。何度も同じ文字を書いては、ため息をつく毎日である。
そんな折に届いた文。
咲夜に文を送る人物は限られている。
「綾子! ……よかった」
紙からうっすら香る匂いに、ほっと息をつく。
事件のあと、綾子の様子が気にかかり、文を送っていた。
返事はなかなか来なかった。
……少しは落ち着いたのだろうか。
綾子の文は、咲夜にも読めるよう、やさしい言葉で書かれている。
それでも、読むのに時間がかかった。
「これ……ねえ、紗乃! ここ、読んで。お見舞い、来ていいって書いてあるよね?」
「……ええ、確かに。ですが……」
「じゃあ行こう! 早速返事を書かないと」
紗乃は、わずかに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
お見舞い当日は、雨が降っていた。
しとしとと降る雨は冷たく、吐く息は白く凍りついた。
綾子のもとを訪ねるのは、もう何度目だろう。
いつも通り上げられた御簾の中に入る。
綾子は、すでに待っていた。
「綾子」
「咲夜様。お足元が悪い中、ご足労いただき……」
「もう。そういうのいいから」
円座に腰を降ろすや、咲夜はすぐにじり寄った。
「大丈夫? あれから、大変だったよね」
「……はい。幸い、殿下の傷はそれほど深くありませんでした。あまり間を置かず、復帰できるものかと」
綾子の顔は、ひどく白かった。
化粧はされている。しかし、赤みの少ない頬や、目元のくま、ひび割れた唇は、完全には隠しきれていない。
「綾子、あなた、ちゃんと眠れている?」
「……」
綾子はうつむいている。
咲夜は言葉に詰まった。
咲夜はさらに、膝が触れ合うほどにじり寄った。
綾子の手を取る。とても冷たい。それを両手で撫でさすった。
「大丈夫よ、綾子。あなたの夫は、きっとすぐ元気になるわ」
硬い指先をぎゅっと握る。自らの体温を分け与えるように。
「殺したって死なないような男じゃない。だから、大丈夫よ」
そういうと、綾子は顔を上げて――ようやく、ふっと笑った。
「咲夜様……ありがとうございます」
「どういたしまして」
にっこり笑いあう。
綾子はしばらく、つながった手に視線を落としていた。
「咲夜様が、御羨ましゅうございます」
「え?」
「大饗の席。殿下の前で、あのように凛と立てる方はそうおりません。わたくしには、とても……」
「ちょ、ちょっと綾子。何言ってるの? うらやましいって、あなたが、私を?」
「わたくしに、咲夜様の光の一片でもあったなら。そうすれば、もっと早く……殿下をお止めすることができたのかもしれません」
綾子の手が、咲夜をつかみ返した。
「咲夜様。どうか。どうか、お逃げください」
「逃げるって――」
綾子は笑った。
「どうぞ、咲夜様のお国へ。地上に戻ってはなりません。もはや……」
「待ってよ、綾子。……よく、わからない」
咲夜は、首を振る。
綾子は泣きそうな顔をした。
雨の音がした。
さあさあと、訪れたときよりも少し強くなっている。
綾子は手を離すと、自身の腹を守るように組んで言った。
「わたくしはいつも、手遅れでした。もう、悔いたくないのです」
綾子は顔を上げた。「誰か」と。その一声だけで、控えていた侍女が現れる。
いつもの面会の終わりを告げる合図だ。
「綾子」
「咲夜様、どうかご無事で。……短い間でしたが、とても、楽しゅうございました」
咲夜は、言葉を続けられなかった。
冷たい雨に打たれながら帰る。
ぐるぐると、腹の中で気持ち悪いものがうねっている。
咲夜だけが取り残されて、ひとりぼっちになってしまった気がした。
何が起きているのか。誰も、咲夜には告げない。
紗乃は、何かを言いかけては黙っている。
時親は、いない。
「……別に、あいつがいなくたって」
吐き捨てる。
自害したあの若い男性。
彼と向き合っていたときの、時親の様子。
雪の中、黙祷の時間がやけに長く感じられた。
「困ってるって言ってくれれば、助けてあげなくもないのに」
大饗ではうまくやれたはずだ。咲夜は自分の足だけで立った。
時親が一言。困っている、と。
――そう言ってくれたら。




