幕間「盤上の月」
睦月の月は、冴え冴えと高く、地上のすべてを冷ややかに見下ろしている。
澄み渡る空気の中、その光は刃のように鋭く庭に落ち、池のほとりの松を黒々と染めていた。
庭に面した部屋では、蔀戸と御簾の一部が上げられている。青白い光が差し込み、部屋の一角だけをまっすぐに照らしていた。
切り取られたようなその光の中に、囲碁盤がある。
すう、と白い手が差し入り、ぱち、と石が置かれた。
わずかな間を置いて、向かいから腕が伸びる。黒い石が、静かに応じた。
「……」
白は、長考に入ったようだった。指を口元に当て、盤面を真剣な目で見下ろしている。
黒はその間に、火鉢の鉄瓶へ手を伸ばした。黒と朱の椀に白湯を満たし、囲碁盤の脇の膳へ置く。
白い湯気が、月光に溶ける。
ぱちりと乾いた音を立て、白い石が盤に埋まった。
白湯を一口含んで、黒は、薄く笑う。
「また上達したのではないか?」
「そう――でしょうか」
「この鷹宮、芸事で嘘は言わぬよ」
男はじゃらりと音を鳴らして黒石を掴むと、白の攻撃を受け流すように盤面へ並べた。そうして、脇息にゆるりと寄りかかり、番を白に渡す。
「殿下は昔からお強いですから。宮中で殿下に勝てる者は、もはやいないのでは」
「それは買い被りすぎだな。私より強い者は多くいる。おまえが私を負かすほど強くなってくれれば、毎夜、退屈しなくなるのだがな、綾子」
「……そこまでの高みに登るのに、どれくらいかかるか」
綾子は、受け流された攻撃に対し、別の方面から圧力を加えんと白を指した。
白湯を飲んで一息つく。
白い湯気の向こうに、脇息に寄りかかって盤を見つめる鷹宮の姿があった。
深い夜。二人きりだ。
衣はわずかに崩れ、昼間には見せぬ気配をまとっている。手の中で碁石を弄ぶ癖は、今も昔も変わっていない。
鷹宮が袖を抑えながら、腕を伸ばし黒を打つ。
その手つきも盤面を打つ石の音も、すべてが作られたかのように優雅で、綾子はついそれを目で追ってしまった。
白を打てば、あまり間を空けずに黒が打ち込まれる。
ひらりひらりと、綾子の攻撃は、まるで男の舞のようにいなされ、力を失っていく。
何とか抵抗してみたが、黒が手を重ねるたび、綾子の白は千々となってしまった。
「……ありません」
盤面は黒の圧勝である。
これ以上は覆るまいと、綾子は一礼し、自らの負けを認めた。
「まだだよ綾子」
ふわりと鼻先に届いた伽羅の匂いに、綾子は顔を上げた。鷹宮は、脇息から身を起こして、黒漆の碁笥を差し出している。
「せっかくの夜だ。まだ中盤に差し掛かったところだろう。もっと私を楽しませておくれ」
そうして、碁笥は静かに入れ替えられた。
盤面はそのままに、黒を綾子が、白を鷹宮が預かる形で、囲碁は続いた。
普段より饒舌な男に付き合って、綾子はいくつかの話題に返答した。
もうすぐやってくる新年のこと。
二人で出席する儀式のこと。
宴で身につける衣装の色合わせ。
「――あの鳥は、もう鳴いたか?」
ふと、思い出したように鷹宮が聞いた。
「いいえ」
鷹宮から贈られた鳥は、部屋の隅で静かに眠っている。昼間はチチチと鳴くが、春を呼ぶ鳴き声は、まだもう少し先だろう。今はまだ寒すぎる。
「あれが鳴いたら、春はすぐそこだな」
「……そうでございますね」
そこで会話は切れた。
ぱち、ぱち、という石のやり取りは続いていたが、自然と二人は黙り込んでいた。
黒が支配する領域に、白が切り込む。
その石から指先を放すと、鷹宮はすいと、空高く昇る月を見上げた。
綾子は、月光に映し出される男の横顔を見て、思わず目を伏せる。
手が勝手に、腹部を撫でた。
鷹宮の考えていることが、この時ばかりはわかるような気がした。
はるか遠くの、色鮮やかな日々がよぎる。
しかし、そこに踏み込めば、また――。
言葉はまるで、白湯の湯気のように、夜の帳にとけて消えてしまうから。
綾子は黙り続ける。
それでも長い年月を共に生きて、明らかになったことがある。
囲碁盤を挟んで過ごすこの時間が、一番、穏やかに流れるということ。
黒石を持ち、白の切り込みに応じると、白はさらにもう一歩踏み込んできた。
痛烈な踏み込みだ。迷いのない一手だった。
盤は、すでに終盤へと傾いていた。
綾子が崩れなければ、きっと黒の勝利で終わるだろうけれど、白は強い意志を見せている。
どう転ぶかは、まだ見えなかった。
思案していると、ふふふと空気が揺れた。鷹宮が喉を震わせたのだ。
顔を上げると、視線が合った。
「ひとつ、賭けをしよう。綾子」
「賭け、でございますか?」
「ああ。この盤面」
彼は手のひらで、囲碁盤を指し示す。
「ここから、ひっくり返せれば私の勝ち。このまま守り通せれば――綾子、おまえの勝ち」
綾子はじっと盤上を見つめた。
彼我の実力差は明白である。しかし、盤上は黒が優勢で、鷹宮の勝利はほとんど見えない。
「……賭けるものは?」
「なんでもよいさ。おまえが勝ったら、好きなものを贈ってやろうか。鼈甲のかんざしか、誂の衣か。おまえのために香を合わせてもよい」
そう言ってから、彼は脇息の縁を指先でなぞる。
「私が勝ったら、そうだな」
視線が流れた。
部屋の奥、軽やかな鳥籠が静かに置かれているのを見つける。
「――歌を。あの鳥が鳴いた折の歌を、私に贈っておくれ」
それは、男が滅多に口にしたことのない約束だった。
なぜ、と一瞬思ったが――。
結局、綾子は黙った。
そうして二人は、賭けをした。
冴えた月の下、石が盤上で跳ねる音が、静かに響いていた。




